第9話 狂爪大熊・その2
音を置き去りにする【狂風刃】がルーカスに迫った。《聖盾》は主を護らんと立ちはだかるが、回転しながらギギリと抉ってくる刃に、甲高い悲鳴をあげていた。
(耐えろっ! 耐えろぉぉ‼︎)
風の轟音が耳を劈く中、ルーカスは必死に魔力を注いだ。魔力が供給されるかぎり、《聖盾》の発動は持続するからである。
けれど、それはあくまでも理論上の話だ。現に、ルーカスのペンダントは火花を散らしていた。刻まれた魔法陣が赤熱し、ひび割れるように光を放っている。
(くそっ! 魔法陣の消耗が激しい‼︎)
魔法発動の媒介たる「魔法陣」が、魔素反応の負荷によって焼き切れはじめているのだ。完全に回路が潰れれば、《聖盾》は消え去ってしまう。
破壊されるも解除されるも、いずれも時間の問題。
その先に待つのは——「死」のみだ。
「うおぉぉぉ‼︎」
最悪の事態を予測したルーカスは、必死の形相で、力いっぱい《聖盾》の向きを変える。方向は——「上」だ。
シュバァァァッ‼︎
逸れた回転刃が天に飛んでいく。そのまま雲を裂き、遂に刃の魔力色も消えていった。
途端に、ペンダントからバチッ!と激しい音が鳴り、《聖盾》が霧散していった。魔法陣が完全に焼き切れたのだ。
「間に……合った……っ!」
肩で息をしながら、ルーカスは辺りを見渡す。
草花茂る地面は傷痕を残し、後ろから重々しく軋む音が響く。抉られた木々が、体幹を崩して倒れはじめていた。
(一撃で……ここまで……)
見るも無惨な光景に、ルーカスは戦慄を隠せなかった。
と……動揺していたのも束の間、鋭い殺気が彼を射抜く。
「……っ⁉︎」
土埃が晴れた先で——大熊がこちらを見据えていた。その視線は、必殺の一撃を喰らってもなおしぶとく生き延びた獲物への怒りに満ちていた。
「グルルルゥゥ……」
ゆっくりと、大熊が足を踏み出した。
「……っ⁉︎」
ルーカスは咄嗟に後退しようとするも、殺気に気押され、身体が言うことを聞かない。
防御の手段も、避ける余力も、もはや残っていない。
——万事休す。
(もう……駄目か……)
思えば、無謀な戦いだった。戦力不足だと自覚しながら、僅かな隙に希望を見出し、突き進んだのが運の尽きだ。
意識が遠のく中、改めて痛感する。
ジンの言ったように———「役立たず」だったと。
「グルアァウゥッ‼︎」
大熊が腕を振りかぶる。
——その瞬間。
空気が、裂けた。
バシュッ‼︎
乾いた破裂音とともに、緑の影が横切る。次の瞬間、大熊の巨体が横殴りに吹き飛ばされ、土と木片を撒き散らしながら地面を転がった。
「……えっ?」
困惑するルーカス。不意に、別の蔓が彼の身体を優しく包み込み、しかし手早く、その場から引き離した。
運ばれた先は、蔓でできた小型ドーム。張り詰めた声が彼の耳元で木霊した。
「大丈夫、絶対に死なせない……!」
声の主はシルヴィだった。
「恵みの朝露よ、生命を育む雫とならん——《癒しの雫》」
彼女がそう唱えると、手のひらに現れた淡い黄緑色の雫がぽたりと落ち、ルーカスの身体に染み込んだ。
(これは……!)
驚きに目を見開くルーカス。ひんやりとした感触が身体を伝ったかと思うと、焼け付くような痛みと熱が、嘘のように引いていく。
恐る恐る骨折した箇所に触れると、痛みは感じられず、元通りに治っていた。
(今のって、回復魔術……? どうして、この子が……?)
その理由を求めるように、眼差しは自然とシルヴィへと向いた。回復魔術は、聖母教会の管轄下にある神官職しか使えないはずだ。しかし、彼女は先ほど蔓の魔法を使っていたはず……
そんな疑問を抱えたまま、ルーカスが身体を起こすと、シルヴィがほっとしたように息をついた。
「よかった……ちゃんと効いた……」
「ありがとう……。でも、どうして……逃げなかったの?」
その問いに、シルヴィは一瞬だけ目を逸らし、後ろめたそうに答えた。
「……もちろん、怖いし……逃げようとも思った。でも……助けてくれたのに、見殺しになんて……できない……」
俯いたまま、今度はシルヴィが問い返す。
「そっちこそ……なんで助けたの……アイツを呼び寄せちゃったのは……私なのに……理由も聞かずに、いきなり打ったりしたのに……」
乱暴な振る舞いを思い返し、シルヴィの表情が暗くなる。助けられる義理などない。彼女自身が、それを一番よく分かっていた。
だが、ルーカスはあっさりと答えた。
「なんでって……死なせたくないって思っただけだよ。たしかに打たれたのは痛かったけど、それを理由に見殺しにしていいとは思わないからね」
もっとも、その言葉にはもう一つの本音も含まれていた。
人が死ぬ瞬間を見たくなかった。ただ、それだけだ。
誰だってそうだろう。他人の死を目の当たりにしては、きっと後味の悪さが残る。
「グルァァァ‼︎」
怒りを孕んだ咆哮が、再び森を震わせた。
「ッ……! 今は、この状況を切り抜けるのが先だ!」
「切り抜けるって……どうやって‼︎」
シルヴィの顔に焦燥と困惑が滲む。彼女は木陰から、ルーカスの戦いをある程度見ていた。今から迎え撃つのも、背を向けて逃げるのも、もはや現実的ではない。
「私も……効きそうなものを生成してみたけど……」
シルヴィは背後を振り返る。そこには、さまざまな木の実や、毒々しい色合いの花が雑多に並んでいた。
「……どれも、役に立たなさそうで……」
希望のない呟き。
だが——その中の一つに目を留めた瞬間。
ルーカスの中で散らばっていた思考が、一気に繋がった。
「これだっ‼︎」
アイデアが形になるやいなや、ルーカスはシルヴィの手を取った。
「力を貸してほしい。錬金術を使えば、アイツを倒せるかもしれない」
「えっ? えぇ〜っ⁉︎ ど、ど、どういうこと⁉︎」
シルヴィが困惑しながらも問い返す。突然手を掴まれたせいか、わずかに頬を赤らめていた。
「えっとね……これだ」
ルーカスは生成物の中から、ひとつの赤い実を指差す。
「それ? 辛いやつだよね? 中身がちょっと……ギトギトしてるの」
「そうそう! バーンの実だ。この実を加工すれば——武器になる」
説明は端的だったが、シルヴィはなおも首を傾げる。
「加工って……何をする気なの? まさか……アイツの口に放り込むつもり?」
「口に、じゃない。鼻だ。これを粉末にして———」
ドゴンッ‼︎
「ひゃあっ⁉︎」
言葉を遮るかのように、ドームに激しい振動が走った。どうやら、大熊が隠れ場所に気づいたらしい。
「ッ⁉︎ ともかく、僕が合図をするまでアイツの動きを止めてくれ‼︎」
「う……うん!」
シルヴィはコクリと頷くと、ドームの裏側から飛び出した。両手を突き出し、蔓の魔法を行使する。
「こっち‼︎」
張り上げた声に、大熊の視線が引き寄せられる。だが、視線を合わせたのは一瞬のことだった。
次の瞬間、極太の蔓が大地を割って噴き上がり、大熊の四肢に絡みつく。
「グォッ⁉︎」
メキメキ、嫌な音が響く。締め上げられた四肢に、大熊は苦悶の声を上げた。だが、巨体は伊達ではない。腕が不自然に膨張し、筋肉が盛り上がる。ミチミチと軋む音とともに、蔓が引き裂かれはじめていた。
「お……重い……‼︎」
魔力を介して伝わる負荷に、シルヴィは思わず顔を歪めた。膝が震え、喉から苦しげな声が漏れる。
「このっ……‼︎」
それでも歯を食いしばり、さらに魔力を注ぎ込む。蔓は再び締まり、大熊の動きを——かろうじて押し留めた。
一方、ルーカスは黙々と手を動かしていた。幸いにも、シルヴィが荷物を守ってくれていたおかげで、錬金釜が使えた。
(水分を飛ばして……辛味油を抽出……それから……)
釜の中で、赤い実は形を失い、刺激臭だけが濃くなる。
時間がない。
蔓が軋む音を背に、彼は最後の工程に踏み込んだ。
「グルォォンッ‼︎」
巨体が荒ぶる。巻きついた蔓が嫌な音を立て、今にも引き裂かれそうになっていた。
「うっ……も……もう無理ぃぃ‼︎」
先に音を上げたのはシルヴィの方だった。負荷に耐えられず、途端に力が抜ける。
同時に、四肢を束縛していた蔓が一斉に崩れ落ち、大熊の自由を許してしまう。
「グガァァァァ‼︎」
怒りをさらに上乗せした咆哮。完全に凶暴化している。
大熊は身体を揺さぶると、両手をあげて鼻息を荒くする。風が再び——集まりはじめた。
(また……アレが来るの⁉︎)
シルヴィの顔から、血の気がさっと引く。
(早く来て……お願い‼︎)
そう願った直後、待ち侘びた声が聞こえた。
「シルヴィ‼︎ 離れてっ‼︎」
木陰から飛び出したルーカスが、薄地の袋を大熊へ投げつける。足元で破裂した袋から、赤い煙が上がり——大熊に集まる風の流れに乗って、吸い込まれていく。
「グルッ⁉︎ ゴッガウゥゥ‼︎」
異物が入りこんで、咽せはじめた大熊。悶絶するその様子を伺いながら、ルーカスはさらなる追い討ちをかけた。
「よく覚えておくんだな。バーンの実には——火気厳禁だ‼︎」
投げられたのは、【灼熱剣】だ。
ドッガァァァァンッ‼︎
凄まじい光とともに、爆炎が渦巻いた。
「グガガガガガァァァァァァッ‼︎」
灼炎の中で影が踊る。
やがて火勢が衰えた頃、断末魔はぷつりと途切れ、丸焦げになった巨体がぐらりと崩れ落ちるのだった……。




