第66章 ―― Nの塔
王が立ち上がる数分前――。
王国の辺境、かつてのドリーム・デザートを思わせる砂漠地帯。
巨大な砂嵐があたり一帯を飲み込み、視界を完全に奪っていた。あまりにも激しい暴風の中、赤みを帯びた光を放つ一つの人影だけが、悠然と空を飛んでいた。
「ちっ……この砂嵐め! 何も見えない!」
しばらく飛び続けると、ようやくその先に巨大な建造物が姿を現した。
それは、天を貫くほどの超巨大な塔だった。
無数の極太ケーブルが大地と塔をつなぎ、その異様な姿はまるで世界そのものを支えているかのようだった。
「ようやく見つけた!」
男は一気に塔へ接近すると、その外壁を覆う巨大な金属板へ拳を叩き込んだ。
衝撃とともに金属が大きく揺れ、拳が触れた部分は高熱によって溶け落ちる。
男はそのまま内部へ飛び込んだ。
塔の中は無数の工業用照明によって照らされていた。
まるで巨大な工場のような空間だった。
男は迷うことなく最寄りの扉へ歩み寄り、それを勢いよく開け放つ。
すると、その先には待合スペースが広がっていた。
車輪を足代わりにした一体のロボットが滑るように近づき、機械的な声で告げる。
「通信手続きを開始します。しばらくお待ちください。」
男は苛立ちながら口を開く。
「奴は――」
しかしロボットは最後まで聞こうともせず、そのまま続けた。
「ようこそ、Nタワーへ。私はRING型、機体番号070002。お客様のご案内を担当いたします。」
その瞬間、男の怒りが爆発した。
真紅の肌と長い赤髪が炎となって燃え上がる。
「奴はどこだァッ!!」
怒号が塔全体を震わせた。
その直後――
♪ Ding Dong ♪
軽快な電子音が鳴り響く。
続いて、天井各所に設置されたスピーカーから別の男の声が流れた。
「もういい、070002号。彼をこちらへ通せ。」
「承知しました。」
070002は静かに応答し、男へ向き直る。
「こちらへどうぞ。」
男は舌打ちしながらもロボットの後をついて歩き始めた。
二人は研究施設のような長い廊下を進む。
周囲には事務室らしき部屋が立ち並び、機械音や薬品を処理する装置の駆動音が絶えず響いていた。
やがて、一基の巨大なエレベーターへ到着する。
070002が起動すると、中には同型の別個体が待機していた。
「私の任務はここまでです。以降は同僚がご案内いたします。」
男は無言のままエレベーターへ乗り込む。
扉が閉まり、ゆっくりと上昇を始めた。
すると、内部にいたロボットが口を開く。
「ようこそ。私はRING型――」
「黙れッ!!」
怒鳴り声とともにロボットは沈黙した。
エレベーター内には心地よいBGMだけが流れ続ける。
だが、その穏やかな音楽さえ男の神経を逆撫でしていた。
沈黙。
長い。
あまりにも長い。
やがて男は耐え切れず叫ぶ。
「まだ着かないのかァ!!」
ロボットは淡々と答えた。
「現在、最高速度で上昇中です。これまで六階分上昇し、現在三十階となります。」
男の眉がぴくりと動く。
「……あと何階だ。」
「残り百五十階です。」
「……はぁ!?」
次の瞬間。
巨大な紅蓮の翼が男の背から一気に広がった。
轟音。
男は天井へ向かって一直線に飛翔し、エレベーターの天井を粉砕する。
全身から放たれる高熱が回路を次々と溶かしながら、彼は各階層を凄まじい速度で突き抜けていった。
そして――
最上階へ到達した瞬間。
静寂の質が変わった。
下層の機械的な静けさとは違う。
秩序だった静寂。
あまりにも清潔で、
あまりにも制御された空間。
目の前には、外観からは到底想像できないほど広大な空間が広がっていた。
まるで塔の内部そのものが、外側の大きさという概念を拒絶しているかのようだった。
床は黒く滑らかな物質で覆われている。
液体にも見えるその材質は、光を反射せず、まるで吸収していた。
歩くたびに、足跡そのものを記録しているかのような感覚が伝わる。
周囲を囲む巨大なガラス壁は、外の景色を映してはいなかった。
代わりに、
数値。
名前。
領域。
幾重にも重なる現実。
膨大な情報が絶え間なく流れ続けている。
空間の中央には巨大な円形施設。
その中心に、一つの執務机が置かれていた。
そこには、一人の男が静かに腰掛けていた。
先ほどスピーカー越しに話していた人物である。
男はゆっくりと立ち上がり、穏やかな口調で言った。
「これ以上、私の設備を壊すのは控えてもらいたいものだ……ヴァッサル、イカル。」
イカルは一歩前へ踏み出し、机の向こうに立つ男を鋭く睨みつけた。
「ニュートン! 話がある!」
ニュートンは落ち着き払った様子で微笑み、軽く肩をすくめる。
「そんなに慌てなくてもいいだろう。ここまで何キロも飛んできたんだ、疲れているはずだ。まずは美味しいデザートでも食べながら話そうじゃないか。」
イカルは苛立ちを隠そうともせず怒鳴った。
「そんなことをしている暇はない! 黄衣の王の王国が、未曾有の大規模テロ攻撃を受けているんだぞ!」
ニュートンはため息混じりに苦笑した。
「まったく……どうして君はいつもそんなに怒っているんだ? また奥さんに昨夜やり込められたのか?」
「ニュートン!! ジュールはどこだ!!」
「また家出かい? それは困ったね。」
「ここにいることくらい分かっている! あいつは家出するたびに必ずここへ来るんだ!」
ニュートンは首をかしげた。
「待ってくれ。王国始まって以来、三百年で最大級の危機が迫っているというのに……君が気にしているのは娘のことなのか?」
イカルは眉をひそめた。
「……何の話だ?」
ニュートンの表情から笑みが消える。
「シグナルが極めて不安定になっている。エネルギー保存領域は深刻な飽和状態だ。それだけじゃない。王国の至る所で未知のエネルギー反応が確認されている。」
イカルは目を見開いた。
「何だって!? どうして私は何も知らされていないんだ!」
その瞬間――
塔中に警報が鳴り響いた。
赤い警告灯が一斉に点滅し、すべてのモニターが真紅へ染まる。
《警報》
《保存領域飽和》
《システム障害発生》
緊迫した空気を切り裂くように、机の上に置かれていた古びた電話が突然鳴り始めた。
リン……リン……
ニュートンはすぐに受話器を取り上げる。
短く相手の話を聞くと、何も言わず静かに電話を切った。
イカルは苛立ちながら問い詰める。
「おい、ニュートン! 何をしている!? 一体何が起きた!」
ニュートンはすぐ近くのシステム端末へ向かい、淡々と命令を下した。
「システム。王国内すべての拡声装置へ接続。出力を最大まで上げろ。王国中の住民全員に聞こえるように。」
機械音声が即座に応答する。
「了解しました。処理を完了しました。」
ニュートンは卓上マイクを手に取った。
静かに息を吸い込み、王国全土へ向けて放送を始める。
「緊急警報。
黄衣の王が玉座を離れ、現在移動を開始しました。
進路上にいる者は直ちに避難してください。
規定手順に従い、数千キロ以上離れた地点まで退避し、最寄りの専用シェルターへ避難してください。」
放送が終わるや否や、イカルはマイクを奪い取った。
「おい、貸せ!」
そして王国中へ向けて怒鳴り散らす。
「ジュール!!
今すぐ家へ帰って来い!!
それからヘリオス!!
お前は絶対に家へ戻るな!!
今こそ動く時だ!!
王より先に――ダンテの首を持って帰って来い!!」
その怒声は、王国中へ響き渡った。
――その頃。
黄衣の王は、静かに歩き続けていた。
王は小さく息を吐き、穏やかな口調で呟く。
「……ただ散歩をするだけなのに。
あそこまで大騒ぎする必要があったのかな。」
再び――Nの塔。
イカルは巨大な紅い翼を広げると、そのまま一瞬で飛び去っていった。
轟音だけを残し、その姿はすぐに砂嵐の彼方へ消えていく。
数分後――
ニュートンは静かに呟いた。
「……よし。
もう行ったようだ。」
その言葉と同時に、部屋の奥に落ちていた影がゆっくりと揺れた。
暗闇の中から、一人の少女が姿を現す。
「ふぅ……助かりました。
もう少しで見つかるところでした。
ありがとうございます、師匠。
もう少しだけ、ここに置いてください。」
ニュートンは苦笑しながら首を振る。
「だから、その『師匠』という呼び方はやめなさい。
……それに、助かっているのは私の方だ。
君は本当によく手伝ってくれている。」
少女――ジュールは嬉しそうに微笑んだ。
「でも、私が知っていることは全部、師匠が教えてくれたことです。
だから、私にとっては、ずっと師匠なんです。」
そう言うと、彼女は少し表情を引き締めた。
「それと……
最終調整が完了しました。
《デウス・エクス・マキナ》モデル。
いつでも運用可能です。」
ニュートンは静かに目を閉じ、小さく頷いた。
「……そうか。」
そして、ゆっくりと微笑む。
「完璧だ。」




