第57話:ハーヴェイの記憶《ハーヴェイ?》
強い風が吹いていた。
気がつくと、俺は何か動いているものの上に横たわっていた。
数秒もかからず理解した。
フェンリルの背中の上だ。
俺はゆっくりと視線を上げ、凍りついたような空を見つめた。
幸い、この世界の二つの天体は今夜ひときわ明るく輝いており、地上をぼんやりと照らしていた。
フェンリルは俺が目を覚ましたことに気づいていた。
だが、何も言わない。
ただ走り続けている。
奇妙な静けさが流れた。
だがそれは、不思議と心地よい静けさだった。
遠くでは、得体の知れない生き物たちの気配がかすかに響いている。
まるでこの世界そのものが、闇の中で息をしているかのようだった。
やがて、俺は口を開いた。
ハーヴェイ:
「フェンリル…」
フェンリル:
「…なんだ?」
ハーヴェイ:
「強くなりたい」
フェンリルは岩をいくつも飛び越えながら、速度を落とさずに答えた。
「どうしてだ?」
俺はすぐには答えなかった。
拳をわずかに握りしめる。
フェンリルは静かに言った。
「強くなるには“目的”がいる。
それがなければ、お前は何にもなれん」
短い沈黙。
そして――
ハーヴェイ:
「復讐だ。
あいつらに見せつけたい。俺はもう必要ない存在じゃないって。
俺の手で…全部、消してやる」
フェンリルは走るのをやめない。
だがその声は低くなった。
「その目的でも強くはなれる。
だが――俺には届かん」
ハーヴェイ:
「お前みたいに強いやつは…何のために強くなったんだ?」
しばらくして、フェンリルは高台で足を止めた。
その先には――
小さな村。
フェンリル:
「見ろ。
あれが俺の理由だ」
ハーヴェイ:
「…俺、動けないんだけど」
フェンリルは俺を背中から降ろし、軽くくわえて視線を村の方へ向けさせた。
「よく見ろ」
ハーヴェイ:
「…あれが?」
再び背中に乗せられる。
フェンリル:
「ああ。
昔――俺の主は俺をここに残した」
その声はどこか静かで、重かった。
「この村を守れ、と。
自分が戻るまでな」
少し間を置いて、続ける。
「こいつらは臆病だ。
いつも赤い頭巾で顔を隠している」
ハーヴェイ:
「…何も見えない」
フェンリル:
「まあいい」
そして――
「お前を強くしてやる」
それから、俺の新しい生活が始まった。
年月が流れた。
俺はこの奇妙な世界で生きた。
謎の医者、アリアは俺の治療を続け、
やがて俺は完全に回復した。
彼女は自分の言葉も教えてくれた。
だが――
どこかおかしい女だった。
好奇心が強く、夢見がちで、
いつも“上の世界”の話をしていた。
そこへ行く方法を探し続けていた。
そして俺も――
それに付き合っていた。
当然、フェンリルは面白くなさそうだったが。
回復後、フェンリルは俺の訓練を始めた。
村の周囲を巡回し、
時には狩りをし、
戦い続けた。
俺は確実に強くなっていた。
だが――
心の奥の怒りは消えない。
むしろ、増していた。
ある日。
アリアが俺を呼び出した。
「見つけたの!」
フェンリルが眠っている隙に、俺は彼女の元へ向かった。
場所は山の頂上。
ハーヴェイ:
「ここで何を?」
アリア:
「上を見て」
ハーヴェイ:
「…何もない」
アリア:
「よく見て」
目を凝らす。
そして――
ハーヴェイ:
「…あれ…」
声が震える。
「この山…空に触れてる…」
アリアは笑った。
「そういうこと!」
俺はため息をつく。
ハーヴェイ:
「もう驚く気力もない…」
アリアはロープを取り出した。
「計画はシンプルよ。
これで繋がって登って――」
ハーヴェイ:
「で?」
アリアは袋から取り出した。
「ジャーン!ハサミ!」
ハーヴェイ:
「……は?」
アリア:
「空を切るのよ!」
沈黙。
ハーヴェイ:
「帰る」
アリア:
「待って!特別製だから!」
近づいてくる。
「ねえ、やるでしょ?ダーリン?」
ハーヴェイ:
「その呼び方やめろ…
…もういい、やるぞ」
登攀が始まった。
過酷だった。
途中――
ハーヴェイ:
「なんでそこまでして上に行きたい?」
アリア:
「だってここ、つまんないんだもん――」
足を滑らせる。
「きゃっ!」
俺は咄嗟に掴んだ。
アリア:
「ありがと!
それでね、上の世界ってすごいんでしょ?」
彼女は不満そうに言う。
「ここは全部めちゃくちゃ。
壊れた絵みたい」
ハーヴェイ:
「でもフェンリルが――」
遮られる。
「もうそれ聞き飽きた!」
ため息。
「危ないからここにいろ?安全?
笑わせないで」
ハーヴェイ:
「上に行ったらどうする?」
アリアは笑う。
「結婚してあげる」
ハーヴェイ:
「いらない」
アリア:
「冗談よ」
空を見上げる。
「上にはね、すべてを知る存在がいるって伝説があるの」
小さく呟く。
「でもそれは“呪い”でもある」
「白い仮面をつけた存在…」
沈黙。
「会ってみたいの」
やがて、頂上に到達した。
アリア:
「さあ、やって」
ハーヴェイ:
「待て…本当に行けたら…」
拳を握る。
「戻る覚悟がない…」
アリア:
「ここが帰る場所でしょ?」
ハーヴェイ:
「…フェンリル…」
アリア:
「気づかないって」
ハサミを構える。
そして――
「待って…」
ハーヴェイ:
「?」
アリア:
「触れる…
クモの巣みたい」
彼女は空に触れた。
震える。
「本物だ…」
切る。
だが――
「切れない!」
ハーヴェイ:
「貸せ」
試す。
無理だった。
「ダメだ…」
アリア:
「いいえ。
始まりよ」
その時――
轟音。
憎悪の声。
???:
「ダンテェェェェェ!!」
すべてが止まる。
そして――
フェンリルの咆哮。
「アオオオオオオオ!!」
空が裂けた。
無数の霊体が降り注ぐ。
「ダンテェェェ!!」
だが――
それだけではなかった。
その中に。
一つの影。
人の形をした何かが――
落ちてきた。
ハーヴェイ:
「なんだ…あれ…」
「アリア!氷の結界!」
瞬間――
砕けた。
飲み込まれる。
「うわあああああ!!」
世界が崩壊する。
俺は上へ引きずられた。
アリアが掴む。
「無理!」
そして――
離れた。
空は閉じた。
俺は昇り続けた。
やがて――
何かにぶつかる。
上には“地面”。
掘る。
掘る。
掘り続ける。
時間の感覚が消える。
そして――
光。
這い出た先に――
一人の女性。
その声。
???:
「ハーヴェイ…」




