第9話 殿下からの贈り物
リリアが王太子宮へ戻ったころには、窓の外が薄い金色に染まり始めていた。
すぐにアルフレッドとの面会を願い出ると、執務室へ通された。
アルフレッドは、大夜会に関する書簡へ目を通しているところだった。机の端には、返事を待つ招待客の一覧が積まれている。
「エレノアは、何と?」
リリアが椅子へ座るより早く、アルフレッドが尋ねた。
「教師の方々へ、もう一度お願いしてくださることはできないそうです」
「やはり、まだ怒っているのか」
「怒っているからではありません」
リリアは膝の上に抱えていた革の書類入れを、机へ置いた。
「もう、その役目ではないからです」
アルフレッドの眉が寄る。
「教師たちの連絡先は、母上の宮へ渡してあるはずだ。エレノアから一言頼んでくれれば、話が早い」
「その一言を、もうお願いしないと仰っていました」
「君が困っていると伝えても?」
「お伝えしました」
リリアは書類入れを開いた。
最初に取り出したのは、教師たちが作成した学習記録だった。
続いて、エレノアが返してくれた二枚の覚え書きを並べる。
アルフレッドは、自分の筆跡を見て目を止めた。
『リリアに、春の大夜会で最も美しく見えるドレスを用意してほしい。』
『リリアが人前で困らないよう、よい教師を付けてほしい。』
「これは、私がエレノアへ送ったものだ」
「はい」
「君のために頼んだ」
アルフレッドは、なぜそれを改めて見せられているのか分からないようだった。
リリアは覚え書きの下へ、工房との契約書を置いた。
アルフレッドが最初の頁をめくる。
注文主の欄にあるのは、エレノアの名だった。
次の頁には、ドレスに使用する布と装飾品。さらにめくれば、仮縫いまでに支払われた金額が記されている。
アルフレッドの指が止まった。
「エレノアが、支払っていたのか」
「ご存じなかったのですか?」
「王太子宮へ請求が来たことはない」
「エレノア様は、殿下から代金のお話をいただいていないと仰っていました」
執務机の横に控えていたジェラルドが、契約書をのぞき込んだ。
「公爵家からの注文にして、あとで王太子宮へ付け替えるつもりだったのではありませんか」
「婚約が続いていれば、そうなさったかもしれません」
リリアは答えながら、自分の言葉が苦しくなった。
婚約が続いていれば。
アルフレッドと自分の関係を隠すために、エレノアは婚約者の立場を使った。
その婚約を終わらせると発表した夜、二人はエレノアへ何も告げなかった。
それでも翌朝になれば、エレノアが以前と同じように動くと思っていた。
「白いドレスは、殿下からの贈り物だと思っていました」
「そのつもりだった」
アルフレッドはすぐに答えた。
「私が君へ贈りたいと思い、エレノアに用意を頼んだのだから」
リリアは、卓上の契約書を見た。
「あのドレスに使われる布を、殿下はご覧になりましたか?」
「いや」
「刺繍の模様は?」
「エレノアに任せた。彼女は、そういうものに詳しい」
リリアはそれ以上尋ねなかった。
書類へ目を落としたアルフレッドも、何も言わなくなる。
そのとき、扉の外から侍従の声がした。
「失礼いたします。殿下がお求めになった、贈答記録をお持ちいたしました」
「入れ」
老侍従が、細長い帳面を抱えて入室する。
王族が公費や個人歳費から誰かへ品物を贈るときは、受取人と品物、支払い元を記録する決まりになっている。
帳面を受け取ったアルフレッドは、今年の頁を開いた。
新年に国王へ贈った酒杯。
クラウディアの誕生日に贈った首飾り。
学院を卒業した従弟への記念品。
日付と品物の横には、アルフレッドの署名がある。
何頁めくっても、リリアの名はなかった。
「記載が漏れているのではないか」
「王太子宮から工房への注文も、支払いも確認できませんでした」
老侍従は静かに答えた。
「白いドレスは、帳簿の上ではグランフェルト公爵令嬢からベルナール男爵令嬢への贈答品となります」
リリアは息を止めた。
そんなつもりではなかったと、すぐに言いたかった。
エレノアからドレスを贈られたのではない。
アルフレッドが、自分のために用意してくれたのだ。
けれど、その言葉を裏づけるものは、どこにもなかった。
あるのは、アルフレッドの短い覚え書きと、エレノアの署名が入った契約書だけだった。
「代金を支払えばよい」
アルフレッドが帳面を閉じる。
「今からでも、私の贈り物として買い取る。工房へそう伝えろ」
「殿下」
老侍従はすぐには動かなかった。
「仕立て途中の衣装は、すでに公爵家へ返されております。また、意匠は注文主のために起こされたものです。同じものを王太子宮の名で作るには、注文主と工房の了承が必要となります」
「では、了承を取れ」
「グランフェルト公爵家へ、白いドレスを譲ってほしいと申し入れるのですか?」
アルフレッドは答えなかった。
婚約を発表してからわずか三日後に、元婚約者が私費で仕立てた衣装を、新しい恋人へ譲ってほしいと頼む。
それがどのように受け取られるかは、リリアにも分かった。
「白いドレスは、もう結構です」
「リリア」
「あのドレスを殿下からの贈り物だったことには、できません」
アルフレッドが何か言おうとしたが、言葉にはならなかった。
「婚約発表の翌朝、合わせていただいた銀色のドレスも、王宮衣装室へお返しします」
「大夜会までに仕上がると聞いている」
「あれは、私のために注文されたものではございません。衣装室からお借りしたまま、殿下のお隣へ立ちたくないのです」
白いドレスを失った代わりに、用意されていた衣装だった。
美しくても、それをアルフレッドから贈られた一着だと思うことはできなかった。
リリアは白いドレスを初めて見た日のことを思い出した。
透けるような白い布へ、春の花を思わせる刺繍が施されていた。工房の女主人は、殿下がお選びになった方にふさわしいものにいたします、と笑っていた。
リリアは、その言葉の前半だけを聞いていた。
選んだのはアルフレッドだった。
ふさわしい形へ整えていたのは、別の人だった。
「新しいドレスを用意する」
アルフレッドは呼び鈴を鳴らした。
「王宮の衣装係を呼べ。春の大夜会までに、リリアのためのドレスを仕立てさせる」
ほどなく、王太子宮の衣装を管理する女官が入室した。
「リリアに最も似合うものを作れ。費用は私の個人歳費から出す」
女官は一礼すると、机へ注文書を置いた。
「ご希望の色と意匠をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「白を」
「アルフレッド様」
リリアは、思わず彼の名を呼んだ。
白いドレスは美しかった。
けれど、今はもう、それを着て大夜会へ立つ自分を思い描けなかった。
「白でなくてよいのです」
「君は、あのドレスを楽しみにしていただろう」
「楽しみにしていたからこそ、同じものにはしたくありません」
アルフレッドの顔に、戸惑いが浮かぶ。
女官はペンを持ったまま、二人の間で視線を伏せていた。
「では、何色がよい?」
そう問われ、リリアは答えに詰まった。
自分に何色が似合うのかも、王太子の隣へ立つ者がどのような布を選ぶべきかも、まだ知らない。
今までなら、教師へ尋ねることができた。
工房の女主人へ相談すれば、エレノアがすでに話を通してくれていた。
「……少し、考えるお時間をください」
リリアが答えると、女官は注文書を机に残して退出した。
宛名には、リリア・ベルナール。
注文主には、アルフレッドの名が記された。
それ以外の欄は、まだ白い。
部屋の空気が静まったところで、再び扉が叩かれた。
今度は、王妃宮からの使者だった。
「王妃陛下より、王太子殿下と側近の皆様へ申し上げます」
使者は封書を差し出した。
「今夕の会議へ、ベルナール男爵令嬢にも同席いただくように、とのことでございます」
「リリアも?」
「はい。大夜会の準備と、今後の教育について、役目を引き受ける方々を定めます」
リリアは、アルフレッドの後ろにいるジェラルドを見た。
三日前の夜、壇上の二人へ最初に拍手を送ったのは彼だった。
ジェラルドもまた、使者の言葉を聞きながら、机に残された注文書を見つめていた。
そこにはもう、エレノアの名を書き込める欄はなかった。




