第10話 拍手をした者たち
王妃宮の会議室には、三つの書類箱が並べられていた。
春の大夜会。
王家とグランフェルト公爵家の共同事業。
リリア・ベルナールに関する支援。
エレノアが王太子宮へ返した箱である。
長い卓の上座には王妃クラウディアが座り、その右手にアルフレッドとリリア、左手に王太子宮、王妃宮、侍従部、儀典部の責任者たちが並んでいる。
アルフレッドの側近も全員呼ばれていた。
リリアは、これほど多くの人が集まる会議へ出たことがない。
誰かが話し始めるのを待っていたが、部屋にあるのは紙をめくる音ばかりだった。
クラウディアの前には、三日前の夜会に出席していた者の名簿が置かれている。
「ジェラルド」
名を呼ばれた側近が立ち上がった。
「はい」
「三日前の夜、アルフレッドとリリア嬢の将来を支持すると、最初に表明したのはあなたでしたね」
「左様でございます」
ジェラルドは慎重に答えた。
「殿下が長く苦しまれていたことを、近くで拝見しておりました。お二人の誠実なお気持ちを皆様にご理解いただく必要があると考え――」
「理由は尋ねておりません」
クラウディアの声は静かだった。
ジェラルドが口を閉じる。
「あなたの表明を受け、同じく支持を示した者は立ちなさい」
側近たちが互いの顔を見た。
やがて、ジェラルドの隣にいた二人が立ち上がる。
一人はアルフレッドとリリアが人目を避けて会うため、庭園の警備と侍従の交代を整えていた。
もう一人は、リリアが不自然に見えないよう、王太子の友人たちが主催する集まりへ招いていた。
少し遅れて、王妃宮の若い女官も立った。
あの夜、リリアの髪を飾り、壇上へ上がる前に付き添っていた者だった。
ほかにも二人が続いた。
あの夜の広間では、大勢の拍手に紛れていた者たちである。
今は、その一人ずつの顔がはっきり見えた。
「座って結構です」
クラウディアは名簿を閉じた。
「皆が二人の将来を支持したことを、責めるつもりはありません」
立っていた者たちの肩から、わずかに力が抜ける。
しかし、クラウディアはすぐに一つ目の書類箱を開けさせた。
「支持なさった将来を、形にしていただきます」
儀典部長が、春の大夜会に関する一覧を卓上へ広げた。
会場、招待客、席次、料理、警備、楽団、装花、外国使節への対応。
すでに終わった項目には印があり、途中のものには、次に必要な手続きが添えられている。
「大半は整っているではありませんか」
ジェラルドが言った。
「残ったものを、儀典部へ引き継げばよろしいのでは?」
「儀典部が引き受けるのは、会場運営と国内招待客への正式通知です」
クラウディアは一覧の一枚を抜き取った。
「外国使節への出席確認は、あなたが担当なさい」
ジェラルドの顔から笑みが消えた。
「私が、でございますか」
「三日前の夜、あなたは外国使節の前で、王太子殿下の決断が誠実なものであると保証しました」
「保証、というほどのものでは……」
「セドリック卿は、責任者の名を明日の正午までに知らせるよう求めています」
クラウディアは、セドリックから届いた書簡をジェラルドの前へ置いた。
「あなたの名を回答いたします」
「お待ちください、王妃陛下。私は儀典の専門家ではございません」
「専門的な作業は儀典部が行います。あなたの役目は、王太子宮の回答をまとめ、各国の使節へ説明し、変更が生じた場合に判断を仰ぐことです」
「三週間で、すべてを?」
「婚約発表の夜の時点でも、三週間でした」
返す言葉がなくなり、ジェラルドは書簡を手に取った。
次に、警備の交代を整えていた側近へ、会場警備と王太子宮の予定調整が割り当てられた。
リリアを集まりへ招いていた側近には、ベルナール男爵家との連絡と、リリアに必要な付き添いの確保。
王妃宮の若い女官には、衣装係と教師の間の日程調整が命じられる。
全員の前へ、役目を記した書類が置かれた。
受領者の署名欄だけが、空白になっている。
「王妃陛下」
ジェラルドが再び声を上げた。
「我々には、それぞれ本来の職務がございます。これほどの仕事まで加われば、殿下にお仕えする時間が――」
「では、側近の職をお返しなさい」
クラウディアは声を強めなかった。
「王太子が公の場で示した将来を支えられないのであれば、近くで支える役目にも適していません」
ジェラルドの手が止まる。
「残るのであれば署名を。退くのであれば、辞任の書面を用意させます」
卓上に、ペンが置かれた。
誰も手を伸ばさない。
アルフレッドが椅子から身を乗り出した。
「母上。彼らは私とリリアを祝福してくれただけです」
「ええ」
「それだけで、これほどの責任を負わせるのですか」
クラウディアは、息子へ二枚の書類を差し出した。
一枚目は、大夜会の不足費用を記した試算。
二枚目は、アルフレッドの個人歳費と、今後予定されている支出の一覧だった。
「最終責任を負うのは、あなたです」
アルフレッドが試算へ目を落とす。
「不足分は王室費から一時的に支出します。ただし、今後三年間、あなたの個人歳費を減額して補填します」
「三年間?」
「今年予定されていた狩猟館の改修と夏の離宮滞在も見送ります」
「大夜会は、国の催しです」
「公爵家の負担を前提に規模を広げたのは、あなたでしょう」
アルフレッドは黙った。
「本来の規模へ戻すこともできます。ただし、すでに各国へ示した内容を変更することになります。どちらを選ぶか、明朝までに決めなさい」
クラウディアは、決定欄が空白の試算をアルフレッドの前に残した。
次に開かれたのは、三つ目の箱だった。
リリアの学習記録と、王妃宮が調べた教師たちの予定が取り出される。
「リリア嬢」
「はい」
突然名を呼ばれ、リリアは背筋を伸ばした。
「国王陛下は、本日付であなたを王太子妃候補として審査することをお認めになりました」
候補。
王太子妃と認められたわけではない。
その事実が、リリアの胸へ重く落ちた。
「審査の間、王妃宮から教師を紹介します。ただし、正式な婚姻が決まるまで、授業料と衣装代は王室費から出しません」
クラウディアは、アルフレッドの前に置かれた歳費の一覧を指先で示した。
「アルフレッドの個人歳費、またはベルナール男爵家の私費から支払いなさい」
男爵家が一年に使う額を考えれば、すべてを負担することは難しい。
リリアは先ほど見た、白いドレスの代金を思い出した。
「婚姻の審査では、ベルナール男爵家が負える財政上の義務も確認します。国の大夜会の費用を負わせることはいたしません。けれど、王太子妃の生家となる以上、何も負わずに済むとも考えないことです」
リリアは膝の上で手を握った。
「授業は、いつから始まるのでしょうか」
「教師との契約が整えば、五日後から」
「五日……」
春の大夜会まで、あと十八日。
これまでのように、明日から先生が来てくれるわけではなかった。
「以前の先生方には、戻っていただけないのでしょうか」
「三名のうち、一名は別の契約が決まりました。一名は返答待ちです。舞踏の教師だけは、十日後からなら引き受けるとのことです」
リリアの顔が強張った。
何もかも、少しずつ遅い。
それでも、誰かが予定を空けて待っていてくれると思うことは、もうできなかった。
「大夜会までに、間に合わないかもしれません」
口から不安がこぼれた。
「その場合は、出席の仕方を変えます」
クラウディアは淡々と答えた。
「アルフレッドの隣で招待客を迎えるのではなく、王妃宮の客人として席に着く。舞踏は行わない。習得した範囲で無理なく務められる形を選びます」
「ですが、それでは……」
王太子が愛する女性として披露されたのに、隣へ立つこともできない。
あの夜、拍手を送った人々は、どう思うだろう。
リリアが言葉を続けられずにいると、クラウディアは学習記録を閉じた。
「できないことを、できるように見せるための者は、もうここにはおりません」
会議室の誰も、エレノアの名を口にしなかった。
女官長が、リリアの教育と衣装に関する受領書を、担当となった若い女官へ差し出す。
女官は青ざめた顔で署名した。
警備を任された側近が続く。
ベルナール男爵家との連絡を命じられた側近も、しばらく迷ったあとでペンを取った。
最後に残ったのは、ジェラルドだった。
辞任の書面は用意されていない。
けれど、頼めばすぐに運ばれてくるのだろう。
ジェラルドはセドリックの書簡を読み返し、ゆっくりと受領者の欄へ自分の名を書いた。
「明日の正午までに、各国使節へ回答いたします」
クラウディアはうなずいた。
「明朝、まずセドリック卿を訪ねなさい」
「承知いたしました」
会議が終わると、出席者たちは自分の署名が入った書類を持って席を立った。
あの夜、拍手をするために必要だったのは、両手だけだった。
今夜、その手には、期限と責任者の名が記された紙が残っていた。




