第8話 公爵家の温室
グランフェルト公爵邸を訪れるのは、初めてではなかった。
これまでにもエレノア主催の茶会へ招かれ、庭園や客間で何度か時間を過ごしている。
けれど今日、馬車を降りたリリアを迎えたのは、以前とは違う静けさだった。
玄関には、いつものように家令と使用人が並んでいる。
誰も無礼な態度は取らない。
ただ、リリアをエレノアの友人として親しげに迎える者もいなかった。
「お待ちしておりました。お嬢様は温室にいらっしゃいます」
家令に案内され、リリアは庭園へ続く廊下を歩いた。
ガラス張りの温室には、春を待つ花々が並んでいた。外の冷たい空気とは異なり、陽射しを含んだ室内は暖かい。
エレノアは中央の卓で、領地から届いた報告を読んでいた。
「ごきげんよう、リリア様」
立ち上がり、以前と変わらない礼をする。
その整った振る舞いを見て、リリアは少しだけ安心した。
エレノアは怒っていない。
話せば、きっと分かってくれる。
「突然お訪ねして、申し訳ありません」
「昨日、面会を希望するお手紙をいただきました。どうぞ、お座りください」
向かいの椅子を勧められ、リリアは腰を下ろした。
侍女が茶を用意して退出する。
温室に残ったのは、二人と、少し離れた場所に控える双方の侍女だけだった。
「エレノア様に、確認したいことがあるのです」
「白いドレスと、教師のことでしょうか」
先に言われ、リリアは目を見開いた。
「ご存じだったのですね」
「私が契約していたものですから」
「でしたら、やはり引き継ぎの手違いなのですね?」
エレノアは答えず、侍女へ目を向けた。
「例の書類入れを」
すぐに、薄い革張りの書類入れが運ばれてくる。
エレノアは中から一枚の覚え書きを取り出し、卓の上へ置いた。
「こちらは、アルフレッド殿下から私へ届いたものです」
見慣れた筆跡だった。
『リリアに、春の大夜会で最も美しく見えるドレスを用意してほしい。』
記されているのは、それだけだった。
「アルフレッド様は、私のために用意してくださったのですね」
リリアが顔を上げる。
「私へ依頼なさったことは事実です」
エレノアは別の書類を、その隣へ置いた。
工房との契約書だった。
注文主には、エレノア・グランフェルトの名がある。
使用する生地、刺繍の意匠、真珠とビーズの数、仮縫いの日程、完成予定日。
王太子の覚え書きにはなかったものが、細かく記されていた。
最後に目へ入ったのは、代金だった。
「こんなに……?」
リリアは思わず声を漏らした。
男爵家で一年間に使える衣装費の大半が、ドレス一着へ費やされるほどの金額だった。
急ぎの仕事を受けてもらうための追加費用も含まれている。
「白いドレスは、すでに仮縫いを終えています」
エレノアが言った。
「契約を途中で終了する場合、支払い済みの材料と仕立て途中の衣装は、注文主へ返すことになっております」
「この代金は、もうお支払いになったのですか?」
「材料費と、現時点までの仕立て代は」
「アルフレッド様から、あとでお返しいただく予定だったのでは?」
エレノアは、王太子の覚え書きを見た。
「そのようなお話は、いただいておりません」
リリアも、短い一文へ視線を落とした。
アルフレッドは、最高のドレスを用意してほしいと頼んだ。
誰が工房を選ぶのか。
どのような衣装にするのか。
代金を誰が支払うのか。
何も書かれていない。
「でも、エレノア様はお引き受けになりました」
「当時の私は、殿下の婚約者でしたから」
「婚約者であれば、殿下がほかの女性へ贈るドレスまで用意するものなのですか?」
「通常は、いたしません」
静かな返答だった。
「では、なぜ?」
「殿下が直接お贈りになれば、お二人の関係が公になるからです」
リリアは言葉を失った。
大夜会のための特別なドレスを王太子が男爵令嬢へ贈れば、その理由を問われる。
当時は、まだ二人の関係を明かす準備が整っていなかった。
だからエレノアが、自分の名で注文した。
工房の者たちも、それを知っていたからこそ、王太子が選んだ女性にふさわしい衣装にすると話したのだろう。
「私には、何も仰いませんでした」
「誰が費用を負担しているかお伝えすれば、なぜ私が注文したのかも説明しなければなりません」
「秘密を守るため、ですか」
「はい」
リリアの指が、膝の上で強く重なる。
「教師の方々も、同じなのですか?」
エレノアは、三通の契約書を差し出した。
作法、外国語、舞踏。
すべての契約者はエレノアで、費用はグランフェルト公爵家から支払われている。
一番上には、アルフレッドからの依頼が添えられていた。
『リリアが人前で困らないよう、よい教師を付けてほしい。』
やはり、それだけだった。
「先生方のお名前も、アルフレッド様がお決めになったのではないのですね」
「候補を選び、王妃陛下へ確認していただきました」
「授業の内容は?」
エレノアは、契約書とは別にまとめられた学習予定を示した。
「先生方と相談して、春の大夜会までに必要なものから進めるようお願いしました」
リリアは書類をめくった。
最初の頁には、学び始めたころの自分ができなかったことが記されている。
次の頁には、覚えた挨拶と、まだ練習が必要な作法。
リリアが体調を崩した週には授業が減らされ、その分を翌月へ移す予定まで組まれていた。
リリア自身が知っているよりも詳しく、自分の学習が記録されている。
「エレノア様は、先生方から毎回ご報告を受けていたのですか?」
「日程を調整するために、必要な範囲で」
「アルフレッド様も、こちらをご覧になっていたのでしょうか」
「写しをお送りしました」
「何か、お返事は?」
「順調ならば任せる、と」
リリアの指が止まった。
アルフレッドは、リリアに教師を付けるよう頼んだ。
エレノアが教師を選び、費用を負担し、日程を整えた。
報告を受けたアルフレッドは、任せると答えた。
それをリリアは、アルフレッドが自分のためにすべて用意してくれたのだと思っていた。
「私は、何も知りませんでした」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「そうでしょうね」
エレノアの声音に、責める響きはなかった。
だからこそ、リリアは顔を上げられなかった。
「先生方と、もう一度契約していただくことはできませんか?」
しばらくして、リリアは尋ねた。
「春の大夜会が終わるまででよいのです。ドレスも、その日だけ貸していただければ、汚さずにお返しします」
「どなたのお名前で、契約するのでしょう」
「どなたの……?」
「私はもう、王太子殿下の婚約者ではございません。殿下が将来の妃として望んでおられる方を、元婚約者である私が教育し、衣装まで用意すれば、別の意図があると受け取られます」
「エレノア様が、私たちを応援してくださっていたことは、皆様も――」
「昨夜の発表をご覧になった方々は、私が二人の恋を妨げていたとお考えかもしれません」
リリアは息をのんだ。
エレノアを苦しめたくなくて、二人は耐えてきた。
壇上でそう言ったのは、自分だった。
「私は、そのようなつもりでは……」
「存じております」
エレノアは責めなかった。
ただ、契約書を閉じた。
「王家から正式にご依頼があれば、これまでの学習内容はお渡しいたします。先生方と契約を結び直すために必要な連絡先も、すでに王妃宮へ引き継ぎました」
「では、エレノア様からお願いしてくださることは」
「いたしません」
短い返答だった。
「私が失敗したら、アルフレッド様まで笑われてしまいます」
「その可能性も含めて、殿下と王宮がお考えになることです」
「エレノア様は、殿下が笑われてもよいのですか?」
言ってから、リリアは自分の言葉に気づいた。
今までなら、それでエレノアは動いたのだろう。
アルフレッドの信用のため。
王家のため。
二人が笑われないため。
けれど、エレノアはもう王太子の婚約者ではない。
「殿下が笑われることを、望んではおりません」
エレノアはリリアをまっすぐ見た。
「ですが、それを防ぐ役目も、今の私にはございません」
温室の外で、風が木々を揺らした。
ガラス越しの音は遠く、卓を挟んだ二人の間には、沈黙だけが残った。
やがてエレノアは、教師たちが作成した学習記録をリリアの前へ置いた。
「こちらは、お持ちください」
「よろしいのですか?」
「リリア様のために作られた記録です。新しい先生方へお渡しになれば、途中から授業を続けられます」
妨害したいのなら、渡す必要などないものだった。
リリアは両手で記録を受け取った。
その上には、アルフレッドが書いた二枚の覚え書きも載せられている。
最も美しいドレスを。
よい教師を。
短い言葉の下に、エレノアが整えた契約と予定が続いていた。
「本日は、お時間をいただき、ありがとうございました」
リリアは立ち上がり、深く礼をした。
温室へ入ったときと同じようには、エレノアの顔を見られなかった。
「お気をつけてお帰りください」
見送る声は、最後まで穏やかだった。
帰りの馬車の中で、リリアは何度も二枚の覚え書きを読み返した。
アルフレッドの言葉には、何も嘘はない。
けれど、その言葉だけでは、ドレスも教師も一つとして用意できなかった。




