第7話 来ない教師
翌朝、リリアは約束の時刻より早く、小さな応接室で教師を待っていた。
机の上には、昨日までに習った内容をまとめた帳面が開かれている。外国使節を迎える際の挨拶、身分に応じた呼びかけ、王族の前で行う礼。
今日の教師は、かつて王妃付きの女官を務めていた老婦人だった。
言葉遣いには厳しいが、リリアが間違えても声を荒らげることはない。できるまで同じ動作を繰り返し、最後には必ず、今日はここまでできましたね、と笑ってくれる。
春の大夜会まで、あと十九日。
白いドレスを着られないのは残念だったが、アルフレッドの隣へ立つために必要なのは衣装だけではない。
昨夜、二人の関係を公にしたからこそ、以前よりも努力しなければならない。
リリアはそう考え、習ったばかりの礼を一人で確かめた。
扉の前へ進み、右足を半歩後ろへ引く。
視線を下げる。
背中を曲げず、ゆっくりと膝を折る。
「北方使節団の皆様を、心より歓迎いたします」
言い終えて顔を上げる。
壁際の時計を見ると、約束の時刻を少し過ぎていた。
教師が遅れることは珍しい。
けれど、王都の道が混んでいるのかもしれない。王太子の誕生日を祝う催しは昨夜で終わったが、大通りにはまだ飾りを片づける者たちがいる。
リリアは席へ戻り、帳面を読み返した。
一度目の鐘が鳴る。
それでも教師は来ない。
「何か連絡はなかったの?」
リリアが侍女へ尋ねる。
「今朝届いたものの中には、ございませんでした」
「使いを出して、先生のお屋敷へ確認してちょうだい。途中で馬車に何かあったのかもしれないわ」
「かしこまりました」
侍女を見送り、リリアは再び帳面へ目を落とした。
文字を追っていても、内容が頭に入らない。
昨日は白いドレスが届かなかった。
今日は教師が来ない。
どちらも、アルフレッドが二人の恋を公にした直後に起きたことだった。
エレノアが怒っているのだろうか。
そう考えかけて、リリアはすぐに否定した。
エレノアは二人の未来を祈ると言った。
婚約解消にも、以前から同意していたと聞いている。
ならば、急な発表によって連絡が行き違っただけだろう。
もう一度時計を見たとき、確認に向かった侍女が戻ってきた。
「先生は、ご無事なの?」
「はい。お屋敷にいらっしゃいました」
「では、どうして来てくださらないの?」
「グランフェルト公爵家とのご契約が終了したため、今後はこちらへ伺うことができない、と」
リリアは椅子から立ち上がった。
「契約が終了した?」
「詳しいことは、契約者へお問い合わせくださいとのことでございました」
「契約者は、アルフレッド様ではないの?」
侍女は答えられず、目を伏せた。
リリアにも、それ以上尋ねることはできなかった。
白いドレスの注文主はエレノアだった。
まさか教師まで、同じなのだろうか。
「午後の外国語の先生は?」
「予定では、第二鐘のあとに」
「そちらにも、今のうちに確認して」
「承知いたしました」
返事は、昼前に届いた。
外国語の教師からも、公爵家との契約終了により、今日から授業を中止するとのことだった。
翌日に予定されていた舞踏の教師も同じだった。
三人とも、リリアが自分で選んだ教師ではない。
アルフレッドが、将来困らないように優れた教師を用意すると約束してくれた。そのしばらくあとに、彼らが順番に男爵家を訪ねてきた。
だから、アルフレッドが雇ったのだと思っていた。
授業料について尋ねたことはない。
父からも、費用を負担しているという話は聞いていなかった。
「お父様にお会いしたいのだけれど」
リリアは男爵の書斎へ向かった。
父は王太子との関係が公になったことで、朝から届き続ける手紙を確認していた。
「リリア。ちょうどよかった」
娘を見るなり、ベルナール男爵は顔をほころばせた。
「昨夜の発表について、以前から親しくしていた方々へ返事を書いているところだ。おまえもあとで、署名を――」
「お父様。私の先生方へのお支払いは、どなたがなさっていたのですか?」
男爵の笑みが止まった。
「先生方?」
「作法と外国語と舞踏の先生です」
「王太子殿下が手配してくださったのではないのか?」
「私も、そう思っていました」
「違うのか?」
「先生方は、グランフェルト公爵家との契約が終わったから、もう来られないと」
男爵は手元の手紙を置いた。
「公爵家が?」
「お父様は、何もご存じなかったのですか?」
「殿下が、おまえの将来のために必要なものはこちらで整えると仰っていた。公爵家が間に入っていることは聞いていたが、費用まで負担していたとは……」
父も知らなかった。
その事実が、リリアをいっそう不安にさせた。
「同じ先生方へ、男爵家からお願いできませんか?」
「もちろん、おまえに必要な教育ならば頼もう」
男爵は答えたが、その声には先ほどまでの勢いがなかった。
「ただ、どれほどの費用になるのか、先に確認しなければならない。王太子妃教育を任されるほどの方々となれば、通常の家庭教師とは違うだろう」
「春の大夜会まで時間がありません」
「分かっている。王太子殿下へご相談しよう」
結局、またアルフレッドだった。
リリアはその日の午後、王太子宮へ向かった。
◆◆◆
アルフレッドは、執務机を埋める書簡の間にいた。
いつもなら、リリアが訪ねれば仕事の手を止め、すぐに笑顔を見せてくれる。
今日は顔を上げたものの、疲れた表情は消えなかった。
「どうした、リリア」
「お忙しいところ、申し訳ありません」
「君が謝る必要はない。少し予定が変わっただけだ」
少し、と言いながら、机には見慣れない資料が何段にも積まれている。
「春の大夜会のことですか?」
「各家から、確認したいことがあると連絡が来ている。だが、すぐに整う」
アルフレッドはそう言って、リリアのために椅子を勧めた。
「白いドレスのことなら聞いた。王宮で新しいものを用意させる」
「今日は、先生方のことなのです」
「教師?」
「今朝から、誰も来てくださらなくなりました。皆様、グランフェルト公爵家との契約が終了したと」
アルフレッドは眉を寄せた。
「教師も、エレノアが契約していたのか?」
「私が、お尋ねしたいのです」
「君が人前で困らないよう、よい教師を付けてほしいとは頼んだ」
「エレノア様へ?」
「ああ」
「それだけですか?」
アルフレッドが黙る。
「先生方のお名前は、ご存じでしたか?」
「報告は受けたと思う」
「授業料は?」
「王太子宮から出していたのではないのか?」
「こちらに、支払いの記録はないそうです」
リリアは、衣装室で女官長から聞いた言葉を繰り返した。
アルフレッドは机の脇にある呼び鈴を鳴らした。
入室したジェラルドへ教師たちの名を告げ、王太子宮から支払いが行われているか確認させる。
答えはすぐに出た。
「該当する支出はございません」
「では、誰が払っていた」
「グランフェルト公爵家かと」
アルフレッドは椅子の背へもたれた。
「なぜ、エレノアはそんなことを」
「殿下がお頼みになったからでは?」
ジェラルドの返答に、アルフレッドは口を閉じた。
リリアは二人を見比べた。
「私は、これからどうすればよいのでしょう」
「母上が、新しい教師を手配している」
「同じ先生方には、戻っていただけないのですか?」
「新しい契約を結べばよい。母上から頼めば、断らないだろう」
「春の大夜会まで、あと十九日です」
「間に合わせる」
アルフレッドは力強く言った。
けれど、誰がどのように間に合わせるのかまでは口にしなかった。
「エレノアへも、事情を説明すればよい」
「エレノア様へ?」
「彼女も、君が何も学べないまま人前へ出ることを望んではいない。急な発表で気持ちの整理がついていないだけだ」
リリアは、昨日見た銀色のドレスを思い出した。
アルフレッドも、教師との契約を知らなかった。
エレノアなら、白いドレスのことも教師のことも、すべて分かっている。
やはり、本人へ尋ねるのが一番早い。
「私から、エレノア様へお願いしてみます」
アルフレッドは安心したようにうなずいた。
「そうしてくれ。君から頼めば、彼女も分かってくれる」
リリアは王太子宮を辞したあと、公爵邸を訪ねたいという手紙を書いた。
なぜ教師が来なくなったのか。
なぜ白いドレスが戻されたのか。
まだ、どちらも手違いなのだと思っていた。




