第6話 王妃の名前
三つ目の書類箱が王妃宮へ運ばれたのは、午後のことだった。
蓋に留められた革には、ベルナール男爵令嬢に関する支援、と記されている。
「こちらは、王妃陛下にご確認いただくのがよろしいかと」
王太子宮から箱を運んできた侍従が言った。
「なぜです」
クラウディアが尋ねると、侍従は困ったように視線を落とした。
「エレノア様へのご依頼の中に、王妃宮から出されたものが含まれております」
王妃宮から。
その言葉だけで、クラウディアには思い当たることがいくつもあった。
「そこへ置きなさい」
執務机の前へ箱を運ばせ、侍従を下がらせる。
室内に残ったのは、クラウディアと女官長だけになった。
箱には鍵が掛けられていなかった。公爵家の封蝋で閉じられているだけで、受取人が中身を確認したあと、そのまま王宮の保管庫へ移せるようになっている。
女官長が封を切った。
蓋を開けると、整えられた書類が項目ごとに分けられていた。
最初に収められていたのは、リリアの教育に関する記録だった。
礼儀作法。
舞踏。
外国語。
王国史。
それぞれの教師の名と契約期間、現在までに終えた内容が記されている。
クラウディアは一番上に添えられた短い手紙を見て、指を止めた。
自分の筆跡だった。
『リリア嬢には、いずれ人前へ立つための教育が必要です。
しかし、今の段階で王妃宮から教師を送れば、殿下との関係を公に認めたも同然となります。
あなたのご友人として、信頼できる方をご紹介いただけないでしょうか。』
アルフレッドとリリアの関係を知ったあと、エレノアへ送ったものだった。
すぐに二人を別れさせることも考えた。
けれどアルフレッドは、リリアを手放すつもりはないと言った。無理に引き離せば、かえって人目を忍ぶようになり、取り返しのつかない醜聞へ発展するおそれがあった。
だからクラウディアは、エレノアへ協力を求めた。
王太子の婚約者であるエレノアが自分の友人としてリリアを招けば、不自然には見えない。公爵家の紹介で教師を付ければ、王家が秘密の恋人を王太子妃として育てているとも気づかれない。
当時は、最も穏当な方法だと思っていた。
「教師への費用は、どこから出ていたのです」
クラウディアが尋ねる。
女官長は契約書を確認した。
「グランフェルト公爵家でございます」
「王妃宮から、支払いをしていないのですか」
「少なくとも、こちらの記録にはございません」
「会計を呼びなさい」
ほどなく王妃宮の会計責任者が入室した。
クラウディアが教師たちの名を挙げて支払いの有無を尋ねると、会計責任者は過去の支出記録を確認し、首を横へ振った。
「王妃宮からのお支払いはございません」
「私の名で、後日精算すると伝えてはいなかったのですか」
「そのような指示も、受けておりません」
クラウディアは、自分の手紙を見た。
信頼できる教師を紹介してほしい。
そう頼んだだけだった。
誰が契約し、誰が費用を負担するのか、一言も書いていない。
エレノアからは、教師が決まったとの返事が届いた。それで、すべて整ったと思っていた。
「下がってよろしい」
会計責任者を退出させ、クラウディアは次の記録を手に取った。
そこにも、自分の手紙が挟まっていた。
『殿下が、明後日の午後にリリア嬢とお会いになることを望んでいます。
若い男女だけで過ごしたと受け取られないよう、信頼できる既婚婦人にお立ち会いいただければ安心です。』
立ち会いを引き受けたのは、エレノアの母方の伯母だった。
さらに別の日には、公務を終えたアルフレッドが庭園でリリアと会うため、エレノア主催の小さな茶会へ二人を招いてほしいと頼んでいる。
リリアが社交界で孤立しないよう、同年代の令嬢を紹介してほしいとも書いた。
どの手紙にも、命令とは記されていない。
若い二人を守るため。
王家の信用を損なわないため。
どうか協力してほしい。
丁寧な言葉を使いながら、断られることを考えていなかった。
王妃から未来の王太子妃へ届いた頼みを、エレノアが拒むはずはないと知っていたからだ。
「陛下」
女官長が慎重に声をかける。
「衣装室から、ベルナール男爵令嬢について報告がございます」
「何がありました」
「春の大夜会でお召しになる予定だった白いドレスが、公爵家へ返されたそうです」
「王太子宮が注文したものではなかったのですか」
「注文主はエレノア様です」
また、エレノアの名だった。
「リリア嬢は?」
「王宮で代わりの衣装を用意すると伝えております。ただ、白いドレスの契約を移してもらえないか、エレノア様へ確認してほしいと」
「誰が確認するのです」
「王太子宮から正式な指示があれば、衣装室から工房へ問い合わせることはできます」
「工房ではなく、公爵家へ直接頼めばよいでしょう」
言ってから、クラウディアは口を閉じた。
誰が頼むのか。
何を理由に頼むのか。
完成間近の衣装を、費用も含めて譲ってほしいと王妃の名で求めれば、エレノアは受け入れるかもしれない。
これまでと同じように。
「陛下?」
「いいえ。白いドレスについて、公爵家へ依頼を出してはなりません」
女官長がわずかに目を見開く。
「リリア嬢には、王宮で用意する衣装を使わせなさい。王家の名で贈るなら、王家の費用で仕立てます」
「承知いたしました」
クラウディアは次の束へ手を伸ばした。
教育、逢瀬の付き添い、夜会への招待、衣装、贈答品。
項目が変わるたび、アルフレッドやジェラルド、王妃宮の女官たちから届いた依頼が現れる。
誰もが、自分は一度頼んだだけだと思っていたのだろう。
その一度を、すべて同じ人物が受け取っていた。
箱の底には、現在も続いている契約の一覧があった。
教師との契約は、公爵家から終了の申し出が出されている。継続を望む場合は、王宮から新たに交渉しなければならない。
職人への注文も同様だった。
茶会や夜会への招待は、エレノアの友人という立場を失ったため、今後は王家またはベルナール男爵家の名で行う必要がある。
「女官長」
「はい」
「この中で、王妃宮が直ちに引き継げるものは?」
女官長は一覧を受け取り、目を通した。
「教育については、教師を選び直せば可能でございます。ただし、リリア様はまだ正式な王太子妃候補ではありません。王妃宮の予算を使用するには、陛下または国王陛下のご承認が必要です」
「私が承認を取ります」
「夜会への招待は、王妃陛下のお客人としてお招きすることは可能です。ただ、それを続ければ、王族会議の審議前からリリア様を王太子妃候補として扱っていると見なされます」
「では、今後の招待は審議が始まってからにします」
「付き添いの手配は、王太子宮の責任かと存じます」
「そのように伝えなさい」
一つ尋ねるたび、新たな条件が出てくる。
エレノアは、これらを王家の正式な仕事にせず、自分の交友と公爵家の信用を使ってつないできた。
だから外からは、何も起きていないように見えた。
クラウディア自身も、問題なく進んでいると思っていた。
箱の一番下に、王太子宮へも届けられた封書の写しがある。
最後の一文に目を留める。
『王子の秘密の恋を守った皆様へ、後始末も皆様でどうぞ。』
「陛下。この一覧は、どの部署へお渡しいたしますか?」
女官長が尋ねた。
これまでなら、エレノアに全体を確認させればよいと答えていただろう。
クラウディアは封書を閉じた。
「今は、どこへも渡しません」
女官長が顔を上げる。
「各部署には、明日中に引き継ぎ項目を精査させなさい。明後日の夕刻、王太子宮、王妃宮、侍従部、儀典部の責任者を集めます」
「会議を開かれるのですか」
「ええ」
クラウディアは、箱の中に並ぶ依頼者の名を見た。
自分の名も、息子の名も、側近たちの名もある。
「エレノア嬢がしていた、という答えは禁止します。誰が頼み、誰が引き継ぐのか。一件ずつ確認なさい」
女官長は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
クラウディアは最初に見つけた自分の手紙を、もう一度手に取った。
そこには確かに、王妃クラウディアの署名が残されていた。




