第5話 完成間近のドレス
リリアは朝から、何度も鏡を見ていた。
昨夜と同じ自分のはずなのに、どこかが変わって見える。
アルフレッドが大勢の前で、リリアを愛していると宣言した。
もう人目を避けて庭園の隅で会う必要はない。夜会でアルフレッドと視線が重なっても、慌ててそらさなくてよい。誰かに関係を尋ねられたとき、エレノアへの配慮を理由に黙り込むこともない。
今朝、ベルナール男爵家の王都屋敷へ届いた手紙の中には、祝福の言葉を記したものもあった。
学院時代の友人は、驚いたが応援すると書いてくれた。
以前から二人の関係を知っていた令嬢は、ようやく幸せになれるのね、と喜んでくれた。
すべてが、今日から変わる。
そう思っていた。
「リリア様。王宮から、お迎えの馬車が参りました」
侍女の知らせに、リリアは鏡から振り返った。
「ドレスの仮縫いね」
三週間後の春の大夜会で着る、白いドレス。
仮縫いはすでに二度済ませている。前回、工房の女主人は、あとは胸元を少し整え、裾のビーズを縫い付ければ完成すると話していた。
その日を、リリアはずっと楽しみにしていた。
銀糸で刺繍された春の花。動くたびに柔らかな光を返す真珠。背中から流れる薄絹には、ごく小さな星が散らされている。
初めて図案を見たとき、アルフレッドが言ったのだ。
「春の大夜会では、このドレスを着て私の隣へ立ってほしい」
昨夜はまだ、以前から持っていた桃色のドレスだった。
けれど春の大夜会では、アルフレッドが自分のために用意してくれた白いドレスを着る。
そのときこそ、本当に誰にも隠れず、彼の隣へ立てるのだ。
リリアは弾む心のまま、王宮からの馬車へ乗り込んだ。
◆◆◆
案内された衣装室には、見覚えのない銀色のドレスが置かれていた。
「こちらへお立ちくださいませ」
王妃付きの女官が、リリアを鏡の前へ導く。
銀色のドレスも美しかった。
光沢を抑えた上品な生地に、王家の花を模した刺繍が入っている。急いで用意したものとは思えないほど丁寧な仕立てだった。
けれど、リリアは室内を見回した。
「白いドレスは、どちらにあるのですか?」
女官たちの手が止まる。
「白いドレス、と申しますと」
「春の花が刺繍されているものです。今日、最後の調整をすると聞いていました」
女官は隣にいる女官長へ視線を向けた。
女官長が、ゆっくりと前へ出る。
「その衣装は、王宮ではお預かりしておりません」
「まだ工房にあるのですか?」
「グランフェルト公爵家へ返されたと聞いております」
リリアは、すぐには意味を理解できなかった。
「なぜ、エレノア様のお屋敷へ返すのですか?」
「注文主が、エレノア・グランフェルト公爵令嬢だからです」
「でも、あれは私のドレスです」
思わず強い声が出た。
女官長の表情は変わらない。
「工房から王宮への納品も、リリア様への正式な贈与も、まだ行われておりません」
「仮縫いを二度もしました。私に合わせて作っていたのですよ」
「はい。着用なさる予定だったのは、リリア様です」
「でしたら、なぜ……」
「ドレスの注文主はエレノア様であり、代金をお支払いになる予定だったのもグランフェルト公爵家です。完成前に契約が終了したため、工房は注文主へ返したのでしょう」
リリアは鏡の中の自分を見た。
まだ着替えていないので、朝に選んだ淡い水色のドレスを着ている。
鏡の脇には、代わりに用意された銀色の衣装が掛かっていた。
「アルフレッド様が、私のために用意してくださったのです」
「殿下からお贈りになった記録は、王太子宮にも王室会計にもございません」
「記録がないだけではありませんか?」
「王族から一定額を超える品をお贈りになる場合、必ず記録が必要です」
リリアは口を閉じた。
アルフレッドから、白いドレスを着てほしいと言われた。
だから当然、彼が用意してくれたものだと思っていた。
工房の者たちも、王太子殿下が選ばれた方にふさわしい一着にいたします、と話していた。
ただ、契約書を見たことはない。
代金を誰が払うのか、尋ねたこともなかった。
「同じ工房へ、王宮から改めて注文してください」
リリアが言うと、女官長はわずかに眉を下げた。
「今から、でございますか?」
「あとは胸元の調整と、ビーズを縫い付けるだけです。三週間もあれば間に合うでしょう?」
「同じ衣装を仕上げるのであれば、まずグランフェルト公爵家と工房の契約を精算し、使用している意匠と生地を譲り受けなければなりません」
「譲っていただけばよいのでは?」
「その交渉を、どなたがなさるのでしょう」
「それは……」
リリアは周囲を見た。
女官たちは誰も目を合わせない。
「王太子宮の方にお願いすれば」
「王太子宮からは、春の大夜会に間に合う衣装を用意するよう指示が出ています。こちらは王宮衣装室に保管されていた未使用のドレスを、リリア様に合わせ直すものです」
女官長が銀色のドレスを示す。
「現在、胸元と袖をリリア様の寸法に合わせております。今日中に確認できれば、予定の日までに完成いたします」
リリアは銀色のドレスへ目を向けた。
美しい。
男爵家の娘が個人で注文すれば、家族からぜいたくだと叱られるほど高価なものだ。
それでも、白いドレスとは違う。
こちらには、リリアが好きだと言った春の花も、アルフレッドと初めて会った夜を思わせる小さな星もなかった。
「白いドレスは、もう着られないのですか?」
「現状では」
「エレノア様は、ご自分でお召しになるのでしょうか」
「私どもには分かりかねます」
女官長はそれ以上答えず、控えていた針子へ合図した。
「お時間が限られております。まずはこちらの仮合わせをお済ませください」
促され、リリアは着替えのための衝立へ入った。
侍女が水色のドレスの留め具を外していく。
リリアは両腕を上げたまま、唇を噛んだ。
エレノアが、白いドレスを取り上げたとは思いたくなかった。
婚約解消については、以前から理解してくれていた。アルフレッドも、エレノアならば最後には祝福してくれると話していた。
昨夜も、エレノアは二人の未来を祈ると言った。
だから、これは何かの手違いだ。
急な発表で、契約の名義を変えるのが間に合わなかっただけなのだろう。
銀色のドレスへ袖を通す。
生地は滑らかで、着心地も悪くない。
けれど鏡の前へ戻ったリリアは、思わず胸元を手で押さえた。
寸法が合っていないため、まだ布が余っている。
王宮付きの針子が腰回りを詰め、女官が袖丈を確認する。まるで、誰かのために作られたドレスを借りているようだった。
「よくお似合いです」
女官の言葉に、リリアは笑おうとした。
だが、鏡の中の自分は、少しも嬉しそうには見えなかった。
「エレノア様へ、確認していただけますか?」
リリアは女官長へ頼んだ。
「白いドレスの契約を、王宮へ移していただけないかと」
「王宮から正式な指示があれば、お問い合わせいたします」
「私からお願いしてはいけないのですか?」
「私的にお尋ねになることを、止める権限はございません」
それならば、自分でエレノアに頼めばよい。
事情を説明すれば、きっと分かってくれる。
リリアはそう考え、もう一度、鏡の中の銀色のドレスを見た。
昨夜までは、真実を明かせば何もかもうまくいくと思っていた。
秘密がなくなった最初の朝に、完成間近だった白いドレスだけが、自分の手から遠ざかっていた。




