第31話 候補のままで
春の大夜会の正面扉が開いた。
最初に国王夫妻。
その後ろを、アルフレッドと国王の弟である公爵が進む。
アルフレッドは振り返らなかった。
扉の外には、リリアが待っている。
入場稽古では、彼女の様子を確かめようとして足を止められた。
今夜、王太子が見るべき相手は、隣を歩く公爵と、正面で待つ外国王族だった。
国王夫妻が高座へ着く。
北方の王弟。
国内の大公妃。
家格に従い、招待客の名が一人ずつ読み上げられていく。
やがて、広間の入口に立つリリアへ視線が集まった。
「リリア・ベルナール男爵令嬢」
儀典官の声が響く。
「アルフレッド王太子殿下の妃候補として審査中。正式な婚約は、現時点で成立しておりません」
広間へ、小さなざわめきが広がった。
王太子が愛を公表した相手である。
今夜、正式な婚約者として披露されると思っていた者もいたのだろう。
リリアは足を止めなかった。
淡い青のドレス。
裾にだけ施された銀糸の小花。
王妃の客人として、女官長に導かれた位置まで進む。
国王夫妻へ礼をする。
案内された椅子の前で、クラウディアが座るのを待つ。
それから、ゆっくり腰を下ろした。
アルフレッドと目は合わなかった。
けれど、それでよかった。
彼が合図しなくても、最初の入場は終わった。
◆◆◆
「ご婚約、おめでとうございます」
最初に祝辞を述べたのは、南部の子爵夫人だった。
王族への挨拶が一巡し、招待客がそれぞれの席へ移り始めたところである。
リリアは、すぐに礼を返しかけた。
ありがとうございます。
口にする直前、入口で読み上げられた言葉を思い出す。
「お気持ちに感謝いたします。ただ、正式な婚約はまだ成立しておりません」
子爵夫人の笑みがわずかに揺れた。
「ですが、殿下は皆様の前で、あなたを愛していると」
「はい。殿下のお気持ちは、伺っております」
「それならば、もう決まったも同じではございませんか」
以前のリリアなら、そうであってほしいと笑ったかもしれない。
アルフレッドが自分を選んだ。
それだけで、王太子妃へ続く道が開いたのだと思っていた。
「王族会議では、秋に改めて審議すると決まっております」
リリアは答えた。
「今夜は、王妃陛下のお客人として参りました」
子爵夫人は、それ以上祝いの言葉を重ねなかった。
代わりに、淡い青のドレスを褒める。
リリアも、裾の刺繍を半分に減らしたのだとは言わず、衣装係が選んでくれた花の意匠について答えた。
会話が終わると、女官長が小さな手帳を差し出す。
「先ほどの夫人のお名前と、お話しした内容を」
夜会で受けた言葉は、退出後まで覚えておかなければならない。
リリアは忘れないうちに書き留めた。
◆◆◆
次に声をかけてきたのは、北方使節団に加わっている貿易官だった。
「ベルナール男爵領では、良質な燕麦を育てていると伺いました」
「ありがとうございます」
「来年から、我が国へ納める量を増やしていただくことはできますか」
以前の授業で、何度も繰り返した問いに似ていた。
相手の申し出を断らない。
けれど、できるか分からないことを約束しない。
「どれほどの量をお望みでしょうか」
「今年の倍を」
リリアは手帳へ希望量を記した。
「私から父へ伝え、領地の収穫量と、すでに結んでいる契約を確認いたします。そのうえで、男爵家から正式にお返事を差し上げます」
「王太子殿下から、お口添えをいただくことは?」
「男爵領の穀物について、殿下からお約束いただくことはできません」
貿易官は少し意外そうにリリアを見た。
やがて、希望する燕麦の品質と納入時期を書いた紙を差し出す。
「では、男爵へこちらを」
「確かにお預かりいたします」
リリアは紙を女官長へ渡さず、自分の手帳へ挟んだ。
ベルナール男爵家への申し出である。
王妃へ届けるものではなかった。
◆◆◆
晩餐後、フェルナー侯爵家と北方使節団の面会が予定どおり行われた。
三十分。
交易局の担当官が同席し、穀物の輸送と関税について話し合う。
第一長卓の上座には、最初の招待状どおりアーデン侯爵が座っていた。
ジェラルドは二つの席を何度も確かめたあと、面会室の扉が閉じるまで廊下に立っていた。
面会記録へ両家の署名がそろったことを確認して、ようやく次の仕事へ移る。
大夜会の進行が十分間遅れた時点で、楽団へ新しい開始の合図が送られた。
最初の舞踏は、王族と正式な婚約者を持つ者たちだけが参加した。
リリアは席に残った。
アルフレッドの相手を務めたのは、国王の従妹にあたる公爵令嬢だった。
必要な儀礼だと分かっている。
それでも、二人が広間の中央へ進むのを見たとき、胸の奥が小さく痛んだ。
リリアは笑おうとしなかった。
手元の予定表を開き、自分が参加できる舞踏を確かめる。
四曲目。
その横には、相手の名が記されていた。
アルフレッド。
◆◆◆
四曲目の前奏が始まると、アルフレッドがリリアの前へ来た。
「お相手を願えますか」
「はい」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
ようやく二人で広間の中央へ進むことができた。
「入場を間違えなかったな」
踊り始めてすぐ、アルフレッドが言った。
「毎日、練習いたしましたから」
「外国使節とも話していた」
「燕麦の取引について、父へ確認することになりました」
「必要なら、交易局へ私から――」
アルフレッドは途中で言葉を止めた。
「いや。ベルナール男爵家の返答を待とう」
「お願いいたします」
一度目の回転。
二度目。
曲の半ばで、アルフレッドの視線が入口近くへ向いた。
深い青のドレスを身につけたエレノアが、北方商人組合の代理人と話している。
その隣にはセドリックがいた。
大夜会の席も、使節との面会も、楽団の遅れも、彼女は確かめに来なかった。
グランフェルト公爵家の招待客として、自分の取引相手と話している。
「エレノア様へ、お声をかけますか」
リリアが尋ねる。
アルフレッドは、すぐには答えなかった。
「今夜は、やめておく」
「はい」
リリアも、エレノアへ近づかなかった。
手紙の返事を受け取っていない。
それを確かめるために話しかければ、返事を求めないと書いた意味がなくなる。
「入口での紹介を聞いた」
アルフレッドが話題を戻した。
「婚約が成立していないと、あそこまで明言する必要があったのだろうか」
「私も、内容を確認して署名しました」
「分かっている。ただ……」
アルフレッドの手に、わずかに力が入った。
「秋には、必ず」
その先を、彼は続けなかった。
王族会議が何を決めるかを、二人だけで約束することはできない。
「秋の審議まで、できることをしよう」
言い直した言葉に、リリアはうなずいた。
曲が終わる。
二人は手を離し、広間の決められた位置で礼をした。
◆◆◆
春の大夜会は、予定されていたすべての進行を終えた。
翌日、リリアの前へ当日の記録が置かれる。
入場および着席――問題なし。
身分に関する祝辞への返答――訂正できた。
外国使節からの申し出――希望内容を確認し、ベルナール男爵家へ引き継いだ。
会話の記録――一名分、記入時刻に遅れあり。
すべてができたわけではない。
子爵夫人との会話は、その場ですぐ記録できた。
別の伯爵令嬢から紹介された慈善施設の名は、退出後まで書き留めるのを忘れていた。
女官長の記録と照らし合わせ、あとから追記している。
リリアは修正の行まで読み、末尾へ署名した。
正式婚約に関する欄は、空白のままだった。
◆◆◆
春が過ぎ、夏になった。
リリアは週に五日、王妃宮へ通った。
外国使節への返答。
領主から届く請願。
王家の財産と、個人の費用。
小さな茶会を、もう二度開いた。
二度目には、付き添いまで含めた人数を最初から数えた。
代わりに、招待状を一通、別の家へ届けてしまった。
三度目には宛名を確かめたが、雨の日の馬車の到着時刻を考えておらず、開始を遅らせた。
できたことと、できなかったことが同じ記録へ残っていく。
アルフレッドは週に一度、授業へ参加した。
来られない週もあった。
その場合は、リリアの記録を翌日までに読み、確認した頁へ自分の名を書いた。
夏の終わり。
王族会議から、秋の審議と祝賀会への招待状が届いた。
リリアは封を切り、宛名の下に記された肩書を読む。
王太子妃候補
正式な婚約者ではない。
春から一字も変わらない肩書だった。




