第30話 返事のいらない手紙
『お返事は、いただかなくて結構です。』
最初の一行を書いたあと、リリアのペンは止まった。
王妃宮の学習室には、彼女一人しかいない。
教師も、記録係の女官も、今日はすでに退出していた。
これは授業の課題ではなかった。
書き方を採点してもらうものでも、秋の王族会議へ提出するものでもない。
だからこそ、次に何を書けばよいのか分からなかった。
リリアは新しい行へペンを置いた。
『私は、何も知りませんでした。』
そこまで書き、横線を引く。
白いドレスを誰が注文したのか。
教師たちと誰が契約したのか。
茶会で誰が席を決め、話題を用意していたのか。
本当に知らなかった。
けれど、知らなかったと最初に書けば、そのあとの謝罪がすべて言い訳に見えた。
もう一枚、便箋を取り出す。
『エレノア様を傷つけるつもりはございませんでした。』
今度も、最後まで書く前に止まった。
壇上で話したとき、エレノアを傷つけたいとは思っていなかった。
二人の恋が軽いものではないと伝えたかった。
自分たちが長い間耐えてきたのだと、分かってほしかった。
けれど、その言葉を聞かされたエレノアにとって、自分のつもりが何になるのだろう。
リリアは二枚目も脇へよけた。
王妃宮から借りた夜会の発言記録を開く。
エレノア様を苦しめたくなくて、私たちはずっと耐えてきたのです。
自分の言葉が、そのまま残っていた。
記録の続きを読む。
アルフレッドが何と言ったか。
ジェラルドが二人への支持を表明したこと。
エレノアが役目をすべて返すと告げたあと、誰もすぐには答えられなかったこと。
そこには、リリアが壇上へ立つ前に考えていた気持ちは書かれていない。
残っているのは、実際に口にした言葉だけだった。
リリアは三枚目の便箋を前へ置いた。
◆◆◆
書き終えたころには、窓の外が暗くなり始めていた。
便箋は三枚になった。
最初から読み返す。
『エレノア・グランフェルト公爵令嬢様。
お返事は、いただかなくて結構です。
あの夜、私は皆様の前で、エレノア様を苦しめたくなくて、私たちは耐えてきたと申し上げました。
けれど、私たちの関係を守るために、実際に多くのものを引き受けてくださっていたのはエレノア様でした。
あの言葉によって、エレノア様が私たちの恋を妨げていたように聞こえたことを、お詫びいたします。
私は、ドレスも先生方も、アルフレッド様がすべて用意してくださったのだと思っていました。知らなかったことは事実です。
ですが、温室で契約書を見せていただいたあとも、私は先生方ともう一度契約してほしい、ドレスを貸してほしいとお願いしました。
そのときには、エレノア様が費用を支払い、お名前を使って私たちの秘密を守ってくださっていたことを知っていました。
それでも、私が失敗すればアルフレッド様まで笑われると言えば、助けていただけるのではないかと思っていました。
昨日、初めて自分の名で小さな茶会を開きました。
私は招待した令嬢だけを数え、付き添いの方々の椅子もお菓子も用意しておりませんでした。召し上がれないものを事前に尋ねることも、返書に書かれていた話題を覚えておくこともできませんでした。
三名をお招きしただけで、何人もの方に助けていただきました。
だから、以前エレノア様がしてくださったことを、今になってすべて理解したとは申しません。まだ、見えていないことがあると思います。
春の大夜会では、私のために席を選ぶことも、会話を助けることも、アルフレッド様との間を取り持つこともなさらないでください。
私から、今後のご協力も、お許しもお願いいたしません。
あの夜の言葉と、温室でもう一度助けを求めたことを、お詫びいたします。
リリア・ベルナール』
読み返すと、同じ言葉が何度も使われていた。
文章の長さもそろっていない。
教師へ見せれば、直す箇所をいくつも指摘されるだろう。
それでも、リリアはマルグリットを呼ばなかった。
便箋を封筒へ入れ、蝋を落とす。
王妃宮の印は使わない。
ベルナール家の小さな紋章が刻まれた、リリア個人の印章を押した。
廊下へ出ると、王妃宮の女官が待っていた。
「王家の使者をお呼びいたしますか」
「いいえ。ベルナール家の者に届けてもらいます」
「明日の大夜会を前に、男爵家の使用人は王宮とお邸を何度も往復しております。お急ぎであれば、王妃宮からお届けできます」
「急ぎではございません」
リリアは封書を胸元へ抱えた。
「王家からのお手紙にはしたくないのです」
◆◆◆
封書は、その日の夜遅くにグランフェルト公爵邸へ届いた。
ベルナール家の老家令が自ら持参し、公爵家の家令へ手渡した。
求めたのは、封書を受領したという署名だけだった。
エレノアが手紙を受け取ったのは、翌朝である。
春の大夜会を迎える日の朝だった。
「ベルナール男爵令嬢からでございます」
侍女が、朝食後の居間へ封書を運んでくる。
「使者は、返事を求めておりません。昨夜のうちに、受領書だけを持って帰られました」
エレノアは、封蝋にある小さな紋章を見た。
王太子宮でも、王妃宮でもない。
ベルナール家から届いた手紙だった。
封を切り、最初の一行を読む。
返事はいらない。
アルフレッドの謝罪文にも、同じ意味の言葉が書かれていた。
けれど、続く文面は異なっている。
温室で交わした会話。
白いドレス。
教師との契約。
前日に開いた小さな茶会。
リリアは、自分が知らなかったことだけではなく、知ったあとに何を頼んだかを書いていた。
エレノアは最後まで読み、便箋を重ね直した。
「お返事をお書きになりますか」
侍女が尋ねる。
「いいえ」
返答を求められていないからではない。
今は、返す言葉がなかった。
エレノアは封筒へ便箋を戻した。
王家から届いた訂正文や合意書を保管する書類棚には向かわない。
自分の文机の、一番下の引き出しを開ける。
そこには、家族と友人から届いた私的な手紙が収められていた。
リリアの封書を、その端へ置く。
引き出しを閉じると、侍女が大夜会用の衣装を運んできた。
グランフェルト公爵家の深い青を使ったドレス。
王太子の婚約者として選ばれたものではない。
エレノアは窓辺へ立ち、着替えを始めた。
◆◆◆
同じ朝、リリアのもとには、王妃宮から一枚の確認書が届けられていた。
大夜会で名を読み上げる際の、最終的な紹介文である。
リリア・ベルナール男爵令嬢。
アルフレッド王太子殿下の妃候補として審査中。
正式な婚約は、現時点で成立しておりません。
最初の案には、「王太子殿下の選ばれた令嬢」と記されていた。
しかし、それでは正式な婚約者に近い印象を与えるとして、王族会議から訂正を求められた。
読み上げるのは、修正後の三行だった。
「内容をご確認のうえ、署名をお願いいたします」
女官長が言う。
リリアは、三行をもう一度読んだ。
候補。
審査中。
婚約は成立していない。
アルフレッドが壇上で愛を告げても、春の大夜会を迎えても、記される立場は変わらなかった。
リリアは確認欄へ、自分の名を書いた。




