第3話 引き継ぎの朝
翌朝、アルフレッドが目を覚ますより早く、グランフェルト公爵家の馬車が王宮へ到着した。
届けられたのは、国王府宛ての正式な抗議文と、王太子宮宛ての三つの書類箱だった。
国王府へ運ばれた抗議文には、婚約解消そのものへの異議は記されていない。両家で合意していた公表手順をアルフレッドが守らなかったことと、エレノアが二人の恋を妨げていたかのような印象を与えたことについて、王家の説明を求める内容だった。
その報告を受けた国王は、昼前にアルフレッドを呼び出すよう命じた。
だが、それを知らされたとき、アルフレッドはまだ朝食の席にいた。
「父上がお呼びに?」
「はい。正午までに国王陛下の執務室へお越しになるように、とのことです」
側近のジェラルドが答える。
昨夜は夜会が終わったあとも、リリアと二人で祝福の言葉を受けていた。眠りについたのは、空が白み始めるころだった。
婚約解消の発表は多少予定と違ったものの、無事に受け入れられた。エレノアも反対しなかった。
そう思っていたアルフレッドは、父からの呼び出しに眉を寄せた。
「エレノアの父上が抗議したのか」
「公表の手順に関する確認を求めているようです」
「だが、婚約解消には同意していたはずだ」
「その点への異議ではないと聞いております」
「ならば、何が問題なのだ」
ジェラルドは答えに詰まった。
アルフレッドは食後の茶へ手を伸ばしかけ、昨夜のエレノアの言葉を思い出した。
――私が殿下の婚約者としてお預かりしていた役目も、すべてお返しいたします。
「そういえば、引き継ぎを届けると言っていたな」
「すでに届いております」
「もうか?」
「グランフェルト公爵家の使者が、夜明けとともに」
アルフレッドは茶器を置いた。
「見せてくれ」
◆◆◆
王太子宮の執務室には、三つの書類箱が並べられていた。
どれも華美な装飾のない、実務用の頑丈な箱だった。蓋には内容を示す細長い革が留められている。
一つ目は、春の大夜会。
二つ目は、王家とグランフェルト公爵家の共同事業。
三つ目は、ベルナール男爵令嬢に関する支援。
「三箱もあるのか」
思わず漏れたアルフレッドの声に、ジェラルドがうなずく。
「すべて、エレノア様がご婚約者として管理されていたものだそうです」
「管理していたのは、王太子宮ではないのか?」
「王宮側で保管している正式な記録はございます。こちらは、各家や職人、教師との調整に使われていた控えです」
机の中央には、書類箱とは別に、小さな紺色の箱が置かれていた。
アルフレッドが蓋を開ける。
中に収められていたのは、王家の青とグランフェルト公爵家の銀を組み合わせた婚約指輪だった。
七年前、婚約が正式に決まった日に、アルフレッドがエレノアの指にはめたものだ。
まだ互いに幼く、決められた挨拶を間違えないことばかり気にしていた。指輪を受け取ったエレノアは、緊張した顔で何度も礼の練習をしていた。
昨夜、その指に指輪があったかどうか、アルフレッドは覚えていない。
リリアの手を取ることで精いっぱいだった。
「ずいぶん早いな」
アルフレッドは小箱の蓋を閉じた。
「婚約解消の正式な通知は、まだ公爵家へ届いていないはずだ」
「殿下が昨夜、公の場で解消を発表されましたので」
ジェラルドの答えはもっともだったが、なぜか胸に引っかかった。
アルフレッドはその感覚を振り払うように、一つ目の書類箱を開けた。
最初に入っていたのは、春の大夜会へ招く者たちの名簿だった。
単に名前が並んでいるだけではない。
到着予定日、王都での滞在先、同行者の人数、食事上の禁忌、過去の夜会で生じた問題。高位貴族については、隣席を避けるべき相手や、現在どの家と縁談を進めているかまで添えられている。
それぞれの情報の出所も記されていた。
公爵家から得たもの。王宮の侍従から確認したもの。エレノア本人が相手家へ問い合わせたもの。
「ここまで必要なのか?」
アルフレッドが尋ねる。
「春の大夜会には外国使節も出席します。国内貴族との席次が外交上の評価として受け取られるため、通常の夜会より慎重な調整が必要です」
答えたのは、呼ばれて入室した侍従長だった。
彼は名簿を受け取ると、数頁めくった。
「最終決定は王宮で行いますが、その前段階の聞き取りを、エレノア様と公爵家の方々が担っておられました」
「ならば、今後は王宮で続ければよい」
「もちろんでございます」
侍従長は即答した。
「ただ、これまで公爵家の名で問い合わせていた先へは、担当変更の連絡が必要です。また昨夜の発表を受け、招待への返答を保留したいとの連絡が、今朝から届いております」
「なぜ保留する」
「大夜会で、どなたが王太子殿下の隣に立たれるのか分からないためです」
「リリアに決まっている」
「リリア様を、どのような肩書でお立たせになるのでしょう」
アルフレッドはすぐに答えられなかった。
恋人。
王太子が愛する女性。
昨夜はそれで十分だった。
だが、大夜会で外国使節を迎える立場となれば、それだけでは席を決められない。リリアを王太子妃候補として審議する手続きは、まだ始まっていなかった。
「それは、これから決めればよい」
「三週間後に間に合わせるため、早急なご判断をお願いいたします」
侍従長は礼をして、名簿を抱えたまま退室した。
アルフレッドは次の資料へ手を伸ばした。
そこには、大夜会にかかる費用の分担が記されていた。
「公爵家負担?」
「エレノア様と殿下のご婚約を国内外へ示す催しでもあったため、公爵家から祝賀に関わる費用を負担するとの申し出がございました」
今度は王室財務官が答える。
「具体的には、王太子妃側の装飾、招待客への記念品、歓迎晩餐の一部でございます」
「婚約を解消したから、取り下げたのか」
「公爵家の令嬢を祝う催しではなくなりましたので、当然かと」
「王室費で出せばよい」
「可能ではございます。ただし、今年の支出はすでに決められております。大夜会の規模を縮小するか、別の支出を見送る必要がございます」
財務官が差し出した試算には、アルフレッドの狩猟館改修と夏の離宮滞在が、見直しの候補として挙げられていた。
「私の予定ばかりではないか」
「公爵家の負担を前提に、規模を広げるよう求められたのは殿下でございます」
淡々と返され、アルフレッドは試算を机へ戻した。
「すぐに決める必要はない。大夜会まで三週間ある」
「三週間しかございません」
財務官は一礼し、自分の控えを持って退室した。
執務室に残ったジェラルドが、重い空気を和らげるように笑う。
「とはいえ、すでに大半の準備は進んでおります。担当を替えれば済むことです」
「そうだな」
アルフレッドは一つ目の箱の蓋を閉じた。
二つ目の共同事業についても、王家側の担当者へ渡せばよい。
三つ目の箱にはリリアに関するものが入っているようだが、彼女の支援は今後、王太子宮で行えばよいだけだ。
手間は増えるだろう。
だが、エレノアにしかできないことではない。
アルフレッドはそう考え、三つの箱に添えられた封書へ手を伸ばした。
表には、王太子の秘密の恋を守った者たちへ、と記されている。
封を切ると、中には数行だけの文面があった。
『王太子殿下の秘密の恋を守るため、ご尽力なさった皆様へ。
お二人の恋は無事に公となり、多くの方から祝福が寄せられました。
私が婚約者としてお預かりしていた役目は、本日をもって、それぞれ本来のご担当者へお返しいたします。
お二人の未来のため、これまでと変わらぬお力添えをお願い申し上げます。
王子の秘密の恋を守った皆様へ、後始末も皆様でどうぞ。』
読み終えたアルフレッドは、しばらく口を開かなかった。
「ずいぶんと、棘のある書き方ですね」
ジェラルドが苦笑する。
「エレノア様も、昨夜の発表で気が立っておられるのでしょう。数日もすれば落ち着かれるのではありませんか」
「そうだな」
アルフレッドは封書を折り直した。
「エレノアは、国のために必要なことを放り出すような女性ではない」
そう答えた自分の声が、なぜか空々しく聞こえた。
机の上には、返された婚約指輪と、三つの書類箱が並んでいる。
アルフレッドはまだ、そのどれにも、本当の重さがあるとは思っていなかった。




