第2話 知らされなかったこと
王宮を出た馬車の中で、グランフェルト公爵は一度も口を開かなかった。
窓の外では、王都の夜景がゆっくりと後ろへ流れていく。王太子の誕生日を祝うため、大通りの建物には灯りが連なり、広場からは楽師たちの陽気な演奏が聞こえていた。
馬車の中だけが、そこから切り離されたように静かだった。
エレノアは膝の上で両手を重ね、外を眺めていた。
耳の奥には、まだ拍手の音が残っている。
恋を貫いた王太子。
長く耐えてきた男爵令嬢。
二人の幸福を願う、理解ある人々。
あの場で語られた物語には、エレノアの立場だけがなかった。
「私は、あの発表を認めていない」
向かいに座る父が、ようやく口を開いた。
抑えた声だった。
それでも、怒りが消えたわけではない。普段はわずかな乱れも見せない上着の袖を、父の指が強くつかんでいる。
「婚約解消への同意はした。だが、今夜、公にすると聞いた覚えはない。まして、殿下とベルナール嬢が、おまえへの配慮ゆえに耐えてきたなどと――」
「お父様」
エレノアが呼びかけると、父は言葉を止めた。
「婚約解消そのものを争うつもりはございません」
「分かっている」
「でしたら、今夜のうちに王宮へ戻り、発表を撤回させる必要もございません」
「発表を撤回させれば、おまえが殿下との婚約継続を望んでいるように見える。だからといって、何も言わずに済ませることはできない」
父の判断は正しかった。
今から公爵家が強く抗議すれば、人々の記憶には、婚約解消に抵抗するエレノアの姿だけが残るかもしれない。
だからこそ、感情ではなく、何が合意され、何が破られたのかを分けなければならない。
「公爵家から抗議を出してください」
エレノアは窓から父へ視線を戻した。
「ただし、婚約解消への異議ではなく、公表の手順と内容についてです」
父はしばらく娘を見つめ、短くうなずいた。
「そうしよう」
それだけ決めると、馬車の中は再び静かになった。
エレノアは胸元へ手を添えた。
アルフレッドの婚約者として出席する、最後の夜会になるはずだった。別れを惜しむつもりはなかったが、これまで関わってきた者たちへ挨拶をし、自分の担当を次の者へ引き渡す時間くらいは与えられると思っていた。
それすら、アルフレッドには必要のないものだったらしい。
馬車が公爵邸の門をくぐる。
玄関では、夜会から戻るには早すぎる主人たちを、家令と使用人が驚いた顔で迎えた。
「書斎へ来なさい」
父の言葉に従い、エレノアも二階へ向かった。
重い扉の奥では、出発前に片づけたはずの机がそのままになっている。父は燭台へ火を足させると、家令に一つの指示を出した。
「王家との婚約解消に関する合意書を」
ほどなく、薄い革張りの書類入れが運ばれてきた。
父がその中から合意書の控えを取り出し、机へ置く。
婚約解消の条件自体は、簡潔だった。
王家と公爵家が共同で進めている事業については、担当と費用を整理したうえで、継続するものだけを新たな取り決めへ移す。
婚約解消後、双方は互いの名誉を損なう発言をしない。
公表は、アルフレッドからエレノアへ直接説明したあと、両家の名で行う。
最後の一文に、父の指が止まった。
「直接説明したあと、両家の名で行う」
確かめるように読み上げ、父はエレノアを見る。
「殿下から、何か届いていたか」
「いいえ」
「使者も?」
「参りませんでした」
「王太子宮から、面会を求める連絡は」
「ございません」
父の口元が硬く結ばれる。
エレノアはその合意書を、何度も読んでいた。
婚約を解消することは分かっていた。
アルフレッドがリリアを選ぶことも分かっていた。
知らなかったのは、それを今夜、外国使節まで集まった夜会で発表することだった。そして、二人がエレノアを傷つけないために恋を隠してきたという、合意には存在しない物語だった。
「両家の名で発表するという条件も、守られていない」
父が言った。
「殿下は、王家と事前に文面を調整したのではないのでしょうか」
「陛下が、あのような内容を許すとは思えない。王妃陛下のご様子を見ただろう」
「はい」
王妃は驚いていた。
アルフレッドは婚約解消の許可を得たことで、その発表方法まで自分の自由になったと考えたのかもしれない。
「すぐに抗議文を作らせる」
父が呼び鈴へ手を伸ばす。
「公表手順への違反と、事実に反する印象を与えた発言について、明朝までに正式な説明を求める」
「お願いいたします」
「それから、春の大夜会まで続ける予定だった支援は、すべて止める」
エレノアは父を見た。
「よいのか?」
問いかけられ、彼女はうなずいた。
「今夜で、私は王太子殿下の婚約者ではなくなりました」
正確には、王家から正式な婚約解消の通知が届き、双方の記録へ残された時点で効力が確定する。
だが、アルフレッドは公の場で終わりを告げた。
その発言をなかったことにしながら、エレノアにだけ婚約者の役目を続けさせることはできない。
「大夜会の引き継ぎは、すでに整えてございます」
「どこまで済んでいる」
「招待客の出欠、外国使節の滞在予定、席次の暫定案、当日の女官配置までです。王家と公爵家の共同事業についても、継続と終了の候補を分けてあります」
もともと婚約解消は決まっていた。
発表の翌日に慌てて準備したのではない。
エレノアは混乱を避けるため、自分の手を離れたあとも王宮が困らないよう、数週間前から引き継ぎを進めていた。
春の大夜会が終わるまでは、リリアの教育や衣装を含め、表に出ない部分を支えるつもりでもいた。
けれど、もうその必要はない。
「引き渡せるものは、明朝すべてお返しします」
「おまえが個人で結んだ契約は?」
「教師と工房へ、今夜の事情を伝えます。契約を終了するか、王家と改めて契約を結ぶかは、先方の判断に委ねます」
「公爵家の名で約束した費用は、婚約解消と同時に取り下げる」
「はい」
父は家令を呼び戻した。
「引き継ぎ用にまとめてあるものを、すべて運ばせろ。それから法務官と会計責任者を起こせ。今夜中に確認する」
「承知いたしました」
家令が退出すると、エレノアは自室へ戻った。
侍女たちが夜会用のドレスを脱がせ、髪を飾っていた宝石を一つずつ外していく。
最後に残ったのは、左手の指輪だった。
王家の青とグランフェルト公爵家の銀を組み合わせた婚約指輪。
七年前、まだ互いに子どもだったころ、アルフレッドから贈られたものだ。
エレノアは指輪を外した。
皮膚には細い跡が残っている。
「こちらも、明日の箱へ」
侍女は一瞬ためらったあと、両手で指輪を受け取った。
「お嬢様」
「何かしら」
「今夜くらいは、お休みになってもよいのではありませんか」
気遣う声に、エレノアは少しだけ笑った。
「そうしたいところだけれど、最後の仕事が残っているの」
執務室へ戻ると、すでに三つの書類箱が運ばれていた。
最初の箱には、春の大夜会。
二つ目には、王家と公爵家の共同事業。
三つ目には、リリアに関する支援。
エレノアは中身を確かめ、不足している記録を補った。どこまで終わり、どこから王宮側が引き継ぐのか。それだけは曖昧にしなかった。
やがて父が書斎から現れ、机の上の箱を見る。
「これだけのものを、いつから準備していた?」
「婚約解消のお話が出たときからです」
「殿下は、知っているのか」
「引き継ぎを準備していることは、お伝えしました」
「中身までは?」
エレノアは箱へ視線を落とした。
「ご興味がないご様子でしたので」
父は何も言わなかった。
エレノアは三つの箱の上に、それぞれ宛先を記した封書を置いた。
最後に、もう一通だけ新しい便箋を取り出す。
書き出しを記したところで、わずかに手を止めた。
怒りを綴る必要はない。
謝罪を求める必要もない。
今まで預かっていたものを、本来の持ち主へ返す。ただ、それだけでよかった。
エレノアは短い文面を書き終え、グランフェルト公爵家の封蝋を落とした。
銀色の印章を持ち上げる。
やがて封蝋が冷えると、家令が三つの箱を静かに閉じた。
「明朝一番に、王太子宮へお届けいたします」
エレノアはうなずいた。
「お願いします」
翌朝、アルフレッドは初めて、自分が婚約者へ何を預けていたのかを知ることになる。




