第1話 壇上に立つ二人
王太子アルフレッドが一人の令嬢を伴って壇上へ進んだ瞬間、エレノア・グランフェルトは、今夜の発表が約束どおりには行われないと悟った。
王太子の二十一歳を祝う広間には、王族と国内の高位貴族だけでなく、三週間後に予定されている春の大夜会に先立って王都入りした外国使節も招かれている。
その全員が、アルフレッドの隣に立つ令嬢を見つめていた。
リリア・ベルナール男爵令嬢。
淡い桃色のドレスに身を包んだ彼女は、緊張したように胸元で指を重ねていた。愛らしく整えられた髪には、白い小花をかたどった真珠飾りが輝いている。
王太子の正式な婚約者であるエレノアではなく、リリアが壇上にいる。その意味を理解できない者は、この場にはいなかった。
楽団の演奏が止まり、残った音の余韻まで消えていく。
「皆に伝えたいことがある」
アルフレッドのよく通る声が、静まり返った広間に響いた。
エレノアは招待客の最前列から、壇上の二人を見上げていた。
「私はこれまで、王太子として求められる役目を果たすため、自分の心を抑えてきた」
アルフレッドは一度リリアを見てから、集まった人々へ視線を戻す。
「だが、人の心まで身分や慣習で縛ることが、本当に正しいとは思えない」
隣でリリアの肩が小さく震えた。
アルフレッドが励ますように、その手を取る。
「私は、リリア・ベルナール嬢を愛している」
広間にざわめきが走った。
驚きに息をのむ者。扇の陰で囁き合う者。壇上の二人とエレノアを交互に見比べる者。
反応はさまざまだったが、エレノアに驚きはなかった。
アルフレッドとリリアの関係は、二年前から知っている。
婚約を解消することも、王家とグランフェルト公爵家の間ですでに合意していた。アルフレッドがリリアを正式に選ぶなら、エレノアは身を引く。その意思は、父を通して王家へ伝えてある。
ただし、まだ整えるべきことが残っていた。
王家と公爵家が共同で進めてきた事業の整理。春の大夜会における席次と役割の変更。リリアを次の王太子妃候補として審議にかける手順。そして、長年の婚約を解消するエレノアの名誉を損なわない発表の仕方。
アルフレッドは、公表の日時と内容が決まり次第、必ず自分の口から知らせると約束していた。
その面会は、まだ行われていない。
少なくとも今日、この夜会で発表されるとは聞いていなかった。
「リリアとの関係を公にするにあたり、エレノア・グランフェルト嬢との婚約は、両家の合意に基づき解消される」
そこまでは、エレノアも承知していた事実だった。
問題は、その先だった。
「長い間、真実を明かせなかったことを申し訳なく思う」
アルフレッドの表情に苦悩が浮かぶ。
「誰かを傷つけることを恐れ、私たちは自分の気持ちを隠してきた。だが、これ以上、自分の心に嘘はつけない」
誰か。
アルフレッドは名指ししなかった。
それでも、招待客の視線が一斉にエレノアへ集まった。
まるでエレノアが二人の恋を認めなかったため、アルフレッドとリリアは長く離されていたかのような言い方だった。
エレノアの隣に立っていた父、グランフェルト公爵の表情が険しくなる。
壇上近くに座る王妃クラウディアも、扇を持つ手を止めていた。婚約解消には同意していても、このような発表になるとは聞いていなかったらしい。
だが、アルフレッドは王妃の反応に気づいていない。
「エレノア様」
リリアが、涙のにじんだ瞳を向けてきた。
「本当に申し訳ありません。エレノア様を苦しめたくなくて、私たちはずっと耐えてきたのです」
その言葉に、エレノアはすぐには返事をしなかった。
二人が耐えていたという二年間。
アルフレッドがリリアと会うため予定を変えた日には、別の誰かが空いた場所へ立っていた。リリアが社交界で孤立しそうになれば、誰かが彼女を自分の客として招いた。若い二人の関係が軽率な醜聞にならないよう、見えない場所で何人もの人間が動いていた。
リリアは、その多くを知らないのだろう。
アルフレッドは知っているはずだった。
少なくともエレノアは、そのつもりでいた。
「殿下のお気持ちを、我々は以前から存じておりました」
静寂を破ったのは、王太子の側近であるジェラルドだった。
「リリア嬢との誠実な恋を貫かれたご決断を、心より支持いたします」
ジェラルドが拍手する。
それを合図にしたように、二人の関係を知っていた者たちが続いた。
「ようやく、この日を迎えられましたね」
「お二人がどれほど苦しまれていたか、私どもは存じております」
「どうか、今度こそお幸せに」
次第に拍手が広がっていく。
事情を知らない招待客の中にも、王太子の側近が支持するならばと手を叩く者が現れた。
アルフレッドは安堵したようにリリアを見つめ、リリアも涙をこぼしながら微笑み返す。
二人の恋はもう、秘密ではなくなった。
それと同時に、エレノアが二人を守る理由もなくなった。
「エレノア」
父が低い声で呼びかける。
この場で反論するなら、公爵家は娘を守る。
その意思が、短い呼びかけだけで伝わってきた。
エレノアは小さく首を横へ振った。
婚約解消そのものを争うつもりはない。アルフレッドを取り戻したいとも思っていない。
ただ、約束を破られた。
そのうえ、自分が二人の恋を妨げていたかのような形で、大勢の前へ置かれた。
政略によって結ばれた婚約だった。それでも七年間、未来の王太子妃として恥じないよう努めてきた。
最後には、一人の人間として誠実に向き合ってもらえる。
そう信じていたことだけが、胸の奥で静かに痛んだ。
エレノアは一歩前へ進んだ。
靴音は、広間を満たしていた拍手にかき消される。
それでも彼女が壇上の前まで進むと、拍手は一つ、また一つと途切れていった。
アルフレッドが期待を込めた目を向けてくる。
きっと彼は、エレノアが二人を祝福すると信じている。
これまでと同じように、多少の無理も最後には理解してくれると思っているのだろう。
エレノアは背筋を伸ばし、王太子の元婚約者となる令嬢として、申し分のない礼をした。
「王太子殿下のお申し出、確かに承りました」
アルフレッドの肩から、目に見えて力が抜けた。
「エレノア。君ならば理解してくれると思っていた」
彼は晴れやかな顔で続ける。
「私たちは立場こそ変わるが、これからも王家のため、国のために力を合わせて――」
「それでは」
エレノアは声を荒らげることなく、その続きを止めた。
「私が殿下の婚約者としてお預かりしていた役目も、すべてお返しいたします」
アルフレッドの笑みが止まる。
「役目?」
「はい」
エレノアは顔を上げた。
「引き継ぎは、すでに整えてございます。明朝、王太子宮へお届けいたします」
再び広間が静まり返った。
先ほどまで二人の恋を称賛していた者たちも、エレノアの言葉の意味を測るように口を閉ざしている。
「待ってくれ。エレノア、それはどういう――」
「アルフレッド殿下。リリア様」
エレノアは王太子の問いには答えず、壇上の二人へ改めて一礼した。
「お二人の選ばれた未来が、実り多きものとなりますよう、お祈り申し上げます」
続いて王妃へ礼をし、父と共に広間の出口へ向かう。
背後から名前を呼ばれることはなかった。
扉をくぐる直前、エレノアは一度だけ足を止めた。
振り返りはしない。
壇上の二人を包む拍手は、まだ戻っていなかった。




