第22話 二人だけでは足りなかった
春の大夜会まで、あと七日。
王宮の大広間では、当日の入場稽古が行われていた。
招待客はまだいない。
楽団の代わりに小さな弦楽器が一つだけ鳴らされ、名前の書かれた札を胸へ付けた侍従や女官が、外国使節と貴族の役を務めている。
アルフレッドは、国王役の侍従と共に正面扉の前へ立っていた。
リリアは、王妃クラウディアから二人離れた場所にいる。
「それでは、王族の入場から始めます」
儀典部長の合図で扉が開いた。
最初に国王とクラウディア。
その後ろを、アルフレッドと国王の弟である公爵が進む。
リリアは入らない。
王族が高座へ着き、国内の大公妃が呼ばれたあと、王妃の客人として名を告げられることになっている。
アルフレッドが振り返る。
扉の向こうに残るリリアと目が合った。
「そこで止めてください」
儀典部長の声が響く。
「王太子殿下。入場中に後方をご確認になる必要はございません」
「リリアが遅れていないか見ただけだ」
「ベルナール嬢の案内は、王妃宮の女官が担当します」
リリアの横には、女官長が立っている。
アルフレッドが確かめなくても、呼ばれる時機を間違えることはない。
「続けます」
稽古が再開された。
アルフレッドは高座の前まで進み、決められた位置に立つ。
王族全員がそろったあと、大公妃の名が呼ばれた。
続いて、リリア・ベルナール男爵令嬢。
リリアは女官長に導かれ、広間へ入った。
歩幅を合わせる。
高座の手前で止まる。
国王夫妻へ礼をし、案内された席へ向かう。
そこまでは間違えなかった。
けれど、席へ着く直前にアルフレッドを見た。
緊張を和らげようとしたのだろう。
アルフレッドが小さくうなずく。
リリアもほっとしたように笑い、そのまま椅子へ座ろうとした。
「お待ちください」
女官長が止める。
「王妃陛下がまだお立ちです」
リリアの動きが固まった。
クラウディアは、外国王族役の挨拶を受けるため立ったままだった。
王妃の客人であるリリアは、クラウディアが席へ戻るまで座らない。
「申し訳ございません」
「最初の位置から、もう一度お願いいたします」
リリアが扉の外へ戻る。
アルフレッドは儀典部長へ言った。
「今の程度なら、当日は私が合図すればよい」
「殿下は、その時点で北方の王弟殿下からご挨拶を受けておられます」
「少し目を向けるくらいはできる」
「王弟殿下との会話中に、広間の反対側へ合図をなさるのですか」
アルフレッドは答えなかった。
扉の外から戻ったリリアが、そのやり取りを聞いていた。
「もう一度、お願いいたします」
彼女は女官長へ言った。
◆◆◆
二度目の入場では、座る時機を間違えなかった。
三度目は、高座へ礼をしたあと、席へ向かう方向を誤った。
そのたびに最初へ戻る。
次は、外国使節から挨拶を受ける稽古だった。
リリアは教わったとおり、相手の申し出に約束をせず、王妃へ伝えると答えた。
「よろしいでしょう」
女官長が言う。
リリアの顔に、ようやく小さな安堵が浮かぶ。
「今の方は、どちらの国の使節だ?」
アルフレッドが尋ねた。
「北方第二国の外務伯爵です」
「それなら、先ほどの返答でよい」
リリアの表情が曇った。
「今の方だから、よかったのですか?」
「どういう意味だ」
「別の方であれば、返答を変えなければならないのでしょうか」
「申し出の内容による」
「私は、どなたから、何を言われたときに、どう変えればよいのですか」
アルフレッドは女官長を見た。
「それは、女官長から説明を」
「先ほどは、殿下が合図をしてくださると仰いました」
「入場の話だ」
「入場では殿下を見てはいけなくて、お話の返答は女官長様へ伺うのですか」
声は大きくなかった。
だが、何度もやり直した疲れが、言葉の端ににじんでいた。
「すべてを一度にできるとは、私も思っていない」
「では、何をできればよいのでしょう」
「母上のお客人として、失礼のないように振る舞えばよい」
「そのために、毎日教わっています」
リリアは手にしていた練習用の扇を強く握った。
「アルフレッド様は、私が何を教わっているのか、一度でもご覧になりましたか?」
「教師の記録は受け取っている」
「読まれましたか?」
アルフレッドの返事が遅れた。
王族会議。
大夜会の準備。
歳費の精算。
エレノアへの謝罪文。
届いた記録は執務机へ置かれ、ジェラルドが要点を報告していた。
「すべてを読む時間はない」
「私にも、すべてを覚える時間はございません」
「だから、母上と教師たちに任せている」
「それなら、最初から殿下が合図をすると仰らないでください」
広間が静まった。
稽古に参加していた侍従や女官たちが、視線を伏せる。
アルフレッドの顔が硬くなった。
「私は、君を助けようとしただけだ」
「分かっております」
「ならば、なぜ責める」
「分からないからです」
リリアの目に涙が浮かんだ。
「殿下は以前、関係を公にすれば、もう隠れなくてよいと仰いました。私が隣にいればよいと」
「そうだ。今も、その気持ちは変わらない」
「けれど、私は殿下のお隣には座りません。入場も別です。ご挨拶を受ける方も違います」
決めた席を不満に思っているのではない。
その席を自分で選んだのは、リリアだった。
ただ、アルフレッドの隣に立つ未来を思い描いていたときには見えなかったことが、あまりにも多かった。
「少し休みましょう」
クラウディアが告げた。
叱責はなかった。
稽古の続行も命じなかった。
「女官長。お二人の当日の予定表を」
二冊の薄い冊子が運ばれてくる。
「アルフレッドは、リリア嬢の予定を。リリア嬢は、アルフレッドの予定をお読みなさい」
「母上」
「次の稽古は、互いの予定を確認してから行います」
冊子の末尾には、確認者の署名欄があった。
◆◆◆
アルフレッドの予定は、夜明け前から始まっていた。
警備責任者からの報告。
国王との最終確認。
北方の王弟を迎えるための控室訪問。
開会の挨拶。
国内貴族からの祝辞。
最初の舞踏。
食事の途中には、王家が管理する橋の冬季使用について、交易局から短い報告を受ける時間まで入っている。
リリアの予定にも空白が少なかった。
朝の衣装確認。
女官長との挨拶練習。
大公妃に続く入場。
王妃の客人として受ける紹介。
席を立つ時機。
話しかけられた内容を、誰へ伝えるか。
舞踏へ参加できる時間。
退出後には、受けた申し出を女官長と確認することになっている。
二人が同じ場所で、自由に話せる時間はほとんどなかった。
最初の舞踏でさえ、リリアは参加しない。
アルフレッドは、リリアの冊子を閉じた。
「この予定を、毎日練習していたのか」
「まだ、全部ではございません」
リリアはアルフレッドの予定表へ目を落とした。
「殿下も、私のところへ来られる時間はないのですね」
「ああ」
謝罪の言葉は、すぐには出なかった。
先ほど言われたことへの苛立ちも、完全には消えていない。
リリアも涙を拭っただけで、笑わなかった。
「私は、君を隣へ立たせれば、それで守れると思っていた」
「私も、殿下のお隣へ立てれば、それでよいと思っておりました」
二冊の予定表が、二人の間に置かれている。
女官長。
儀典部長。
侍従。
教師。
警備責任者。
通訳。
それぞれの頁に、当日二人を支える者の名があった。
「明日の授業は、外国使節への返答です」
リリアが言った。
「もし、お時間があるのでしたら……私が何を教わっているのか、見ていただけますか」
アルフレッドは自分の予定表を開いた。
午前九時には、側近との打ち合わせが入っている。
「ジェラルドと相談する」
「はい」
必ず行くとは言わなかった。
リリアも、約束を求めなかった。
その日の夕刻、マルグリットのもとへ、王太子宮から一通の連絡が届いた。
『明日の授業へ、アルフレッド王太子殿下が参加を希望されています。
見学者ではなく、受講者として席をご用意ください。』




