第21話 誰の名前を先に置くか
北方の商人組合から、修正案を受け入れるという回答が届いたのは二日後だった。
春の大夜会まで、あと九日。
王宮交易局の会議室には、冬季の橋と国境検査所を使用するための協議書が用意されていた。
エレノアは父と共に、長卓の一方へ座っている。
向かいにはセドリック、北方商人組合の代理人、交易局の官吏が並んでいた。
「こちらが、正式協議に使用する草案でございます」
交易局の官吏が、一人ずつ書類を配る。
最初の頁には、協議の目的が記されていた。
北方からグランフェルト公爵領へ毛織物を運ぶ試験取引。
冬季に東側の低地街道を使用すること。
王家が管理する二つの橋と、国境検査所での確認手順。
前回までに決めた内容と違いはない。
エレノアは、頁の下にある提案者の欄を見た。
共同提案者
グランフェルト公爵
セドリック・ヴァレイン
エレノアの名はなかった。
隣に座る父は、すぐには何も言わなかった。
先に声を上げたのはセドリックだった。
「この欄は、どの記録をもとに作成されましたか」
「橋の使用についてグランフェルト公爵家から提出された正式な申請と、婚約解消前に王家から届いていた事業計画、北方使節団からの回答です」
官吏が答える。
「橋の使用申請者はグランフェルト公爵。北方側の連絡責任者はヴァレイン卿ですので、お二人を共同提案者といたしました」
「私は、この取引を提案しておりません」
官吏の指が止まった。
「北方側との条件を調整されたのは、ヴァレイン卿と伺っております」
「連絡と調整を担当しました。取引を考案した者ではありません」
「ですが、北方側の正式な署名権をお持ちなのは――」
「持っておりません」
セドリックは、北方商人組合の代理人を示した。
「契約へ署名するのは、こちらの代理人です。私は三国の使節団と王宮をつなぐ連絡役であり、この事業では条件を伝える役目を担っています」
提案者。
契約する者。
連絡する者。
草案では、三つの違う役目が一つの欄へ入れられていた。
グランフェルト公爵が、官吏へ尋ねる。
「私の名を記した理由も、家長だからか」
「はい。公爵家を代表して契約を承認できる方ですので」
「私は事業を承認した。だが、北方の毛織物を我が領地で染めることを考えたのは、娘だ」
官吏は、エレノアへ視線を向けた。
「王家から届いていた最初の事業計画には、エレノア様のお名前がございました。ただ、肩書きが王太子妃予定者となっておりましたので」
「現在は、その肩書きを使用できない」
「はい。そのため、公爵家の正式な代表者へ置き換えました」
悪意を持って名を消したわけではない。
使えなくなった肩書きを外し、代わりに最も高い権限を持つ者の名を入れた。
書類を整えた官吏にとっては、それが自然な修正だったのだろう。
公爵邸で肩書きを改めた協議書は、北方側との控えとして作られたもので、王家が先に提出していた事業計画の差し替えとしては交易局へ届いていなかった。
セドリックが、自分の控えから一枚の協議記録を取り出した。
「こちらは、先日グランフェルト公爵邸で作成した冬季輸送の修正案です」
輸送路を季節で分ける。
積雪の知らせを受けた時点で、東側の街道へ切り替える。
冬用の箱を試作する。
追加費用について、現地責任者が判断できる上限を決める。
各項目の横には、その内容を確認した者の名が残っていた。
「輸送業者、会計官、工房責任者。そしてエレノア嬢です」
セドリックは最後の頁を開く。
「グランフェルト公爵は、家長として末尾で承認されています。私の署名は、北方へ修正案を持ち帰る者としてのものです」
「では、共同提案者の最初には、エレノア様のお名前を?」
「最初ではなく、この欄そのものを分けるべきです」
セドリックの返答に、官吏が草案へ目を落とした。
「欄を増やすのですか」
「増やさなければ、書かれている者が何をしたのか分かりません」
官吏はしばらく考え、草案の余白へ三本の線を引いた。
事業設計者。
契約承認者。
北方側連絡責任者。
「この形であれば、いかがでしょう」
最初の欄に、エレノアの名が入る。
二つ目にはグランフェルト公爵と、北方商人組合の代理人。
三つ目にセドリック。
エレノアは、事業設計者という言葉を見た。
「一点、修正をお願いいたします」
「どちらでしょう」
「事業設計者を、私一人にはしないでください」
セドリックが顔を上げる。
エレノアは、冬季輸送の修正記録を開いた。
「毛織物と染料を結びつけた最初の案は、私が作りました。ですが、洗浄方法は北方の工房が確認しています。染めたあとの寸法は、公爵領の工房が調べました。冬季の輸送路と箱については、輸送業者の提案です」
「全員のお名前を、最初の頁へ記載しますか」
「いいえ」
それでは、今度は名前を並べただけになる。
「最初の提案者と、実施計画を作成した者を分けてください。詳しい担当者は、項目ごとの記録へ残します」
官吏が新たな欄を作る。
事業発案者 エレノア・グランフェルト
実施計画作成 グランフェルト公爵家実務担当者、北方商人組合、参加工房、輸送業者
「こちらでよろしいですか」
エレノアは父とセドリック、北方の代理人を見た。
異議は出なかった。
「お願いいたします」
◆◆◆
草案の修正には、予定より時間がかかった。
名前の欄を分けると、本文にも曖昧な箇所が見つかったからだ。
公爵家が確認する、とだけ書かれていた箇所には、会計官か工房責任者かを記す。
北方側が判断する、という箇所には、工房と商人組合のどちらかを入れる。
連絡先も、セドリック一人にはしなかった。
使節団が帰国したあとも取引は続く。
北方商人組合と公爵家に、それぞれ常任の連絡担当者を置くことになった。
すべての修正を終えるころには、最初の頁だけでなく、本文の半分近くに書き込みが増えていた。
「清書には、二日いただきます」
交易局の官吏が言った。
「大夜会の七日前までには、全員へお届けいたします」
「受け取り次第、確認します」
グランフェルト公爵が答える。
会議を終えたエレノアは、父と共に席を立った。
セドリックも書類を鞄へ収める。
「先ほどは、ありがとうございました」
エレノアが言うと、セドリックは首を横へ振った。
「私が提案していないものへ、提案者として署名することはできません」
「それでも、私の名がないことを最初に指摘してくださったのは、セドリック様です」
「名前がなければ、次に問題が起きたとき、あなたへ確認が届かなくなります」
エレノアは修正前の草案を見た。
グランフェルト公爵。
セドリック・ヴァレイン。
もし、その二人の名で協議が始まっていれば、染料や縮みについての質問まで父とセドリックへ送られていただろう。
「では、次の確認は私がお受けします」
「お願いいたします」
二日後に届いた清書の最初の欄には、こう記されていた。
事業発案者
エレノア・グランフェルト公爵令嬢
王太子妃予定者という、今はもう使われない肩書きはない。
グランフェルト公爵の娘だからという説明もない。
その下に、実施計画へ関わる者たちと、契約を承認する者たちの名が、それぞれ別の欄で並んでいた。
エレノアは自分の名の横へ、確認の署名を入れた。




