第16話 最初の授業
翌朝九時、リリアは王妃宮の学習室で教師を待っていた。
以前にも使ったことのある部屋だった。
壁には王国と周辺諸国の地図が掛けられ、窓際の棚には礼法や歴史に関する本が並んでいる。
けれど、机の配置は以前と違っていた。
リリアの机の隣には、記録係となる女官の席がある。
その机には、日付、授業内容、理解できたこと、今後必要な課題を記すための用紙が置かれていた。
秋の王族会議へ提出される記録である。
扉が開き、マルグリット・ローレン伯爵未亡人が入室した。
かつて王妃付きの女官を務め、これまでにもリリアへ作法を教えていた女性だ。
「おはようございます、リリア様」
「おはようございます、先生」
リリアが礼をすると、マルグリットは動きを見届けてからうなずいた。
「礼の形は忘れておられませんね」
「昨日、一人で練習いたしました」
「結構です」
優しい声も、穏やかな表情も以前と同じだった。
リリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「本日は、これまでの続きからでしょうか」
「いいえ」
マルグリットは、二冊の学習記録を机へ置いた。
一冊は、エレノアが引き渡したこれまでの記録。
もう一冊は、王妃宮が新たに作成した王太子妃候補用の計画である。
「以前の授業では、茶会や夜会で不用意に恥をかかないことを優先しておりました」
マルグリットが古い記録を開く。
上位の貴族へ行う礼。
会話へ加わる時機。
食事の作法。
舞踏会で誘いを受けた場合の返答。
リリアがこれまで教わったものには、すべて印が付いている。
「今日からは、王太子妃候補として人前へ立つことを想定します」
新しい計画表には、知らない項目が並んでいた。
外国使節の正式な出迎え。
国王夫妻の代理として受ける挨拶。
領主の請願を聞く際の返答。
王家の名で約束できることと、できないこと。
「最初は、外国使節への応対を確認いたします」
「春の大夜会のためですか?」
「大夜会でリリア様が使節をお迎えするかは、まだ決まっておりません」
マルグリットは訂正した。
「将来、その役目を担えるかを確かめるためです」
すでに決まった未来のためではない。
選ばれるかどうかを確かめる授業だった。
「承知いたしました」
リリアは膝の上で手を重ねた。
◆◆◆
模擬の応対には、王妃宮の女官長が使節役として参加した。
女官長が北方の小国から訪れた伯爵夫人であり、王妃へ挨拶をする前にリリアと言葉を交わす、という設定である。
リリアは学習室の扉の前から歩き始めた。
決められた位置で足を止め、名を呼ばれるのを待つ。
一礼する。
相手の国と名前を確認して、挨拶する。
そこまでは間違えなかった。
「我が国の織物へ関心をお寄せいただいていると伺いました」
女官長が言った。
「北方の冬は長く、織物を運ぶ道が雪で閉ざされることもございます。王国から、道の整備へお力添えをいただければ心強く存じます」
リリアは微笑んだ。
「それは大変ですね。王家からも、きっとご支援できると思います」
「そこまでです」
マルグリットの声がした。
リリアの笑みが止まる。
「今の返答には、どのような問題がありましたか?」
「あの……道の整備には、費用がかかるからでしょうか」
「それもございます」
「でしたら、費用を確かめてからと申し上げれば」
「リリア様には、王家から支援すると約束する権限がございません」
記録係の女官が、用紙へペンを走らせる。
リリアは、その音を聞きながら女官長を見た。
「ですが、何もできませんと申し上げるのも、冷たいように思います」
「できるか分からないことを、できるように答える必要はありません」
マルグリットは、三つの返答を書いた紙を渡した。
ご事情を王妃陛下へお伝えいたします。
担当する者から、改めてお話を伺わせます。
本日はお申し出を承りました。
「この中から、リリア様の立場で使える言葉を選びます」
どの返答も、相手の願いを拒んではいない。
同時に、支援するとも約束していなかった。
「もう一度、お願いいたします」
リリアは最初の位置へ戻った。
今度は、相手の国名を言い間違えた。
三度目は、王妃へ伝えると言うべきところで、アルフレッドへ相談すると答えた。
四度目には言葉を選ぶことへ気を取られ、相手を立たせたまま自分だけ椅子へ座りかけた。
そのたびに、マルグリットが止める。
記録係のペンは、一度も止まらなかった。
一時間が過ぎるころには、リリアの背中へ汗がにじんでいた。
「少し、お休みをいただけますか」
「もちろんです」
すぐに茶と水が用意された。
リリアは水を一口飲み、記録係の用紙を見た。
遠くて細かな文字までは読めない。
それでも、何行も増えていることは分かった。
「今日間違えたことは、すべて王族会議へ提出されるのですか」
「間違えたことだけではございません」
マルグリットが答える。
「最初からできたこと、説明を受けて直せたこと、まだ練習が必要なことを記録します」
「以前の授業では、このような記録はありませんでした」
マルグリットは古い学習記録をリリアの前へ開いた。
「ございました」
頁ごとに、その日にできたことと、次の課題が記されている。
ただし、秋の王族会議へ提出するという目的がなかったため、リリア本人へ毎回見せてはいなかった。
「エレノア様も、こちらをご覧になっていたのですよね」
「はい」
「では、私ができなかったことも、すべてご存じだったのですか」
「授業を組むために必要な範囲で」
マルグリットは、前年の夏の頁を示した。
リリアが体調を崩し、二度授業を休んだ時期である。
余白に、エレノアの筆跡が残っていた。
次回は復習のみとし、新しい内容は増やさないでください。
秋の音楽会に必要な項目を優先し、外国使節への応対は関係が公になったあとに。
「外国使節への授業を、エレノア様が止めていたのですか?」
「先送りになさったのです」
マルグリットは静かに言った。
「当時のリリア様は、王太子殿下との関係を公にできない男爵令嬢でした。王太子妃だけが必要とする作法を教えれば、教師や使用人から理由を疑われます」
学ぶ必要がないと思われていたのではない。
秘密を守りながら進められるところまで、進められていた。
その先に今日の授業があった。
「エレノア様は、どのくらい先まで計画なさっていたのですか」
マルグリットが最後の頁を開く。
アルフレッドとリリアの関係を公にしたあとの計画案が挟まれていた。
正式な教師の契約。
半年間の基礎教育。
王妃宮での実習。
少人数の外国使節との面会。
最後に、大きな夜会での応対。
一年以上をかける計画だった。
リリアは、春の大夜会までの日数を思い浮かべた。
あと十四日。
「私は、二週間でできるようにならなければいけないと思っていました」
「二週間で一年分を終えることはできません」
「では、大夜会には間に合いませんね」
「何へ間に合わせるかによります」
マルグリットは新しい計画表を示した。
「王妃陛下のお客人として席に着き、紹介された方へ正しく挨拶する。そこまでであれば、練習できます」
「アルフレッド様の隣で、使節をお迎えすることは?」
「今の時点では、お約束できません」
以前なら、その言葉だけで胸が沈んだだろう。
今も残念ではあった。
けれど、できないことをできるように見せても、途中で言葉を誤れば、その場にいる全員へ知られてしまう。
「午後の自習まで含めると、今日のような授業は何時間になりますか?」
「三時間の授業と、一時間ほどの復習です」
リリアは時計を見た。
まだ午前十時半だった。
すでに集中が切れかけている。
「三時間を続けて受けるのは、難しいと思います」
記録係のペンが動く。
言ってしまったあと、リリアは指先を強く重ねた。
「時間を減らしますか?」
「いいえ」
リリアは首を横へ振った。
「午前と午後に分けることはできますか。午前に教わって、昼に復習して、午後にもう一度試したいのです」
マルグリットは、その日の予定表を確認した。
「教師の予定が合う日は可能です。毎回ではございませんが、週に二日は分けられます」
「では、そのようにお願いいたします」
「本日の午後から、試してみましょう」
記録係が、新しい授業時間を書き加えた。
できなかったために短くした、とは記されない。
理解したことを、その日のうちに試すための変更だった。
◆◆◆
午後の授業で、リリアは同じ模擬応対を三度行った。
一度目は、返答の途中で言葉が止まった。
二度目は、相手の願いを王妃へ伝えると答えられたものの、礼をする順番を間違えた。
三度目に、ようやく最初から最後まで進むことができた。
「本日は、ここまでにいたしましょう」
マルグリットが言うと、リリアは大きく息を吐いた。
記録係が、完成した用紙をリリアの前へ置く。
できたことより、まだ練習が必要なことのほうが多い。
「こちらへ署名をお願いいたします」
「私も署名するのですか?」
「ご自身の学習記録ですから」
リリアは最初から読み直した。
使節への返答で権限を越えた発言。
国名の言い間違い。
礼の順番。
休憩後、返答を修正できたこと。
午後には一度、最後まで応対できたこと。
消してほしいと思う行もあった。
それでも、何も言わずに自分の名を書いた。
記録係が用紙を受け取った直後、王太子宮から使者が到着した。
届けられたのは、春の大夜会の新しい席次案だった。
エレノアが作成した三案を使わず、ジェラルドと儀典部が初めて作成したものである。
リリアは、自分の名を探した。
アルフレッドの隣ではない。
王妃クラウディアの席から二つ離れた、王妃宮の客人としての場所に記されていた。




