第12話 エレノアの予定
セドリックがグランフェルト公爵邸へ到着したとき、応接室の卓には十二枚の布が並べられていた。
北方の羊毛を使った織物である。
灰色、薄茶、乳白色。
どれも織り上げたままの色で、まだ染料には浸されていない。
卓の反対側には、グランフェルト公爵領で作られた染料の見本が置かれていた。
深い青。
赤みを帯びた紫。
青みを帯びた灰色。
公爵と領地の会計官、染料工房の責任者が席に着き、エレノアは父の右隣に座っていた。
夜会の日にまとっていた銀色のドレスではなく、落ち着いた深緑の衣装を身につけている。左手に婚約指輪はない。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
セドリックが礼をすると、公爵は向かいの席を勧めた。
「こちらこそ。王宮との調整でお忙しいところ、よく来てくださった」
「午前の確認は、先ほど終わりました」
セドリックは鞄から協議書を取り出した。
「北方の二つの工房が、試験的な取引へ参加する意思を示しています」
エレノアが書類を受け取る。
計画しているのは、北方から未染色の毛織物を仕入れ、グランフェルト公爵領で染めて販売する取引だった。
北方の織物は温かく丈夫だが、色の種類が少ない。
一方、公爵領には質のよい染料があるものの、染められる厚手の布が不足している。
それぞれが余らせているものを、もう一方が必要としていた。
「輸送中の水濡れについて、北方側から条件が追加されています」
セドリックが該当する箇所を示した。
「未染色の布が傷んだ場合、どちらが損失を負うかを明記してほしいとのことです」
「国境を越える前は北方の工房、越えたあとは当家で負担する案はいかがでしょう」
エレノアの提案に、会計官が輸送路の図を開く。
「国境の検査所で、布の状態を双方が確認する必要がございます」
「では、試験中の四回は当家からも検査人を出しましょう。問題がなければ、正式取引へ移ったあとからは記録の交換だけにする」
「北方側も受け入れやすいと思います」
セドリックは、その場で修正案を書き添えた。
一つの条件が決まると、会計官が費用を計算し、工房の責任者が作業日数を答える。
誰か一人が、見えないところですべてを整える必要はなかった。
それぞれが、自分の分かることを持ち寄っている。
「試験取引の開始は、予定どおり初夏でよろしいでしょうか」
「はい」
エレノアはうなずいた。
「公爵家として、必要な準備を続けます」
セドリックが協議書の表紙を開いた。
以前の書面には、取引を提案した者として、王太子妃予定者エレノア・グランフェルトと記されていた。
新しい書面では、その肩書きに細い線が引かれている。
代わりに記されたのは、グランフェルト公爵家実務担当。
「こちらの表記で、問題はございませんか」
問われたエレノアは、しばらく二つの肩書きを見比べた。
王太子妃になるため、学んできた。
王太子妃になるからこそ、会うことのできた相手もいる。
この交易の話を始めたときも、王太子の婚約者という立場が扉を開いたことは否定できない。
けれど、北方の布を調べ、公爵領の工房と何度も話し合い、取引の形を考えたのはエレノアだった。
「問題ございません」
彼女は新しい肩書きの横へ署名した。
「今後はこちらでお願いいたします」
公爵も家長として署名し、セドリックが北方側の連絡役として名を記す。
三人分の署名がそろったところで、書類はそれぞれの控えへ分けられた。
そのとき、廊下から足音が近づいた。
家令が銀盆に一通の封書を載せて入室する。
「お嬢様。王太子宮より、至急の確認が届いております」
公爵の視線が、わずかに険しくなった。
「何の確認だ」
「春の大夜会における、北方使節団の席次についてとのことでございます」
セドリックは何も言わなかった。
エレノアは父を見た。
公爵は封書へ手を伸ばさず、娘へ判断を委ねる。
「拝見します」
封を切ると、中には席次案が三枚入っていた。
どれも、エレノアが以前作成した案の写しだった。
第一案は、エレノアが王太子妃としてアルフレッドの隣に立ち、北方の使節を迎える場合。
第二案は、王妃が外国使節の応対を補う場合。
第三案は、北方三国のうち一国の王族が出席した場合。
末尾に、ジェラルドの署名で質問が添えられていた。
『現在の状況では、いずれの案を採用するのが適切でしょうか。』
エレノアは三枚を重ねた。
「返事をなさるのですか」
セドリックが尋ねた。
「はい」
公爵の会計官が、わずかに顔を上げる。
エレノアは新しい便箋を一枚だけ用意させた。
長い説明は書かなかった。
『いずれの案も、作成時とは前提となる出席者および役割が異なっております。
現在の責任者において、新たな案をご決定ください。』
それだけを記し、署名する。
「以前の案を直すこともできたのではありませんか」
セドリックの問いに、責める響きはなかった。
「できると思います」
エレノアは封を閉じた。
「ですが、私が直せば、その案に何か起きたときも、また私へ確認が戻ってきます」
「なるほど」
「元の案を作成した理由は、引き継ぎへすべて残しました。今の出席者をどこへ座らせるかは、今の責任者が決めることです」
家令が封書を持って退室する。
公爵は何も褒めなかった。
ただ、次の協議書を娘の前へ置いた。
会議は、そのまま続いた。
◆◆◆
一時間ほどで協議を終えると、公爵と実務担当者たちは、修正した条件を清書するため別室へ移った。
応接室には、エレノアとセドリック、それぞれの侍女と従者が残った。
侍女が新しい茶を用意する。
「北方の使節から、エレノア嬢へお渡ししたい品があるそうです」
セドリックが言った。
「銀色の意匠を織り込んだ毛織物です」
「先ほど、ジェラルド卿からも確認がございました」
「大夜会の贈答からは外していただきました。後日、使節団の代表が改めてこちらへ伺います」
エレノアはカップへ触れずに尋ねた。
「あの品は、王太子の婚約者へ用意されたものではありませんでしたか」
「最初の名目は、そうでした」
セドリックは認めた。
「ですが、贈り主は、交易に協力したあなたへ渡すことを望んでいます。肩書きが変わったために贈れないのであれば、感謝した相手ではなく、肩書きへ品を用意したことになりますから」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
「では、公爵家の者としてお受けいたします」
「先方も喜びます」
セドリックは鞄から、もう一枚の予定表を取り出した。
「試験用の織物が届くのは、大夜会の八日後です。その日に工房で染め方を確認したいのですが、ご都合はいかがでしょう」
エレノアは侍女から自分の予定帳を受け取った。
王宮へ出向く日。
アルフレッドの予定に合わせる日。
リリアの授業へ付き添う日。
それらを消したあとには、いくつもの空白ができている。
大夜会の八日後も、まだ何も記されていなかった。
「伺います」
エレノアは、その日の欄へ工房訪問と書き込んだ。
「何時からにいたしましょう」
「エレノア嬢のご都合に合わせます」
「では、午後の早い時間に」
「承知しました」
予定帳に、時刻が加えられる。
それはもう、王太子殿下の予定のために空けた時間ではなかった。




