第二話 金のない国
目を覚ました時。
最初に感じたのは、土の冷たさだった。
「……」
岡崎はゆっくり目を開けた。
青い空。
見たことのない形の雲。
風に揺れる草。
そして。
遠くに見える巨大な城壁。
「本当に……異世界か」
口に出しても、現実感はなかった。
昨日まで自分は東京にいた。
銀行員として働き。
全国表彰を受け。
公園で老人と話していた。
そして。
世界が消えた。
今、手元にあるもの。
スマートフォン。
動かない。
財布。
紙幣。
クレジットカード。
この世界ではただの紙切れだ。
だが。
頭の中にあるものだけは消えていなかった。
金融知識。
経済の仕組み。
人を見る経験。
岡崎は立ち上がった。
「金がない世界……か」
老人の言葉を思い出す。
『金の意味を知らない世界』
最初は意味が分からなかった。
しかし。
数時間歩いた岡崎は理解した。
この世界には。
自分が当たり前だと思っていたものが存在しない。
辿り着いたのは、小さな村だった。
村と言っても、東京の住宅街とは比べ物にならない。
木造の家。
荒れた畑。
痩せた土地。
人々の顔には疲労が浮かんでいる。
岡崎が歩いていると、一人の少年が声をかけてきた。
「旅人?」
振り返る。
十六歳ほどの少年。
服は古い。
しかし目だけは鋭い。
「そんなところ」
岡崎が答える。
少年は不思議そうに見る。
「変な旅人だな」
「何が?」
「荷物が少なすぎる」
岡崎は苦笑した。
確かに。
普通の商人なら商品や荷物を持っている。
「名前は?」
「レオン」
少年は答えた。
「この村で何でも屋みたいなことをしてる」
「何でも?」
「読み書きできるからな」
岡崎は少し驚いた。
この時代。
読み書きができる人間は貴重らしい。
「君は商人か?」
レオンが聞く。
岡崎は少し考えた。
銀行員。
そう答えても意味はない。
「……商人になる予定だ」
レオンは笑った。
「予定?」
「まだ何もないのに?」
岡崎は村を見る。
「だから作る」
村の宿で話を聞いた。
この村はラグナ王国の北端。
七つある大国の中でも最弱の国。
周囲には強国が存在し、いつ侵略されてもおかしくない。
しかし。
岡崎が気になったのは軍事力ではなかった。
「なぜ、この村はこんなに貧しい?」
レオンは答えた。
「売れないから」
「作物はある」
「でも買う商人が少ない」
農民は収穫した作物を町へ運ぶ。
そこで商人に売る。
しかし。
村人には市場の情報がない。
だから。
いくらで売ればいいか分からない。
商人に言われた値段で売るしかない。
岡崎は黙った。
前の世界でも似た問題はあった。
情報を持つ者が有利になる。
だが。
この世界では、それが極端だった。
「つまり」
岡崎は言う。
「この村には金がないんじゃない」
レオンを見る。
「金を生む仕組みがない」
少年は首を傾げる。
「仕組み?」
「そう」
岡崎は答えた。
「人と金を繋ぐ仕組みだ」
その夜。
岡崎は村の酒場へ行った。
そこで一人の老人に出会った。
白髪。
古い服。
しかし。
姿勢が異様に良い。
「お前」
老人が言う。
「商人だな」
岡崎は警戒する。
「なぜ?」
老人は笑った。
「普通の旅人は、村人の貧しさより先に自分の腹を気にする」
「お前は違う」
「村の金の流れを見ていた」
岡崎は驚いた。
「あなたは?」
老人は酒を飲む。
「アルベルト」
「昔、商売をしていた」
「今はただの老人だ」
ただの老人。
岡崎にはそう見えなかった。
「この村を変えたいのか?」
アルベルトが聞く。
岡崎は少し考える。
「変えられるなら」
老人は笑った。
「危険だぞ」
「なぜ?」
「金の流れを変えるということは」
「今、利益を得ている者の利益を奪うということだ」
岡崎は黙る。
それは分かっていた。
銀行員だったから。
金融は人を救える。
同時に。
既存の権力を壊す力もある。
翌朝。
岡崎は小さな机を借りた。
店ではない。
まだ商品もない。
ただ紙とペンを置いた。
レオンが聞く。
「何をするんだ?」
岡崎は答える。
「信用を作る」
「信用?」
「この世界で、一番足りないものだ」
岡崎は村人を集めた。
農民。
職人。
小さな商人。
十人ほど。
「皆さんに提案があります」
村人は不安そうに見る。
「俺に金を預けてください」
ざわめき。
「知らない男に?」
当然の反応だった。
岡崎は頷く。
「そうです」
「だから」
紙を広げる。
「全部記録します」
誰が。
いくら出したか。
何に使ったか。
利益はいくらか。
全て公開する。
老人アルベルトが目を細める。
「……面白い」
岡崎は続ける。
「この金を使って、村で商売をする人間を助けます」
「成功したら利益を分ける」
「失敗したら、理由を全員で考える」
村人は黙っている。
簡単には信用しない。
当然だ。
岡崎は笑った。
(銀行を作る前に)
(まず必要なのは)
(預けてもいいと思われる人間になることだ)
その日。
誰も金を出さなかった。
唯一。
少年が前に出た。
レオンだった。
「これ」
小さな袋を置く。
「俺の全財産」
岡崎は驚く。
「いいのか?」
レオンは笑う。
「分からない」
「でも」
岡崎を見る。
「この村で初めて、未来の話をした奴だから」
袋の中には。
銀貨三枚。
岡崎は受け取った。
「ありがとう」
それは金ではなかった。
最初の信用だった。
夜。
アルベルトが一人で呟く。
「銀行……か」
岡崎が振り返る。
「今、何と言いました?」
老人は笑う。
「いや」
「昔聞いたことがある言葉を思い出しただけだ」
岡崎は不思議に思う。
しかし。
老人は何も言わなかった。
その頃。
遠く離れた隣国。
一人の若い商人が報告書を見る。
「辺境の村で、不思議な男が現れた?」
「はい」
「何をしている?」
部下が答える。
「金を集めています」
青年は笑う。
「ただの金貸しか」
「違います」
「彼は……」
報告書を読む。
「人間の信用を集めています」
青年の表情が変わる。
「……名前は?」
「岡崎です」
青年は窓の外を見る。
「面白い男だ」
「会う価値があるかもしれない」
この日。
まだ誰も知らなかった。
小さな村で始まった小さな仕組みが。
やがて七大国すべてを巻き込む戦争になることを。




