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ローゼンタール暦561年。
ローゼンタール王国の東端にあるファーレン公爵領の領主邸に続く門から、1台の馬車が邸宅に向けて通り抜けていく。
「さあ、着きましたよ。ここがファーレン公爵である私の屋敷です。あなたは今日から、ミカ・ファーレンになるんですよ」
豪奢な馬車にゆったりと腰掛けた紳士が、窓の外に見えてきた邸宅を眺めながら、にこやかに笑う。
彼の膝の上に横向きに座る幼い子供は、紳士の視線を追って窓の外をぼんやりと見ながらも、やや舌足らずな高い声で、ポツリと反論した。
「わたしは……エディウス・ミカエル・ローゼンタール、だ」
まっすぐに肩のあたりまで伸びた金色の髪は、頭を動かすたびにサラサラと艷やかに流れ、蒼く澄んだ瞳は森の湖を思わせる。まるで熟練の職人が創り上げた人形のように整った面立ちの幼子は、紺色のドレスを着て紳士の膝の上に大人しく座っていた。
紳士は幼児の反応に眉尻を下げ、今度は困ったように笑った。
「ええ、そうですね。あなたはとても賢い子です。だからこそ、あえて申し上げます。
エディウス・ミカエル・ローゼンタールの名は、あなたのお父上が許すまで、お忘れ……いいえ、決して名乗ってはいけません。私と殿下だけの秘密です。
あなた…いや、君は今日からミカ・ファーレンとして、我が公爵家の一番末の妹姫になるんですよ。そして、私ラサニエル・アレックス・ファーレンが君の父となります」
紳士……ラサニエル公爵は、今年30になるファーレン公爵家の当主だ。
そして幼子は、ラサニエルの年下の親友でありこの国ローゼンタール王国の王太子であるユリウスから、秘密裏に託された第一王子だ。
王都にある王宮から誰にも知られずに抜け出し、何度か変装を繰り返して、進路と馬車を替え、身代わりまで立てて、ファーレン公爵領まで通常の倍の時間をかけてやって来た。
その間まだ3歳の王子は、泣くことも動き回ることもなく、淡々とラサニエルの言う事を聞き、ここまでやってきたのだ。
王族であるが故加護持ちで生まれてきたエディウスは、容姿は年相応ながら、おそらくその年齢の子供たちよりもずっと大人びており聡明だ。
だからきちんと説明すれば、大抵のことは理解できる子供だった。
「ひみつ?」
「ええ、私以外に誰にも喋ってはいけないということです」
「わかった。わたしはミカ。今日からこーしゃくが父上」
「はい、よく出来ましたね。では、参りましょう。私の大切な家族に、ミカを紹介しますよ。今日から君も、うちの家族になりますからね」
ラサニエルにとって、2ヶ月ぶりの領地の我が家だった。
彼はエディウスを抱き上げて馬車を降り、公爵家の護衛騎士が玄関の扉を開ける。
そこには先触れの報を受け、ラサニエルの家族が揃って待っていた。
「あなた、お帰りなさい。長旅、お疲れ様でした」
まだうら若い貴婦人と、エディウスを下ろして腕を広げたラサニエルが、軽く抱擁を交わす。
そして、足元に立つ幼子の手を取って、家族と引き合わせた。
「マリアネラ、クリス、ディアただいま。この子が、ミカだよ。まだ3歳だがとても賢い子で、君たちの妹になる。
ミカ、今日から君は私達の一番小さな家族だ」
ラサニエルに紹介されたマリアネラが、屈んでエディウスの瞳をのぞきこむ。
彼女の深い緑色の瞳がゆらりと震えて、一瞬ここではない何処かに立っているような不思議な感覚をエディウスは覚えた。
そして、無意識にぱちぱちとまばたきを繰り返す。
「ふふっ、いい子ね……よろしくミカ、私はマリアネラよ。今日からお母様と呼んでちょうだいね」
マリアネラが納得したように笑顔で頷いた後、エディウスの額に軽く口づけてから立ち上がったタイミングで、公爵は彼女の隣に立っている兄妹の肩に手を置いた。
「この子達は、君の兄になるクリスティアン・ノアール・ファーレンと、姉になるクラウディア・エマ・ファーレンだよ」
「僕はクリスティアンだよ、ミカ。この間9歳になったよ。君より6つ上の兄になるね。
可愛い妹がもう一人増えて嬉しいな。僕のことはクリスと呼んで?」
「クリス……」
緩くウェーブした栗色の髪にヘーゼルグリーンの瞳が穏やかに微笑む。エディウスよりはだいぶん歳上に見える優しげで整った容姿の少年だ。
エディウスが、ポツリと彼の呼び名を口にしたとき、いきなり彼の右手が温かく柔らかい少女の手に取られ、ブンブンと上下に振られる。
兄よりも淡い栗色のふわふわとした髪に、若葉色の大きな瞳をキラキラさせた少女が、エディウスのすぐ目の前で満面の笑みを浮かべていた。
「すっごく綺麗で可愛い妹が出来て、嬉しい! 私はクラウディア。ディアって呼んでね。お姉様でも良いわ。5歳よ」
「え? あの……」
その距離の近さと勢いに、エディウスは思わずたじろぐ。
こんな風に誰かに話しかけられたのは、初めてだった。
エディウスの戸惑いを兄が察したのだろう。クラウディアの背を優しく宥めるように叩いて、声を掛ける。
「ディア、ミカがびっくりするだろ? ほら、少し離れて」
「あ、ごめんね、ミカ。嫌だった?」
あ……と、すぐに一歩下がったクラウディアが、しゅんとして、申し訳なさそうに謝った。
「いや……じゃない、けど」
だがエディウスがボソッと呟くと、パアッと表情を明るくさせて、今度はすくい上げるようにして手を繋ぎ、隣に立つ兄に向かって胸を張った。
「お兄様、嫌じゃないって! 私、ミカをお部屋に案内するわ。ねえ、ミカ。私とお母様でミカのお部屋が可愛くなるように、たくさん考えたの! さあ、行きましょ!」
彼女の勢いに流されるままクラウディアと一緒に数歩踏み出して、だがエディウスは背中に視線を感じて振り返る。
「あの?」
ラサニエルは穏やかに笑って頷いた。
「大丈夫だよ、ミカ、行っておいで。
クリス、君には話があるから、執務室においで」
「はい、父上」
クリスティアンが答える声を聞きながら、エディウスは、いやミカは、手を引かれるまま奥の階段を上っていった。
クラウディアに手を引かれて、「ここがミカのお部屋よ」と連れられてきたのは、淡い水色と白が基調になっており、レースやクッションがあふれた可愛らしい部屋だった。
ふかふかの毛足の長い真っ白なラグに二人で座り込んで、クラウディアは嬉しそうにニコニコと笑っている。
「ねえ、ミカ。あなたって、絵本のお姫様みたいに綺麗なお顔だわ。蒼い目は森の湖みたいに透き通っているし、金色の髪はおひさまが光ってるみたい」
好奇心と称賛を隠さずに若草色の瞳を輝かせて、じっとミカの顔を見つめている。そんな彼女の瞳の中には、無表情のまま軽く首をかしげる自分が映っていた。
「……よくわからない」
素っ気ないミカの返事に気を悪くすることなく、彼女のおしゃべりは続く。
「そう? あ、好きなご本はなあに? 私、本を読むのが上手って褒められたの。ミカにも読んであげるわ。ほら、このご本を見て? お姫様、ミカに似ているでしょう」
私は姫じゃない、とミカは言えなかった。公爵はこの家の末の妹姫になると言っていたから。
それにクラウディアの話は、次から次へと休む間もなく続いていく。開かれた本の中の絵は、確かに金色の髪と蒼い目をした女の子だったけど、自分に似ているのはその色だけだ。
……ああ、そうだ。好きな本を聞かれていたのだった。
「すきな、本」
答えてみようかと本棚を眺めるが、どうもピンとこない。
「そうよ、ここにたくさん入れておいたの。ステキな絵本ばかりよ。後で、選んでおいてね?」
「……うん」
とりあえず頷いておく。
すると今度クラウディアは、ベッドの上に置いてあった大きな布の塊らしきものを両腕に抱えてやって来た。
彼女の背丈の半分位の大きさのピンクのかたまりと薄茶色のかたまりを並べて、ミカの前に置く。とても柔らかそうだ。
「見て! ねえ、うさぎさんとクマさん、どっちが好き?」
「……こっち、かな?」
ピンクがうさぎで、茶色がクマというらしい。
ミカは薄茶色のクマを指さした。クラウディアの髪の色に似ている。
「この子はね、テトっていうのよ。ミカが寂しくないようにあげる! 一緒に寝たら寂しくないわ」
するとクラウディアは、クマのテトをミカのベッドに寝かせて布団までかけてやる。
どうやらミカは、今晩からこのテトと寝るらしい。
それにしても……
「さみしい?」
について、考えてみる。乳母が何度か言っていた言葉だ。
「だって、ミカはここに一人で来たでしょう? えらいわ! 私がミカだったら、寂しくて泣いてしまうもの。
でもね、私、今日からミカのお姉様になったから、これからはたくさんミカと一緒にいるわ!」
「一人だとさみしくて、一緒だとさみしくない」
そういうものらしい。
クラウディアはミカの思考に関係なく、話し続ける。
「そう、一緒。ミカが一人で泣かないように。たくさんみんなで笑えるように。だから、大丈夫。きっといつか、寂しくなくなるよ」
「えっと、さみしいって、何?」
やっぱり考えてみても、さみしい……という意味がわからない。
「う〜んとね……ひとりぼっちで、お父様もお母様も呼んでも誰も来てくれないの。誰もいなくて、泣きたくなっちゃう気持ちかな?」
クラウディアは少しだけ眉間にしわ寄せて、首を傾げながらも、一生懸命考えているようだった。
ミカも同じように首を傾げる。
「ひとりぼっちで泣きたくなる?」
何故泣きたくなるのだろう?
「そう。でもね、ミカには今日から、お父様もお母様もお兄様も、私もいるの。きっともう、寂しくないわ。だから、いつかちゃんと笑ってくれると嬉しいな」
クラウディアは、ミカの疑問に納得のいく答えはくれなかったけど、もう寂しくはないらしいからいいのだろう。
結局、寂しくて泣きたくなるという意味がわかるようになったのは、それから8年以上も経った後だ。
そう、エディウスはファーレン公爵家に来るまでひとりぼっちが当たり前だった。
ミカになってからは、ひとりぼっちを感じなかった。
だから、ひとりぼっちが寂しいということを知ったのは、エディウスとして再び王宮に戻った11歳のときだったのだ。




