Prologue
目の前で、我が国の美貌の王太子、エディウス・ミカエル・ローゼンタール殿下が跪いて、左手を胸にあて右手をこちらに差し出した。
「ディア……クラウディア・エマ・ファーレン公爵令嬢、どうか私と結婚していただけませんか?」
「は?」
まるで、物語に出てくる王子様の求婚シーンそのものだけど……
誰? いや、誰かは知っていますが、今日ここで待ち合わせしていたのは、私の義妹だった、はず。
「…………あの、ごめん、なさい。ちょっと混乱してて。
……結婚ってことは、おっとって夫のこと?」
さっき、「おっとになりたい」と言っていたのは、夫のことだったの⁉
いやいやいや……ちょっと待って。
あなた、5年前まで、私の世界一かわいい義妹でしたよね?
「ディア、お前大丈夫か?」
傍らに立つ兄が、心配そうにこちらを見ている。もう、現実逃避してしまいたい。
私はすがるような気持ちで、兄に言った。
「お兄様、妹とは結婚出来ないと思うの」
それは、とある世界のとある大陸の物語。
人間が住む世界と、大地の精霊王と海の精霊王が治める世界が混じり合う。
種族も寿命も違うのに、彼らは愛し合うことも憎み合うことも出来てしまう。
そしてこれは、ほんの些細な出会いと愛の物語から始まった、とある時代の話だ。
ローゼンタール暦574年。
森がざわついている。
ここローゼンタール王国にある聖オルビス学園高等部の最上級生であるクラウディア・エマ・ファーレンは、背中にゾワゾワとするなんとも言えない不快感を覚えて、立ち止まった。
今は放課後、授業が終わって、そろそろ寮に戻ろうとしていたときだった。
「なんだろう……嫌な予感」
声に出してみると、余計にそう実感する。となれば、放って置くことは出来ない性分だ。クルリと向きを変えて、クラウディアは森に向かって走り出す。
「あ、おい、クラウディア、どうした?」
途中すれ違った、騎士科に在籍する同級生のラファエル・ルイ・ダルザスが、血相を変えて走っていくクラウディアを見咎めて声を掛けるが、彼女はそれに気付かずに走り抜けていく。意識せず、彼の眉間の間にシワが寄った。
それなりに付き合いの長いクラウディアだが、明らかに変だ。ただ事じゃない予感がして、ラファエルは隣を歩く友人に自分の荷物を押し付けた。
「悪い!ちょっとアイツの様子見てくる。荷物頼む」
「あ、ああ……」
戸惑う友人にゴメンと視線で謝って、ラファエルは剣だけ持って、クラウディアの後を追いかけるべく走り出す。
「……ったく、あいつ、公爵令嬢のくせして、なんであんなに足が早いんだ?」
学園高等部の女子生徒の制服は、動きやすいとはいえスカートの丈はそれなりにある。(よくあれで走れるな……)と、ラファエルは半ば感心しながら、彼女の背中を追う。どうやら、学園裏手に広がるノーデルの森に向かっているようだが……あの森は原則的に人の立入りが禁じられているのだ。
ここローゼンタール王国の王都にある聖オルビス学園の裏側に広がるノーデルの森は、大地の精霊達が棲んでいるという精霊の領域だ。
したがって、ノーデルの森に入る際には国の許可が必要になるのだが、クラウディアは、例外的に常時森に入る許可を得ている数少ない一人だ。
当然ラファエルにその権利はない。だから、森に入る手前で、彼女に追いつけたのは幸運だった。
「クラウディア!」
ラファエルはクラウディアの腕を掴んで、彼女を引き止める。すると、振り返った彼女の大きな瞳が、驚いたように丸くなった。
「ラファエル?」
「お前、足、早いよな。さっきから何度か呼んだんだけど、気がついてなかっただろう」
「ごめんなさい、ラファエル。森の様子が、おかしいの。嫌な予感がして、早く行かないと」
クラウディアは余程気になるのだろう。言っているそばから、チラチラと森を気にしている。ラファエルは手を離すと、大きなため息をついた。
急いでいるのはわかった。だが、様子のおかしい森に一人で行こうとするなんて、無謀だ。
「わかったから、俺も一緒に行く。同行の許可をくれ」
「ありがとう、ラファエル、心強いわ。同行を許可します。一緒に森に入ってください」
「ああ。じゃあ、行こうか」
形式的なものだが、クラウディアが同行を認める者なら、一緒に森に入るのは問題ない。
学園と森を隔てる扉の鍵に、クラウディアがはめている指輪の石をあてると、ゆっくりと扉が開いていく。
二人はその門を抜けると、再び走り出して森に入っていく。
それから少し進んだ、木々がない空間が開けた空地で、どちらともなく足を止めた。
「なんだこれ……」
ラファエルはクラウディアと共に、何度もこの森に来たことがある。だが、いつもとは明らかに様子が違っていた。
なんともいえない重い空気が立ち込めて、鳥の囀りもまったく聞こえず、いつもなら感じる精霊の気配もなく、静まりかえっている。
「ラファエル、気をつけて。何か、来るわ」
いつになく硬いクラウディアの声が、ラファエルに警告した。彼女を見ると、緊張を帯びたクラウディアの視線が、空地を囲う木々の向こうをじっと見つめている。
ラファエルもそちらに向き直り、クラウディアの数歩前に立つと、剣を抜いて構えた。
確かに、背筋がヒヤリとするような嫌な気配がゆっくりと近づいて来ている。
やがて姿を現したのは、黒いモヤで覆われた大きな四足の獣。生臭い腐臭を漂わせ、赤く光る目がクラウディアをじっと見つめている。一歩一歩進む度に踏まれた草も、腐ったように黒く変色していく。
ただならぬ様子のその異形の獣は、やがて二人と向き合い足を止めた。
ラファエルの背に、タラリと冷や汗が流れる。異形の獣が纏うのは負の気配。そして、明らかに敵だ。赤い視線が今度は、ラファエルの隙を狙っている。
「……レジーナ?」
クラウディアの呟きに、ラファエルの頭の中には一頭の白い狼の姿が思い浮かんだ。レジーナとは、森に入るとクラウディアの側にやって来ては、彼女の傍で気持ち良さげにくつろいでいる雌の白狼だ。
ラファエルの中で、彼女がレジーナと呼んでいたその大きな白狼と、目の前の異形の獣の姿は一致しない。だが、クラウディアがそう呼びかけた異形は、「ウー」という低音のうなり声でこちらを威嚇してきた。
「クラウディア、コイツは俺達を敵だと思ってる」
振り返ることなく、クラウディアにそう伝えると、異形の獣が、草を蹴ってラファエルに向かって来た。避けるわけにはいかない。後ろにはクラウディアがいる。
ラファエルは、剣を横薙ぎにして前足を狙った。
「ギャウッ」
確かに手応えを感じたが、獣が傷付いている様子はない。黒いモヤに邪魔されて、ハッキリしないが。
警戒した獣は、少し下がるとこちらを窺っている。
「ラファエル、あなたの剣に触れるわ。浄化の加護を」
「頼む」
クラウディアの声に、ラファエルは警戒を解かずに剣だけを斜め後ろに伸ばした。「浄化の加護」なんて、ラファエルは初めて聞いたが、クラウディアが言うなら、効果があるのだろう。
ごく僅かに何かが剣に触れる感触があり、
「……もう、いいよ」
と言われて、剣を引く。
その剣は、ほのかに青白い光を帯びていた。
「クラウディア、もう少し下がっていてくれ」
ラファエルはそう声を掛けると、今度は自ら獣に向かっていく。
一頭と一人は、互いの急所を狙って激しくやり合った。獣の一瞬の隙を狙い、ラファエルの剣先が、獣の心臓目がけて突き出される。
「レジーナ!」
クラウディアの叫びが、ラファエルの動きを止めた。彼は反射的に、剣を引き身を躱すが、肉薄していた獣の前足の爪が、頭を庇った反利き腕の肉を抉り、赤い血飛沫が飛ぶ。
「あ……ごめん、なさい」
「クラウディア、お前のレジーナは、人を傷つけない。だが、コイツは……いやこの黒いモヤが、悪いものだっていうことはわかる。邪気が半端じゃない。さっさと仕留めないと、森の外に出てしまうぞ!」
ラファエルは、クラウディアに視線を向ける余裕がないが、その気持ちは想像できる。彼女はレジーナを慈しんでいた。
だが今、コレを倒さなければ、危険だ。それは彼女も良くわかっているのだろう。
「そう、だね。ラファエル、ごめん。お願い。私も、ラファエルを助けるよ」
クラウディアは、自分の非力さに唇を噛みしめるが、心を決めると、大きく息を吸い込み歌い始める。
クラウディアにとっての歌は、「願い」であり、「祈り」だ。黒いモヤに囚われ、自我を無くした白狼の魂の解放を願い、安寧を祈る。
その歌声は、透き通った水を連想させる透明感のある声で紡がれていく。
穏やかな慈愛と断罪を与えるレクイエムを、彼女は朗々と謳い上げていく。
憐れみ給え 迷える魂を
全ての闇から解き放たれて
天に帰りたまえ
やがて苦しみは過去のものとなり
永遠の安息を
再び大地に巡るときには
どうか多くの恵みと共に
森の木々がその声に静かにざわめき始める。
そして、歌を聞き、狂ったように……だが苦しげにラファエルに向かってくる獣を、ラファエルは冷静にその剣を持って制した。
まっすぐに心臓を刺しぬかれ、絶命した獣の躰から湧き出る闇が、どこからか集まってきた光により浄化されていく。
やがてそこには、クラウディアに懐いていた白狼レジーナの死体だけが横たわっていた。
「ごめんね、助けてあげられなくて」
クラウディアは、狼の骸の側に跪き、そっと手を添えた。
「お前のせいじゃない。俺に力が足りないせいで、コイツを殺さずに、無力化することが出来なかった。許せ」
ラファエルの声に、クラウディアは首を横に振ると、立ち上がって彼の腕を取った。ラファエルは力が足りなかったというが、そんなことはない。レジーナは、どのみち命尽きるまで解放されることはなかった。
彼の左腕のざっくりとした傷からは、まだダラダラと血が流れている。
クラウディアは、首元からスカーフを外し、ためらうことなく傷口に巻きつけて止血する。
「ううん。ラファエルも、怪我させてごめんね。ありがとう、助けてくれて。私がもっと早く決断出来ていたら……」
「気にするな。精一杯考えていたんだろう? 俺なら大丈夫だ」
剣を収めたラファエルは、空いた右手でクラウディアの頭に手を置くと、そう慰めた。傷つきながらも、クラウディアを気遣ってくれるラファエルに、レジーナを失った胸の痛みが癒されていく。
「うん。ありがとう、ラファエル。もう行きましょう、早くちゃんと腕の手当をしないと」
二人は学園に向かって歩き出す。
本来クラウディアが、森の生物に襲われることはない。
大地の精霊王の血縁である彼女は、この大陸の植物と動物に愛されている。ある程度の意思疎通ですら可能だ。
だから、今日のような事態は、まったく想像すらつかなかった。ラファエルがいなかったら、クラウディアは無事では済まなかっただろう。
ラファエルは、「黒いモヤ」と言っていた。
確かに、狼に憑依していたものはクラウディアにも認識できていた。だけど、それは黒いモヤなんかじゃない。
あれは、闇堕ちした精霊が撒き散らした悪意の欠片だ。




