第2幕『サンドボックス・シティ』
「……水」
喉の奥でひっかかったみたいな声だった。
それが言葉になったのか、ただの息だったのか、最初は分からなかった。
でも、口の端がわずかに動くのを見て、俺はすぐ腰の水筒に手をやった。
「リクくん、待って。いきなり飲ませすぎると……」
「分かってる」
セレスの制止に短く返しながら、栓を開ける。
こういうの、なにかで聞いたことがある。
夏場の山だか、防災特集のテレビだか、細かいきっかけは忘れたけど……
人間は食わなくても案外しぶとい。でも、水は違う。そっちは思ってるよりずっと早く、取り返しのつかないところまで落ちる。
飲まず食わずで何日、みたいな雑な言い方をするなら、たしか“食い物より先に水が死ぬ”。
そこだけは、妙にはっきり残っていた。
俺はしゃがみこんだまま、相手の肩を少し支える。
——軽い。
痩せてるわけじゃないのに、力が抜けきってるせいで、持ち上げたときの抵抗がやけに薄かった。
「……ちょっとずつな……」
返事はない。
でも、乾いた唇がわずかに開く。
俺は水筒の口を近づけて、ごく少しだけ傾けた。
ほんのひと口。流し込むんじゃなく、触れさせるくらいに。
最初は、うまく飲めなかった。
喉がもう“飲み方”を忘れかけてるみたいに、少しだけむせる。
「ゆっくりですっ。ほんとに、ちょっとずつ……!」
エナが隣で膝をつく。
声は震えてるのに、手はもう防御するときみたいにまっすぐだった。倒れた体がさらに崩れないよう、俺と反対側からそっと支える。
アリスは路地の入口を見たまま、低く告げる。
「周囲に即時接近の様子はありません。
ですが、安全とは断定できません。介助は短時間で完了させるべきです」
分かってる。
分かってるけど、短時間で済む状態にも見えなかった。
もう一度だけ、水を含ませる。
今度は、少しだけ喉が動いた。
「……よし」
まだ目は焦点が合っていない。
でも、さっきよりわずかに呼吸が戻っている。
その間にも、頭のどこかが勝手に計算していた。
——四日。
あの村で消えたのは四日前の夜。
目の前の村人は、そこから今まで、まともに食ってないし、飲んでもいない顔をしている。
服の擦れ方も、肘の汚れ方も、同じ場所でじっとしてた感じじゃない。
あちこち動いて、探して、無駄に体力を削った跡だ。
たぶん、かなり歩き回ってた……いや、むしろ走り回ってたのかもしれない。
水なしで四日は、かなりヤバい。食ってないだけならまだしも、飲めてないなら、もう生きてるだけで崖っぷちだ。
「セレス、この人……」
言いかけると、セレスはしゃがみこんで顔色と目の動きを確かめた。
仕事の顔だった。
もう、さっきの“見たことない世界”に飲まれている様子はない。
「脱水がひどい。
反応も遅いし、意識もかなり浅いわね……」
指先で首筋に触れ、次に手首を見る。
「でも、まだ取れる。すぐ死ぬ状態じゃない。
……すぐ死ぬ状態じゃない……けど」
その続きは言わなかった。
言わなくても分かる。
放っといたら、そっちに転がる。
俺は息をひとつ吐いて、水筒の栓を締める。
——そのときになって、ようやく、周りが見えた。
路地の壁面には、色褪せた広告ポスターが貼られていた。
剥がれかけた端が、風もないのに少しだけ浮いている。
そこに並んでる文字は、確かに日本語だった。
読める。
読める、のに。
「……なんだこれ」
思わず漏れた。
健康食品だか、保険だか、そういう広告の体裁をしてる。
笑顔の家族っぽい写真。柔らかい色。安心感を出したいんだろうなってレイアウト。
でも、書いてある文が妙だ。
一文ずつなら意味は追える。
文法も崩れてない。
なのに、まとめて読むと、何を勧めてるのかだけがするっと抜ける。
大事な中身だけ、わざと空けてあるみたいな……
いや、“日本語っぽい説明文”をそれらしく並べただけみたいな空虚さがある。
俺は顔を上げる。
ビルの裏口。室外機。配管。非常階段。
どれも見慣れてる形のはずなのに、使ってる痕跡が薄い。
自転車は倒れてるのに、錆び方が妙に均一。
ドアノブの高さも、段差の作りも全部、確かに“正しい”。
それなのに、そこを人が使っていた感じがない。
——街の形だけがある。
いや、違う。
形だけじゃない。
理屈も、配置も、ちゃんと“街らしく”作ってある。
でも、機能していない。
……頭の中に、3Dゲームの街マップがよぎる。
遠目にはちゃんと街だ。
でも近づくと、入れない店、開かない扉、読めるけど何も言ってないポスターや、雰囲気のためだけに置かれた看板……
ああいう、“世界っぽく見せるための部品”だけで作られたフィールド。
「……似てる……ってわけじゃないな」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
「形はそのものだ。
でも……中身が、ない」
セブンが、間を置かず応じる。
《同意》
短く、それから補足が続く。
《当該領域は、ユーザーの元世界を高精度で模倣した別位相構造と推定される》
セレスが顔を上げる。
「模倣……?」
《補足:既知の異世界転移には、三次元座標の移動、および位相波の発生が伴う》
セブンの声は、いつも通り平坦だった。
だからこそ、内容だけがはっきり刺さる。
《しかし今回は、それらが確認されていない。
観測されたのは、局所空間位相の偏移のみ。
すなわち、“別の場所へ移動した”のではなく、“同地点上の別層へずれた”可能性が高い》
アリスが視線だけで周囲を示す。
「つまり、ここは“リクの世界そのもの”ではなく、
それを参照して構成された空間……ということですか」
《肯定寄り評価》
セブンが続ける。
《構造物の配置、言語体系、視覚設計に、ユーザーの世界との整合性を優先した可能性は高い。
一方で、生活機能や情報連関には空洞が多い》
やっぱ、そうか。
見た瞬間に胸の奥を掴まれたのは本物だ。
でも、それに飛びついて“帰ってきた”って言えるほど、こいつは現実じゃない。
《ただし》
セブンの声が、一段だけ強くなる。
《帰還の手がかりが、この領域に存在する可能性は高い》
その一言で、また胸の奥が鳴る。
さっき押し込めたやつが、ぶり返しかける。
《再提案》
淡々と、冷たく。
《本領域の調査を優先すべきである。
生存者の救助は戦術的価値を持つが、帰還経路の特定に比して優先順位は下がる》
その言い方に、空気がぴりつく。
エナがすぐ眉を寄せた。
「でも、この人まだ生きてますっ」
真っ直ぐだった。
反論というより、確認だった。
ここに命がある、という事実を、
ちゃんと事実のまま置くための声だった。
俺は答えず、もう一度だけ周囲を見る。
日本語のポスター。
中身のない建物。
見慣れたはずなのに、どこにも“暮らしの癖”がない世界。
その真ん中で、壁にもたれて死にかけてる人間だけが、やけに本物だった。




