表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部4話『境界の救命戦線(サルヴェージライン)』
91/99

第2幕『サンドボックス・シティ』



 「……水」



 喉の奥でひっかかったみたいな声だった。


 それが言葉になったのか、ただの息だったのか、最初は分からなかった。

 でも、口の端がわずかに動くのを見て、俺はすぐ腰の水筒に手をやった。


 

 「リクくん、待って。いきなり飲ませすぎると……」


 「分かってる」



 セレスの制止に短く返しながら、栓を開ける。


 こういうの、なにかで聞いたことがある。

 夏場の山だか、防災特集のテレビだか、細かいきっかけは忘れたけど……


 人間は食わなくても案外しぶとい。でも、水は違う。そっちは思ってるよりずっと早く、取り返しのつかないところまで落ちる。


 飲まず食わずで何日、みたいな雑な言い方をするなら、たしか“食い物より先に水が死ぬ”。

 そこだけは、妙にはっきり残っていた。


 俺はしゃがみこんだまま、相手の肩を少し支える。



 ——軽い。



 痩せてるわけじゃないのに、力が抜けきってるせいで、持ち上げたときの抵抗がやけに薄かった。



 「……ちょっとずつな……」



 返事はない。


 でも、乾いた唇がわずかに開く。

 俺は水筒の口を近づけて、ごく少しだけ傾けた。


 ほんのひと口。流し込むんじゃなく、触れさせるくらいに。


 最初は、うまく飲めなかった。

 喉がもう“飲み方”を忘れかけてるみたいに、少しだけむせる。



 「ゆっくりですっ。ほんとに、ちょっとずつ……!」



 エナが隣で膝をつく。


 声は震えてるのに、手はもう防御するときみたいにまっすぐだった。倒れた体がさらに崩れないよう、俺と反対側からそっと支える。



 アリスは路地の入口を見たまま、低く告げる。



 「周囲に即時接近の様子はありません。

 ですが、安全とは断定できません。介助は短時間で完了させるべきです」



 分かってる。


 分かってるけど、短時間で済む状態にも見えなかった。


 もう一度だけ、水を含ませる。

 今度は、少しだけ喉が動いた。



 「……よし」



 まだ目は焦点が合っていない。

 でも、さっきよりわずかに呼吸が戻っている。


 その間にも、頭のどこかが勝手に計算していた。



 ——四日。

 あの村で消えたのは四日前の夜。



 目の前の村人は、そこから今まで、まともに食ってないし、飲んでもいない顔をしている。


 服の擦れ方も、肘の汚れ方も、同じ場所でじっとしてた感じじゃない。

 あちこち動いて、探して、無駄に体力を削った跡だ。


 たぶん、かなり歩き回ってた……いや、むしろ走り回ってたのかもしれない。



 水なしで四日は、かなりヤバい。食ってないだけならまだしも、飲めてないなら、もう生きてるだけで崖っぷちだ。



 「セレス、この人……」



 言いかけると、セレスはしゃがみこんで顔色と目の動きを確かめた。


 仕事の顔だった。

 もう、さっきの“見たことない世界”に飲まれている様子はない。



 「脱水がひどい。

 反応も遅いし、意識もかなり浅いわね……」



 指先で首筋に触れ、次に手首を見る。



 「でも、まだ取れる。すぐ死ぬ状態じゃない。

 ……すぐ死ぬ状態じゃない……けど」



 その続きは言わなかった。


 言わなくても分かる。

 放っといたら、そっちに転がる。


 俺は息をひとつ吐いて、水筒の栓を締める。



 ——そのときになって、ようやく、周りが見えた。



 路地の壁面には、色褪せた広告ポスターが貼られていた。


 剥がれかけた端が、風もないのに少しだけ浮いている。

 そこに並んでる文字は、確かに日本語だった。


 読める。


 読める、のに。



 「……なんだこれ」



 思わず漏れた。


 健康食品だか、保険だか、そういう広告の体裁をしてる。

 笑顔の家族っぽい写真。柔らかい色。安心感を出したいんだろうなってレイアウト。


 でも、書いてある文が妙だ。


 一文ずつなら意味は追える。

 文法も崩れてない。


 なのに、まとめて読むと、何を勧めてるのかだけがするっと抜ける。

 大事な中身だけ、わざと空けてあるみたいな……

 いや、“日本語っぽい説明文”をそれらしく並べただけみたいな空虚さがある。


 俺は顔を上げる。


 ビルの裏口。室外機。配管。非常階段。

 どれも見慣れてる形のはずなのに、使ってる痕跡が薄い。


 自転車は倒れてるのに、錆び方が妙に均一。

 ドアノブの高さも、段差の作りも全部、確かに“正しい”。

 それなのに、そこを人が使っていた感じがない。



 ——街の形だけがある。



 いや、違う。

 形だけじゃない。

 理屈も、配置も、ちゃんと“街らしく”作ってある。


 でも、機能していない。



 ……頭の中に、3Dゲームの街マップがよぎる。



 遠目にはちゃんと街だ。

 でも近づくと、入れない店、開かない扉、読めるけど何も言ってないポスターや、雰囲気のためだけに置かれた看板……

 ああいう、“世界っぽく見せるための部品”だけで作られたフィールド。



 「……似てる……ってわけじゃないな」



 自分に言い聞かせるみたいに呟く。



 「形はそのものだ。

 でも……中身が、ない」



 セブンが、間を置かず応じる。



 《同意》



 短く、それから補足が続く。



 《当該領域は、ユーザーの元世界を高精度で模倣した別位相構造と推定される》



 セレスが顔を上げる。



 「模倣……?」


 《補足:既知の異世界転移には、三次元座標の移動、および位相波の発生が伴う》



 セブンの声は、いつも通り平坦だった。

 だからこそ、内容だけがはっきり刺さる。



 《しかし今回は、それらが確認されていない。

 観測されたのは、局所空間位相の偏移のみ。

 すなわち、“別の場所へ移動した”のではなく、“同地点上の別層へずれた”可能性が高い》



 アリスが視線だけで周囲を示す。



 「つまり、ここは“リクの世界そのもの”ではなく、

 それを参照して構成された空間……ということですか」


 《肯定寄り評価》



 セブンが続ける。



 《構造物の配置、言語体系、視覚設計に、ユーザーの世界との整合性を優先した可能性は高い。

 一方で、生活機能や情報連関には空洞が多い》



 やっぱ、そうか。


 見た瞬間に胸の奥を掴まれたのは本物だ。

 でも、それに飛びついて“帰ってきた”って言えるほど、こいつは現実じゃない。



 《ただし》



 セブンの声が、一段だけ強くなる。



 《帰還の手がかりが、この領域に存在する可能性は高い》



 その一言で、また胸の奥が鳴る。

 さっき押し込めたやつが、ぶり返しかける。



 《再提案》



 淡々と、冷たく。



 《本領域の調査を優先すべきである。

 生存者の救助は戦術的価値を持つが、帰還経路の特定に比して優先順位は下がる》



 その言い方に、空気がぴりつく。

 エナがすぐ眉を寄せた。



 「でも、この人まだ生きてますっ」



 真っ直ぐだった。

 反論というより、確認だった。


 ここに命がある、という事実を、

 ちゃんと事実のまま置くための声だった。



 俺は答えず、もう一度だけ周囲を見る。


 日本語のポスター。

 中身のない建物。

 見慣れたはずなのに、どこにも“暮らしの癖”がない世界。


 その真ん中で、壁にもたれて死にかけてる人間だけが、やけに本物だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ