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境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部4話『境界の救命戦線(サルヴェージライン)』
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第1幕『帰還の緒』



 ——"俺の世界"。



 その言葉が落ちたあともしばらく、誰もなにも返さなかった。


 目の前には、見覚えのある直線がいくつも走っている。


 黒い路面に引かれた白線が、迷いなく先へ伸びている。

 角ばった建物の面はどれも平らで、光を返さず、ただ鈍く空を映していた。


 石でも木でもない。

 触れる前から、温度のない材質だと分かる。



 それでも——



 交差点の角に立つ柱の形で、次に何があるかが読める。

 空に伸びる細い線を見ただけで、その役割を思い出せる。


 見上げれば、同じ幅の窓が、規則正しく積み上がっている。


 角の建物、剥がれかけた色の帯。

 名前を読まなくても、そこが何を売る場所だったのかだけが、先に浮かんだ。



 「……リクくんの、世界?」



 最初に反応したのはセレスだった。


 声は小さい。

 

 でも、その小ささの中に、聞き返したい気持ちと、聞き返したくない気持ちが半分ずつ混ざっているような気がした。



 「どういうこと……?

 ここ、リクくんの元いた場所に似てる、とかじゃなくて……?」



 俺はすぐには答えなかった。


 答えようとして、やめた。


 似てる、じゃ足りない。けど、“同じだ”と言い切るには、あまりにも何かが抜け落ちている。


 車もいない。人もいない。店先の雑多な張り紙も、夜の排気も、通学のざわつきも、何もない。


 知っている景色のはずなのに、生活だけが剥ぎ取られていた。



 エナが、そっと俺の袖をつかむ。


 さっきまでの元気な声音はなくて、代わりに、触れて確かめるみたいな慎重さだけが残っていた。



 「……リクさん」



 振り向くと、エナは不安そうに眉を下げていた。


 視線は俺と景色のあいだを行き来している。

 何が見えていて、何が見えていないのか、その差を埋めようとしてる顔だった。



 「ここ、そんなに……リクさんのいた場所に、似てるんですか?」


 「似てる、ってか……」



 そこまで言って、言葉が止まる。


 似てるんじゃない。

 "これ"だ。


 けど、その“これ”が、俺の知ってるものよりずっと静かで、ずっと死んでる。


 アリスが一歩前へ出て、周囲を見渡す。


 金色の瞳はいつも通り平坦なのに、視線の動きだけが微妙に速かった。



 「確認します」



 いつもより少し低い声で、短く区切る。



 「リクは、この構造物群を“知っている”のですね」


 「ああ」


 「全域を正確に、ですか」


 「いや、そこまでは……」



 言いかけて、口を閉じる。


 知ってる。

 でも、知らない。


 この街がどこなのか、

 東京なのか地方都市なのか、俺にはまだ分からない。ただ、材質も、配置も、作られ方も、“向こう側”のものだと分かる。



 アリスは一拍だけ黙ってから、今度はセブンへ向いた。



 「セブン。リクの発言の信頼性評価を要求します」


 《実行》



 即答だった。



 《解析:視認可能範囲の構造物を走査。

 材質、形状、配置規則より、本領域の文明水準は当該世界の既知技術体系を逸脱していると判断》


 《補足:ユーザーの認識は、既知外文明の実体に基づく可能性が高い》



 その冷静な分析が、現実味を強くした。


 セレスが小さく息を呑むのが分かる。エナの手が、袖の上から少しだけ強くなる。



 ——そして……



 《結論:当該領域は、相棒の帰還可能性に関わる重要地点と推定》



 セブンの声音が、いつもよりさらに硬くなった。



 《優先目標を更新。当該領域の情報確保》



 その瞬間、胸の奥に別の音が鳴った。



 ——帰れるかもしれない。



 今まで、理屈では何度も考えてきたことだ。

 魔王か、王国か、帝国か、それとも世界の根っこに近い何かか。どこかに帰る鍵があるかもしれないとは思っていた。



 でも、目の前にこれを出されると、理屈じゃなくなる。


 帰りたい、なんて言葉にしたら安っぽくなるくらい、もっと深いところが勝手に引っ張られた。



 《提案:即時、周囲を探査》



 セブンが続ける。



 《この領域における構造物、設備、記録媒体、通信機器の残存を確認するべきである。

 当ユニットの演算資源を用いれば、相棒の元世界に関する情報収集は高効率で遂行可能》



 「……待て」



 俺は、腰のセブンを見ないまま言った。



 《待機の合理性を確認できない》


 「確認できなくていい。ちょっと……」



 ——そのときだった。



 エナの指先が、ぴくりと止まった。

 袖をつかんでいた力が、ほんの少しだけ強くなる。



 「……っ」



 顔を上げる。

 さっきまでと同じ景色を見ているはずなのに、焦点の合い方だけが変わっていた。



 「……どうした?」



 俺が低く聞くと、エナは耳を澄ませるみたいに、ほんの少しだけ首を傾ける。



 「……います」



 かすれるような声で、エナが言った。



 「向こう……すごく、弱いですけど……」



 指が、通りの先を引く。

 アリスが、一歩前へ出た。



 「確認します」



 短く言って、視線を細める。

 そのまま、ほんのわずかに角度を変える……



 「……音響反応、検出」



 間を置いて、続けた。



 「人間の呼吸音に類似。

 距離、およそ四十メートル。遮蔽物あり」



 今度ははっきりと、エナが言い切る。



 「人、いますっ!」


 さっきよりも強く、俺の腕を引いた。

 セレスの表情が締まる。


 アリスはすでにその方向へ走っていた。


 ワイヤー射出の音が、ごく短く鳴る。黒髪が揺れ、細い体が通りの奥へ滑り込む。



 《警告:本領域における生存者の確認は、敵性存在の潜伏可能性を同時に意味する》



 セブンが淡々と告げる。



 《提案を修正。先行すべきは周辺走査および退路確保。無策接近は非推奨》


 「……いや」



 俺はもう、アリスの向かった先を見ていた。


 通りの先。車道を横切った向こう側に、小さな商店街みたいな並びが見える。

 

 半分開いたシャッター。割れていないのに曇ったガラス。入口脇に倒れた自転車。

 そこからさらに奥、ビルの陰に、人ひとりが通れるくらいの狭い路地。



 「リクくん」



 セレスが呼ぶ。

 止める声じゃなかった。確認の声だった。



 「……行くの?」



 その問いに、俺は答えなかった。

 代わりに、足が先に動いていた。



 《相棒》



 セブンの声が、一段低くなる。



 《現在の最優先は帰還経路の確保である。

 この地点の保持価値は極めて高い。未知の生存者に戦力を割く判断は、合理性を欠く》


 「知るか」



 ほとんど息みたいに出た。

 抑えたわけでもないのに、妙に平坦だった。



 《再通告:本判断は、当ユニットの最優先行動原則と衝突する》


 「だったら衝突しとけ」



 足を止めずに返す。


 口に出した瞬間、自分でも驚くくらい、声に熱がなかった。むしろ冷えていた。


 帰れるかもしれない。

 それは、たぶん本当だ。


 でも……だから今ここで、目の前の息を聞かなかったことにするのかって言われたら、そんな選び方はできない。


 エナが、すぐ隣まで来る。



 「行きますっ!」



 不安は消えていない。それでも、一歩も遅れない声だった。


 セレスは一瞬だけその場に残り、空を見て、通りを見て、それから俺たちに追いつく。


 迷った形跡を消した顔だった。



 「……話はあと。

 今は生きてる方を拾うわよ」



 腰のあたりで、わずかに重みが変わる。



 《評価:本判断は非合理的》



 完全に引いたわけじゃない。けど、セブンはそれ以上、同じ文句は重ねなかった。



 通りを渡る。


 路地に近づくにつれて、足音がやけに残る。

 さっきまでの広さが、嘘みたいに消える。

 空気が、逃げ場を失っているみたいだった。



 路地の手前で、酸っぱい臭いがした。

 ゴミの臭いじゃない。もっと、乾いた胃液に近い。



 「……この先ですっ」



 エナの声が落ちる。

 俺たちは足を速めた。


 ビルの陰へ入ると、光が一段落ちる。


 壁は冷たく、狭い通路の奥には、業務用の裏口みたいな金属扉が並んでいた。その途中、倒れたコンテナ、散らばったペットボトル、薄汚れた毛布……そして。


 人影が、あった。


 壁に寄りかかるように崩れている。


 服は汚れ、頬は少し落ちていて、

 唇は乾いて白くひび割れ、呼吸は浅く不規則だった。


 けど、生きてる。

 胸が、ごく小さく上下した。



 俺はしゃがみ込む。

 帰れるかもしれない世界の入口で、最初に触れたのがこれだった。


 冷たいコンクリートの臭い。

 乾いた呼吸。



 ——目の前に、生きてる人がいる。


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