第9幕『空っぽの、俺の世界』
……気まずい。
いや、空気がとかじゃない。さっきのあれだ。
“俺がカギだ”とか言っておいて、結局ポーチだったやつ。
誰も何も言わない。でも、言わないだけで、忘れてもいないのが分かる。
……つらい。
「……とりあえず」
咳払いをひとつしてから、できるだけ平静を装って言う。
「原因は分かったんだし、次いくか」
俺はそのまま腰のポーチを外し、革の口を開けて中を覗き込んだ。
小物、予備の紐、火打ち石。それに、いつの間にか増えてるよく分からん雑多なやつ。
——で。
「……なんかそれっぽいの、っていえば……」
一瞬だけ迷ってから、指先でつまみ上げる。
「……たぶんこれだな」
取り出したのは、銀色の円盤だった。
白衣の男から渡されたやつ。ポータルとか呼んでいたあれだ。
表面は鈍く光り、よく見ると細い線が何重にも刻まれている。その線が、見る角度によって微妙に表情を変えるのが、妙に気味が悪い。
それを、そのまま十字路の中心へ近づける。
……。
「……お」
円盤の表面。刻まれた線の一部が、ほんのわずかに光った。
強くじゃない。でも、確かに。
《観測:当該空間揺らぎとの共鳴を確認》
セブンの声が、すぐに重なる。
《評価:高い相関性》
「……ビンゴっぽいな」
円盤を軽くひっくり返しながら、俺は息を吐いた。
……で。
「これ、なんだけど……」
顔を上げた瞬間。
「…………」
アリスが、半歩だけ下がっていた。
無表情のまま。けど、明らかに距離を取っている。
「それを、まだ所持していたのですか」
声はいつも通りだが、温度が低い。
「廃棄を再提案します」
「いや、ちょっと待て!?」
反射で返す。
「さすがに、捨てる訳にはいかねぇだろ!」
「理解不能です」
バッサリだった。
「当該物品は、不審度および不快度の両面において、保持価値が認められません」
「言い方ァ!!」
横で、エナが顔をしかめる。
「うわっ。……それ、まだ持ってたんですかっ……」
「お前もかよ!?」
露骨すぎる。
「いや、だってこれ……あの人のやつじゃないですか……」
“あの人”。
説明しなくても通じるあたりが、もう嫌だ。
セレスが腕を組み、少し首を傾げながらこちらを見る。
「……それ、なに?」
「正体不明の、白衣着た男から渡されたやつ。ポータルとか言ってた」
「ポータル……?」
小さく繰り返してから、セレスの視線がエナに向く。
「あなた、分かる?」
「……えっと」
エナが一瞬だけ迷い、それから仕方なさそうに一歩前へ出た。
「たぶん……ちょっとだけ」
そう言いながら円盤を見る。
……いや、“見る”っていっても、ちゃんと距離を取ってる。
「……貸してもらっていいですかっ」
「お、おう」
差し出すと、エナはそれを指先でつまんだ。なるべく触れないように、虫でも掴むみたいに。
「……うわぁ……」
小さく、でもはっきり言う。
「おい」
「ごめんなさい、でもこれ……」
顔をしかめたまま、エナが続ける。
「リクさん、これ渡された時、あの男どこから取り出しました?」
「え?」
思い出す。
「……白衣の内ポケットだけど」
一拍。
エナが、口元を露骨に歪めながら、目を閉じた。
「……ですよね……」
心底嫌そうな声だった。
「あの人……いっつも、そこに入れてるんです」
「は?」
「つまりこれ……」
エナが円盤を見下ろす。
「ずっとあの人が、"肌身離さず、懐で温めてたやつ"ってことです……」
……。
「…………」
「…………」
ゾッとした。
「やめろ!!」
即座に叫ぶ。
「オレ、顔の前でクルクル回したりしてたんだぞ!?」
「うわっ……」
「“うわっ”じゃねぇ!!」
横で、セレスが肩を震わせる。
「……ふっ」
「笑うな!!」
アリスは無表情のまま、さらにわずかに距離を取った。
「衛生観念の問題ではありません。存在そのものが不快です」
「お前それさっきから強くない!?」
エナが、ぐっと息を止める。
それから覚悟を決めたみたいに言う。
「……正直、触るのも嫌なんですけど」
「だろうな!!」
「でも」
ちらっとこっちを見る。
「リクさんの成分で、浄化されたことにします!」
「なんだよオレの成分て!!」
反射で返す。
「なんかこう……キラキラしてて、いい匂いのヤツです!」
「それもなんか嫌だわ!!」
「だって、このままだと無理ですもんっ!」
「無理の方向がおかしいだろ!?」
……。
でも。
エナは、さっきよりちゃんとそれを持っていた。指先じゃなくて、手で。
「……これ」
円盤を、もう一度だけ十字路の中心へ近づける。
さっきと同じように、表面の線が薄く光る。
エナの目が、少しだけ細くなる。
「……やっぱり」
さっきまでの嫌そうな顔とは違う。ちゃんと、“見る側”の顔だ。
「これ……ここに反応してます」
《肯定》
セブンが即座に重ねる。
《当該装置と空間揺らぎの相互作用を確認》
空気が、少しだけ変わる。
笑いが引いて、さっきまでの軽さがそのまま別の意味に切り替わる。
エナが、小さく息を吐いた。
「……これ」
円盤を見ながら、言う。
「たぶんですけど……」
一拍。
「“開きます”」
「……開く、って」
俺はその言葉をゆっくり反芻しながら、円盤を見たまま続ける。
「それって、転移ってことか?」
エナは少しだけ首を振る。
「似てるんですけど……ちょっと違います」
一拍置いて、言葉を探すように足元へ視線を落とす。
「えっと……どこかに“行く”っていうより……」
円盤を持ったまま、地面を見つめて。
「ここを少しだけ、ズラす感じです」
「……ずらす?」
「はいっ。世界の"スキマ"というか……"境目"に行くっていうか……」
うまく言葉にできていない。でも、指してる方向はズレていないのが分かる。
エナはそのまま円盤を両手で持ち直した。さっきまでの嫌悪は残っているのに、それでも手放そうとはしない。
「……ちょっと、やってみます」
そう言って、一歩だけ中心へ踏み込む。
——その瞬間。
音が、落ちた。
風の音も、布の揺れる音も、遠くの足音も、全部が一段だけ奥へ引っ込む。
空気の密度が変わる。見た目は同じなのに、そこに“もう一枚”重なったみたいな感触だけが残る。
エナを中心に、目に見えない何かがじわりと広がった。
セレスがわずかに目を細める。
「……なに、これ」
アリスは無言のまま、周囲を見渡している。
セブンが静かに告げる。
《解析:既知の転送現象とは非一致》
一拍。
《補足:三次元座標の接続は確認されない》
「……じゃあ、なんだよこれ」
《推定:局所空間位相の偏移》
少しだけ間を置いて、
《当該地点に固有の位相構造を、別方向へシフトさせている》
セレスが顔をしかめる。
「……簡単に言って」
俺は少しだけ考えてから、言葉を選ぶ。
「同じ場所の、違う層にズレる感じ……か。地面はそのままで、“中身だけ別の状態に切り替わる”みたいな」
《評価:概ね正しい認識》
セブンが短く肯定する。
《補足:三次元座標間の接続は行われていないため、
その痕跡である位相波の発生なし。外部観測網による検出は困難》
一拍置いて、セレスが口を挟んだ。
「……要するに、普通の転移は“別々の場所を繋ぐ道"と、その"両端の穴"を無理やり作るものなのよ。
位相波は、その過程で発生する現象なの」
指先で、空中に線を引くような仕草。
「でもこれは違う。最初から、別空間への穴がある」
その言い方は妙にしっくり来た。
「……なるほどな」
小さく息を吐く。
「最初からある扉の、“鍵だけ開けて入る”ってことか」
……なるほど。
だから、痕跡がない。
運んでない。転送もしてない。
——“ここから消えただけ”に見える。
「……クソ面倒なやり方だな」
思わず呟いた。
エナが円盤を見つめたまま、静かに言う。
「……たぶん、この中に……います」
小さく。
「消えた人たち」
空気が、もう一段落ちた。
さっきまでの軽さは、完全に消えている。ただ、静かに重い。
エナがこちらを見る。
「……起動していいですか?」
その声は、いつもより少し低かった。
俺はすぐには答えず、十字路へ視線を落とす。
何もない場所。なのに、確かに“ある”場所。
——ここを開く。
「……中に入るってことだよな」
「はい……」
即答だった。
俺は息を吐く。
危険なのは間違いない。何があるか分からないし、戻れる保証もない。
それに——
「……全員で行くの、アリか?」
視線を上げる。
「正直、これ……帰れなくなる可能性もあるだろ。
だったら、誰かは外に残るべきだと思う」
一拍。
「最悪、報告できるやつが必要だ」
それが、一番現実的な判断だった。
セレスが静かに息を吐く。
「……そうね。理屈としては正しい」
でも、その声に迷いはなかった。
「でも」
エナが小さく割って入る。
視線は下を向いたまま。
「……あの家」
一拍。
「子ども、いましたよね。きっと」
声が、少しだけ揺れる。
「靴……片方だけ残ってて」
思い出す。
囲炉裏の横。開いた箱。あの小さい靴。
エナが、ぎゅっと手を握る。
「……あのまま、置いておくの……嫌です」
顔を上げる。
「行きたいですっ」
迷いはなかった。ただ、まっすぐだった。
セレスがその顔を見る。少しだけ目を細めて、それからゆっくり頷く。
「……そうね」
一歩、前に出る。
「分かれた時点で、戦力は分断される。
そのポータルってのがないと、向こうの様子を知ることもできないんでしょ?
半端に引くより、人数がいた方が対応力が高いわ」
視線が、俺に向く。
「全員で行きましょう」
短く、はっきり決めた顔だった。
俺は小さく息を吐く。
「……了解」
頷く。
「じゃあ」
エナを見る。
「頼む」
エナが強く頷いた。
「はいっ」
円盤を、十字路の中心へゆっくり差し出す。
空気が、わずかに軋んだ。
円盤の表面が、ふっと明るくなる。
強い光じゃないのに、刻まれた細い線のひとつひとつが、目に見えない何かをなぞるみたいにじわりと浮かび上がっていく。
エナが、静かに息を吸った。
「……いきます」
指先が、ほんのわずかに動く。
——その瞬間。
音が、消えた。
さっきと同じ現象なのに、今度は一段では収まらず、風の鳴りも、布の擦れる音も、遠くで誰かが動く気配すら、まとめて奥へ押し込まれていく。
視界が揺れた。
いや、揺れたんじゃない。
今まで見えていた村の景色の上に、別の何かが静かに重なってきて、輪郭と色と奥行きがほんの少しずつ噛み合わなくなり、そのズレが限界まで積み重なったところで——
世界が、すっと入れ替わった。
音が戻る。
けど、違う。
風の抜け方が、違う。
空気の“軽さ”が、違う。
「……っ」
セレスが、小さく息を呑む。
「ここが……エナちゃんの言う“境目の世界”?」
「……たぶん、そうです」
エナも、わずかに戸惑いを残したまま頷き、
セブンが、静かに割り込む。
《補足:当該領域は元空間と同一座標上に存在する別位相層》
一拍。
《仮称:“ 境界層”》
「……セブンくんの呼び方の方が、"境目世界"よりはマシね」
「でも……」
セレスが小さく呟き、そのまま周囲へ視線を巡らせた。
「なにここ……建物や景色……全部初めてみるわ。
私たちの世界とは…まるで違うわね」
一歩、足を進める。
「……それに…人の気配が、ない」
アリスも無言で周囲を観測している。
「構造物の材質、既存のデータと一致せず。
石材ではありません。加工精度が異常に高く、人工構造物と推察」
セレスが続ける。
「道もおかしいわね、まっすぐすぎる。生活の中でできた動線じゃなくて、最初から“線”として引かれてる感じ……」
「あれ……」
一瞬、言葉を切る。
彼女が見上げている先。
空に向かって、まっすぐ伸びる構造物。
継ぎ目がほとんどない、均一な面で構成された巨大な直方体の構造物。
何層にも積み上がり、空を削っている。
セレスが、一歩だけ後ろに下がった。
「……あんな高さで、完璧に垂直な塔。
どうやって支えてるの?」
一拍。
「……そもそも、なんのため、
あそこまで高い必要があるのよ……」
視線は上のままだ。
——風が通る。
人の生活音も、動物の気配もなくて、ただ“形だけ”が残っている。
俺は、その場で立ち尽くしていた。
視線は自然と前へ向く。
黒く……土のない道。
石でもレンガでもない、均一に伸びた滑らかな面が、見慣れた感触でそこにある。
その脇に立つ、細くまっすぐな……白い鉄の柱と
その先端の四角い金属の枠……
その中に、横に並んだ三つの光。
赤。
黄。
そして……緑。
喉の奥が、わずかに詰まる。
直線で構成された建物の群れが、無駄のない角度で並び、その壁には歪みのない大きな平面がはめ込まれている。
あれは、ガラスだ。
反射の仕方で、分かる。
見慣れている。
嫌になるくらい、見てきた。
「……ねえ」
セレスの声が、少し遠くに聞こえる。
「リクくん?」
俺は答えなかった。
ただ、目の前の景色を見ていた。
——懐かしい。
帰ってきた、なんて思うほど優しくはないのに、それでも体のどこかが勝手に“知ってる”と反応してしまう。
でも同時に、ぞっとする。
ここにあるはずがない。
ここは、あの場所と同じ形をしているのに、音も、人も、時間の流れも、全部が抜け落ちている。
「……ここ」
口が、自然に動いた。
人影がない。誰も居ないし、動いてるものもない。
でも、この景色は確かに……
「“俺の世界”だ」
風が、静かに通り抜けた。
そう……
——空っぽの、俺の世界。
——第2部第4話につづく。




