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境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部8話『灰色の境界』
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第5幕『花と人形』


 翌日も、俺は絶対安静だった。


 絶対、という言葉がつくと、人間は逆に動きたくなる。

 少なくとも俺はそうだった。

 けれど、医務官の目が怖いので動かない。

 この世界で一番強いのは魔王じゃなくて医務官かもしれない。


 昼前、廊下が急に騒がしくなった。


 扉の外で、誰かが小声で揉めている。



 「お前が先に言えよ」



 「いや、こういうのはニコだろ」



 「俺は勢い担当であって礼儀担当じゃねぇよ」



 「礼儀担当って誰だよ」



 「いねぇな」



 「いないのかよ」



 俺は寝台の上で目を閉じた。

 知らないふりをするには、声がでかい。



 「入っていいぞ」



 扉の向こうが一瞬で静かになった。


 それから、戸が少しだけ開く。


 隙間から顔を出したのは、まだ若い兵士だった。

 訓練兵の一人。

 一時預かりされている訓練区画で、話しかけてきた奴だ。



 「よー、リクっち!」



 「おー、ニコっち……」



 ニコは口を開けた。



 「なんだよ“っち”って」



 「“っち”ってなんだよは、こっちの台詞だ」



 後ろで三人が吹き出した。


 ぞろぞろと入ってくる。

 全員、訓練兵だ。

 制服は着ているが、肩や袖にまだ慣れていない感じがある。新品の革帯だけが妙に硬そうで、動くたびにぎしぎし鳴った。



 「トマ、ラウル、ベルトも来たのか」



 三人が顔を見合わせた。



 「……オマエ、俺たちの名前覚えてくれてんのな」



 ニコが変な顔をした。



 「いや、逆になんで覚えてねぇと思ってんだよ」



 「いや、勇者様から見たら、俺たちみたいなモブ、眼中にないかと思ってたよ」



 「自分でモブって言うな」



 「だってよお、俺ら、まだ訓練兵だぜ。正式な部隊でもないし」



 「関係あるかよ」



 そう言ってから、ふと親父の声を思い出した。


 『歴史年号なんて覚えてても役に立たんが、相手の顔と名前は覚えとけ。嫌な奴だろうとな』


 『挨拶の時に名前を呼ぶ癖を付けとけば、色々と得するぞ』


 親父はそういう人だった。


 勉強しろとは言う。

 でも、教科書より先に、近所の人の名前を覚えろと言う。

 試験の点数より、挨拶の相手を間違えるなと言う。


 だからってわけじゃないが、俺は暗記科目が苦手なわりに、人の顔と名前は覚える方だった。


 

 「すげぇな。俺、昨日の座学の講師の名前もう忘れた」



 ラウルが真顔で言う。



 「それは覚えろよ」



 ベルトが小さな包みを差し出した。

 干し果物だった。

 たぶん、兵舎の売店かどこかで買ったものだろう。高級品ではないが、見舞いとして持ってきた気遣いは伝わる。



 「医務官に確認した。少しならいいってさ」



 「ありがと」



 「ただし、勝手に食うと俺たちが怒られる」



 「責任重いな、干し果物」



 四人は寝台の周りに立った。

 座れとは言われていないのか、座る場所がないのか、全員が微妙に落ち着かない。


 ニコだけがやたら自然に近づいてきて、医務官に見られたら怒られそうな距離で立つ。



 「で、リクっち」



 「だから、その“っち”何なんだよ」



 「細かいことはいいだろ」



 「よくねぇよ」



 ニコは声を少し落とした。

 落としたつもりだろうけど、まだ普通に聞こえる。



 「アリスちゃんって、何が好きなの?」



 「そっちが本命かよ」



 「当たり前だろ?」



 即答だった。

 トマが慌ててニコの肩を掴む。



 「ちょ、お前、もう少し遠回しに聞けよ」



 「遠回しって何だよ。『最近の王都情勢を鑑み、アリスちゃんの嗜好品について確認を』とか?」



 「たしかに、余計変だな」



 ラウルが真面目にうなずく。



 「食べ物は基本食べないんだろ? なら、菓子持っていっても困らせるだろうし」



 そこは考えてるのか。


 俺は少しだけ感心した。


 アリスは人間じゃない。

 人間みたいな食事は必要ない。


 でも、何かを渡したいと思われている。

 それは、悪いことじゃないはずだ。



 俺は少し考えた。


 アリスが何を好きか。

 本人に聞いたら、たぶん『嗜好品の定義を要求します』とか返ってくる。

 でも、前に花をじっと見ていたことがある。

 あれが好きなのか、観察対象として見ていただけなのかは分からない。


 俺は、改めてニコを見る。


 『人間の名前は、ただの音で覚えるな。何か一つ、引っかかりをつけろ』


 これも親父の弁だ。



 「ニコ。実家、花屋だっけ?」



 「おう」



 「たぶん、花とか好きだぞ。アイツ」



 ニコの顔がぱっと明るくなった。



 「マジで?」



 「たぶんだぞ」



 「たぶんで十分だろ!」



 「いや、十分ではないだろ」



 「花なら食べなくていいし、飾れるし、変な意味にもなりにくい!」



 「最後の基準、なんだよ」



 ベルトが腕を組んでうなずく。



 「でも花か。いいな。剣とか飾り紐より重くない」



 「いや、剣を渡す気だったのか?」



 「勇者様の仲間だぞ。武器の方がいいかと」



 「アリスに武器増やすな。十分すぎるほど持ってる」



 ラウルが窓の外を見た。



 「花なら、医務局の庭にもあるよな」



 「勝手に摘むなよ」



 四人が同時に目を逸らした。



 「摘むなよ?」



 「……もちろん」



 「今の間は何だ」



 ラウルが笑ってごまかす。


 こいつ、たぶんやる。

 医務官に見つかって怒られるところまで見える。



 その時、廊下から咳払いが聞こえた。


 四人の背筋が伸びる。


 医務官が扉の前に立っていた。いつからいたのかは分からない。

 手には薬湯の器。顔は、訓練兵四人まとめて薬草に漬けそうな顔だった。



 「面会時間は終わりです」



 「はい!」



 「失礼しました!」



 「リクっち、またな!」



 「“っち”やめろ」



 四人は一斉に退散した。

 廊下で誰かが足をもつれさせ、別の誰かが「静かにしろ」と小声で怒鳴る。

 小声の意味はあまりない。


 医務官は薬湯を俺に渡した。



 「元気なお友達ですね」



 「友達というか、訓練兵というか」



 「元気なお友達ですね」



 言い直しは許されなかった。


 俺は薬湯を受け取る。

 苦い匂いがした。



 「……これ、回復魔法の代わりですか?」



 「魔法より効きます。飲めば」



 「はい」



 飲んだ。


 苦かった。



————



 院内に限って歩いていい、と許可が出たのは、それから数日後だった。


 許可と言っても、自由ではない。


 距離は医務局の廊下から中庭まで。

 時間は医務官が砂時計で計る。

 右腕は吊ったまま。

 胸の固定はそのまま。

 深呼吸で痛みが強くなったら即中止。


 あと、調子に乗ったら二日間寝台に戻す。


 最後だけやたら具体的だった。



 午後の中庭は、思ったより冷えていた。


 石畳の隙間に短い草が生えている。

 壁際には薬草の木枠。

 その向こうに、小さな花壇があった。

 花は派手ではない。白や薄紫の小さな花が、風で頼りなく揺れている。


 俺はゆっくり歩いた。


 一歩。

 止まる。

 息を整える。


 もう一歩。


 たったそれだけで、身体の奥が熱を持つ。

 走るどころじゃない。

 跳ぶなんて論外だ。


 自分の身体が、別の誰かのものみたいだった。



 《補足:歩行速度、健康時比二十二パーセント》



 「うるさい」



 《評価:進行は安定》



 「先にそっち言えよ」



 医務官が少し離れた場所で見ている。

 手には砂時計。

 こっちが一歩でも余計に動いたら、すぐに戻されそうな顔だ。


 俺は花壇の横の低い石に腰を下ろした。


 座るだけで息が出る。

 悔しい。

 でも、寝台の上よりは空が広い。


 その時、廊下の向こうから、何か大きなものが歩いてきた。

 いや、歩いてきたと言うより、最初は花束が浮いているのかと思った。


 白。

 青。

 黄。

 薄い紫。


 大量の花が、壁みたいになって移動している。


 よく見ると、花の山の下から灰色の靴が見えた。

 次に、水色の布。

 最後に、花束の隙間から金色の目がのぞく。



 ——アリスだった。



 アリスの体積より、花の方が大きい。


 両腕で抱えている、というより、無数の細いワイヤーで束をまとめて、身体の前に固定している。

 花束のいくつかは完全に視界を塞いでいて、アリスはわずかに首を傾けながら歩いていた。


 それでも足取りは乱れない。

 カチリ、と関節の小さな音がして、石畳の継ぎ目を正確に越える。



 「リク」



 花の山が言った。



 「……アリス?」



 「はい」



 「何それ」



 「贈与品です」



 「量」



 「現在、花束二十八。単花十三。鉢植え二。分類不能の草束一」



 「最後なに?」



 「ラウルより受領。本人は花と主張」



 あいつ……やっぱ、やったな。



 アリスは俺の前まで来ると、ワイヤーを少しだけ緩めた。


 花束がふわりと揺れる。

 思ったより重そうだったが、アリスの腕はほとんど沈まない。



 「ここに来る途中、複数名より追加で渡されました」



 「複数名?」



 「訓練兵。衛兵。補給係。厨房担当。階級章の多い高齢男性一名」



 「将校まで混じってんじゃねぇか」



 「全員、花を渡す際に『無理に返礼は不要』と発言」



 「そりゃそうだろ」



 「ただし、花を渡した後も立ち去らない人物が多数」



 「なんか言って欲しかったんだろ、そりゃ。『ありがとう』とか、『綺麗ですね』とか」



 俺は片手で顔を覆った。


 ニコのやつ、言いふらしたのか。


 抜け駆けすればいいのに。

 ……たぶん、そういうタイプじゃないんだろう。


 『みんなが知ってた方が、アリスが喜ぶ』

 そんなふうに、自然に思って行動した。


 お人よしというか、馬鹿正直というか。


 やっぱ恋愛対象というより、アイドルに近いのかもしれない。


 無表情で、小柄で、人形みたいで。

 でも戦場では負傷者を抱えて走り、ワイヤーで空間を切る。

 そんなアリスが、何を喜ぶか分からない。


 だから、誰かが『花が好きらしい』と言ったら、みんなそこへ乗る。


 気持ちは分かる。


 ……分かるけど。



 「すまん」



 俺は言った。



 「たぶんだが、俺のせいだ」



 アリスは花束の隙間から、じっと俺を見た。



 「原因照合を要請します」



 「いや、それは聞くな」



 「私に対する、推定情報が流布されたと推察します」



 「うん……まぁ、そんなとこ」



 「訂正」



 アリスは、ワイヤーで花束を少し持ち上げた。



 「花への嗜好は未分類です」



 「未分類か」



 「はい。観察対象としては有用。色彩差、香気、形状差、劣化速度の比較が可能です」



 「それ、好きって言うのと違う?」



 「定義が不明です」



 アリスはそう言って、ほんの少しだけ花束を見下ろした。


 白い花弁が一枚、ワイヤーに引っかかっている。

 アリスは指先でそれを取ろうとして、両手が塞がっていることに気づいたらしい。

 代わりに、細いワイヤーが一本だけ伸びて、花弁をそっと外した。


 その動きが、妙に丁寧だった。



 「廃棄条件も未設定です」



 「捨てたくないってこと?」



 「訂正。贈与品の処理手順が未決定です」



 「そっか」



 俺は笑った。

 今度は少しだけ胸が痛んだが、耐えられるくらいだった。



 「じゃあ、花瓶を探すか」



 「花瓶二十八個が必要です」



 「そこからか」



 「鉢植え二は除外可能」



 「助かる」



 ぜんぜん助かっていない。


 医務官が遠くからこちらを見ていた。

 顔が怖い。

 たぶん、中庭を花屋にするなと言いたいのだろう。


 でも、まだ怒鳴らない。


 アリスは花束の山を抱えたまま、少しだけ首を傾けた。



 「リク」



 「何?」



 「花を受領した際、多くの人物が、私の損耗状態を質問しました」



 俺は黙った。



 「質問内容は、機能障害の有無、修復予定、疼痛の有無。回答可能範囲で返答しました」



 「そっか」



 「また、リクの状態についても質問されました」



 「俺?」



 「はい。歩行許可が出たことを伝えました」



 「そりゃ、また広まりそうだな」



 「情報共有は士気に影響すると推察」



 アリスは淡々と言う。


 花に埋もれたまま。

 無表情のまま。


 でも、その花束の山は、たぶんただの好意だけじゃない。


 訓練兵。

 衛兵。

 補給係。

 厨房担当。

 階級章の多い高齢男性。


 みんな、何かを渡したかったんだろう。

 アリスに。

 俺たちに。

 戻ってきたことに。

 まだ動けることに。


 俺は、花壇の小さな白い花を見る。

 そこにも風が触れていた。



 「アリス」



 「はい」



 「ありがとな。受け取ってくれて」



 アリスは瞬きした。



 「礼の対象が不明です」



 「たぶん、そういうのは不明でいい」



 「不明のまま記録します」



 「そうしてくれ」



 花の山の向こうで、アリスの金色の目が一度だけ細くなる。


 笑ったわけじゃない。

 たぶん、違う。


 でも、花束を支えるワイヤーが、ほんの少しだけ丁寧に締め直された。


 医務官の砂時計が落ちきる音がした。



 「リクさん。戻りますよ」



 「はい」



 俺は立ち上がろうとして、胸の奥が少し引きつった。

 顔に出たのか、アリスのワイヤーがすぐに一本伸びる。



 「歩行補助を実施します」



 「頼む」



 細い線が、俺の左腕の近くで止まる。

 触れるか触れないかの距離で、支点だけを作る。


 アリスは大量の花を抱えたまま、俺の歩幅に合わせて歩き出した。


 花の匂いが、薬草の匂いに混ざる。


 医務局の廊下は、相変わらず白くて、少し寒い。

 でも、その日だけは、いつもより少しだけ騒がしかった。


 花瓶が足りないせいで。


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