第5幕『花と人形』
翌日も、俺は絶対安静だった。
絶対、という言葉がつくと、人間は逆に動きたくなる。
少なくとも俺はそうだった。
けれど、医務官の目が怖いので動かない。
この世界で一番強いのは魔王じゃなくて医務官かもしれない。
昼前、廊下が急に騒がしくなった。
扉の外で、誰かが小声で揉めている。
「お前が先に言えよ」
「いや、こういうのはニコだろ」
「俺は勢い担当であって礼儀担当じゃねぇよ」
「礼儀担当って誰だよ」
「いねぇな」
「いないのかよ」
俺は寝台の上で目を閉じた。
知らないふりをするには、声がでかい。
「入っていいぞ」
扉の向こうが一瞬で静かになった。
それから、戸が少しだけ開く。
隙間から顔を出したのは、まだ若い兵士だった。
訓練兵の一人。
一時預かりされている訓練区画で、話しかけてきた奴だ。
「よー、リクっち!」
「おー、ニコっち……」
ニコは口を開けた。
「なんだよ“っち”って」
「“っち”ってなんだよは、こっちの台詞だ」
後ろで三人が吹き出した。
ぞろぞろと入ってくる。
全員、訓練兵だ。
制服は着ているが、肩や袖にまだ慣れていない感じがある。新品の革帯だけが妙に硬そうで、動くたびにぎしぎし鳴った。
「トマ、ラウル、ベルトも来たのか」
三人が顔を見合わせた。
「……オマエ、俺たちの名前覚えてくれてんのな」
ニコが変な顔をした。
「いや、逆になんで覚えてねぇと思ってんだよ」
「いや、勇者様から見たら、俺たちみたいなモブ、眼中にないかと思ってたよ」
「自分でモブって言うな」
「だってよお、俺ら、まだ訓練兵だぜ。正式な部隊でもないし」
「関係あるかよ」
そう言ってから、ふと親父の声を思い出した。
『歴史年号なんて覚えてても役に立たんが、相手の顔と名前は覚えとけ。嫌な奴だろうとな』
『挨拶の時に名前を呼ぶ癖を付けとけば、色々と得するぞ』
親父はそういう人だった。
勉強しろとは言う。
でも、教科書より先に、近所の人の名前を覚えろと言う。
試験の点数より、挨拶の相手を間違えるなと言う。
だからってわけじゃないが、俺は暗記科目が苦手なわりに、人の顔と名前は覚える方だった。
「すげぇな。俺、昨日の座学の講師の名前もう忘れた」
ラウルが真顔で言う。
「それは覚えろよ」
ベルトが小さな包みを差し出した。
干し果物だった。
たぶん、兵舎の売店かどこかで買ったものだろう。高級品ではないが、見舞いとして持ってきた気遣いは伝わる。
「医務官に確認した。少しならいいってさ」
「ありがと」
「ただし、勝手に食うと俺たちが怒られる」
「責任重いな、干し果物」
四人は寝台の周りに立った。
座れとは言われていないのか、座る場所がないのか、全員が微妙に落ち着かない。
ニコだけがやたら自然に近づいてきて、医務官に見られたら怒られそうな距離で立つ。
「で、リクっち」
「だから、その“っち”何なんだよ」
「細かいことはいいだろ」
「よくねぇよ」
ニコは声を少し落とした。
落としたつもりだろうけど、まだ普通に聞こえる。
「アリスちゃんって、何が好きなの?」
「そっちが本命かよ」
「当たり前だろ?」
即答だった。
トマが慌ててニコの肩を掴む。
「ちょ、お前、もう少し遠回しに聞けよ」
「遠回しって何だよ。『最近の王都情勢を鑑み、アリスちゃんの嗜好品について確認を』とか?」
「たしかに、余計変だな」
ラウルが真面目にうなずく。
「食べ物は基本食べないんだろ? なら、菓子持っていっても困らせるだろうし」
そこは考えてるのか。
俺は少しだけ感心した。
アリスは人間じゃない。
人間みたいな食事は必要ない。
でも、何かを渡したいと思われている。
それは、悪いことじゃないはずだ。
俺は少し考えた。
アリスが何を好きか。
本人に聞いたら、たぶん『嗜好品の定義を要求します』とか返ってくる。
でも、前に花をじっと見ていたことがある。
あれが好きなのか、観察対象として見ていただけなのかは分からない。
俺は、改めてニコを見る。
『人間の名前は、ただの音で覚えるな。何か一つ、引っかかりをつけろ』
これも親父の弁だ。
「ニコ。実家、花屋だっけ?」
「おう」
「たぶん、花とか好きだぞ。アイツ」
ニコの顔がぱっと明るくなった。
「マジで?」
「たぶんだぞ」
「たぶんで十分だろ!」
「いや、十分ではないだろ」
「花なら食べなくていいし、飾れるし、変な意味にもなりにくい!」
「最後の基準、なんだよ」
ベルトが腕を組んでうなずく。
「でも花か。いいな。剣とか飾り紐より重くない」
「いや、剣を渡す気だったのか?」
「勇者様の仲間だぞ。武器の方がいいかと」
「アリスに武器増やすな。十分すぎるほど持ってる」
ラウルが窓の外を見た。
「花なら、医務局の庭にもあるよな」
「勝手に摘むなよ」
四人が同時に目を逸らした。
「摘むなよ?」
「……もちろん」
「今の間は何だ」
ラウルが笑ってごまかす。
こいつ、たぶんやる。
医務官に見つかって怒られるところまで見える。
その時、廊下から咳払いが聞こえた。
四人の背筋が伸びる。
医務官が扉の前に立っていた。いつからいたのかは分からない。
手には薬湯の器。顔は、訓練兵四人まとめて薬草に漬けそうな顔だった。
「面会時間は終わりです」
「はい!」
「失礼しました!」
「リクっち、またな!」
「“っち”やめろ」
四人は一斉に退散した。
廊下で誰かが足をもつれさせ、別の誰かが「静かにしろ」と小声で怒鳴る。
小声の意味はあまりない。
医務官は薬湯を俺に渡した。
「元気なお友達ですね」
「友達というか、訓練兵というか」
「元気なお友達ですね」
言い直しは許されなかった。
俺は薬湯を受け取る。
苦い匂いがした。
「……これ、回復魔法の代わりですか?」
「魔法より効きます。飲めば」
「はい」
飲んだ。
苦かった。
————
院内に限って歩いていい、と許可が出たのは、それから数日後だった。
許可と言っても、自由ではない。
距離は医務局の廊下から中庭まで。
時間は医務官が砂時計で計る。
右腕は吊ったまま。
胸の固定はそのまま。
深呼吸で痛みが強くなったら即中止。
あと、調子に乗ったら二日間寝台に戻す。
最後だけやたら具体的だった。
午後の中庭は、思ったより冷えていた。
石畳の隙間に短い草が生えている。
壁際には薬草の木枠。
その向こうに、小さな花壇があった。
花は派手ではない。白や薄紫の小さな花が、風で頼りなく揺れている。
俺はゆっくり歩いた。
一歩。
止まる。
息を整える。
もう一歩。
たったそれだけで、身体の奥が熱を持つ。
走るどころじゃない。
跳ぶなんて論外だ。
自分の身体が、別の誰かのものみたいだった。
《補足:歩行速度、健康時比二十二パーセント》
「うるさい」
《評価:進行は安定》
「先にそっち言えよ」
医務官が少し離れた場所で見ている。
手には砂時計。
こっちが一歩でも余計に動いたら、すぐに戻されそうな顔だ。
俺は花壇の横の低い石に腰を下ろした。
座るだけで息が出る。
悔しい。
でも、寝台の上よりは空が広い。
その時、廊下の向こうから、何か大きなものが歩いてきた。
いや、歩いてきたと言うより、最初は花束が浮いているのかと思った。
白。
青。
黄。
薄い紫。
大量の花が、壁みたいになって移動している。
よく見ると、花の山の下から灰色の靴が見えた。
次に、水色の布。
最後に、花束の隙間から金色の目がのぞく。
——アリスだった。
アリスの体積より、花の方が大きい。
両腕で抱えている、というより、無数の細いワイヤーで束をまとめて、身体の前に固定している。
花束のいくつかは完全に視界を塞いでいて、アリスはわずかに首を傾けながら歩いていた。
それでも足取りは乱れない。
カチリ、と関節の小さな音がして、石畳の継ぎ目を正確に越える。
「リク」
花の山が言った。
「……アリス?」
「はい」
「何それ」
「贈与品です」
「量」
「現在、花束二十八。単花十三。鉢植え二。分類不能の草束一」
「最後なに?」
「ラウルより受領。本人は花と主張」
あいつ……やっぱ、やったな。
アリスは俺の前まで来ると、ワイヤーを少しだけ緩めた。
花束がふわりと揺れる。
思ったより重そうだったが、アリスの腕はほとんど沈まない。
「ここに来る途中、複数名より追加で渡されました」
「複数名?」
「訓練兵。衛兵。補給係。厨房担当。階級章の多い高齢男性一名」
「将校まで混じってんじゃねぇか」
「全員、花を渡す際に『無理に返礼は不要』と発言」
「そりゃそうだろ」
「ただし、花を渡した後も立ち去らない人物が多数」
「なんか言って欲しかったんだろ、そりゃ。『ありがとう』とか、『綺麗ですね』とか」
俺は片手で顔を覆った。
ニコのやつ、言いふらしたのか。
抜け駆けすればいいのに。
……たぶん、そういうタイプじゃないんだろう。
『みんなが知ってた方が、アリスが喜ぶ』
そんなふうに、自然に思って行動した。
お人よしというか、馬鹿正直というか。
やっぱ恋愛対象というより、アイドルに近いのかもしれない。
無表情で、小柄で、人形みたいで。
でも戦場では負傷者を抱えて走り、ワイヤーで空間を切る。
そんなアリスが、何を喜ぶか分からない。
だから、誰かが『花が好きらしい』と言ったら、みんなそこへ乗る。
気持ちは分かる。
……分かるけど。
「すまん」
俺は言った。
「たぶんだが、俺のせいだ」
アリスは花束の隙間から、じっと俺を見た。
「原因照合を要請します」
「いや、それは聞くな」
「私に対する、推定情報が流布されたと推察します」
「うん……まぁ、そんなとこ」
「訂正」
アリスは、ワイヤーで花束を少し持ち上げた。
「花への嗜好は未分類です」
「未分類か」
「はい。観察対象としては有用。色彩差、香気、形状差、劣化速度の比較が可能です」
「それ、好きって言うのと違う?」
「定義が不明です」
アリスはそう言って、ほんの少しだけ花束を見下ろした。
白い花弁が一枚、ワイヤーに引っかかっている。
アリスは指先でそれを取ろうとして、両手が塞がっていることに気づいたらしい。
代わりに、細いワイヤーが一本だけ伸びて、花弁をそっと外した。
その動きが、妙に丁寧だった。
「廃棄条件も未設定です」
「捨てたくないってこと?」
「訂正。贈与品の処理手順が未決定です」
「そっか」
俺は笑った。
今度は少しだけ胸が痛んだが、耐えられるくらいだった。
「じゃあ、花瓶を探すか」
「花瓶二十八個が必要です」
「そこからか」
「鉢植え二は除外可能」
「助かる」
ぜんぜん助かっていない。
医務官が遠くからこちらを見ていた。
顔が怖い。
たぶん、中庭を花屋にするなと言いたいのだろう。
でも、まだ怒鳴らない。
アリスは花束の山を抱えたまま、少しだけ首を傾けた。
「リク」
「何?」
「花を受領した際、多くの人物が、私の損耗状態を質問しました」
俺は黙った。
「質問内容は、機能障害の有無、修復予定、疼痛の有無。回答可能範囲で返答しました」
「そっか」
「また、リクの状態についても質問されました」
「俺?」
「はい。歩行許可が出たことを伝えました」
「そりゃ、また広まりそうだな」
「情報共有は士気に影響すると推察」
アリスは淡々と言う。
花に埋もれたまま。
無表情のまま。
でも、その花束の山は、たぶんただの好意だけじゃない。
訓練兵。
衛兵。
補給係。
厨房担当。
階級章の多い高齢男性。
みんな、何かを渡したかったんだろう。
アリスに。
俺たちに。
戻ってきたことに。
まだ動けることに。
俺は、花壇の小さな白い花を見る。
そこにも風が触れていた。
「アリス」
「はい」
「ありがとな。受け取ってくれて」
アリスは瞬きした。
「礼の対象が不明です」
「たぶん、そういうのは不明でいい」
「不明のまま記録します」
「そうしてくれ」
花の山の向こうで、アリスの金色の目が一度だけ細くなる。
笑ったわけじゃない。
たぶん、違う。
でも、花束を支えるワイヤーが、ほんの少しだけ丁寧に締め直された。
医務官の砂時計が落ちきる音がした。
「リクさん。戻りますよ」
「はい」
俺は立ち上がろうとして、胸の奥が少し引きつった。
顔に出たのか、アリスのワイヤーがすぐに一本伸びる。
「歩行補助を実施します」
「頼む」
細い線が、俺の左腕の近くで止まる。
触れるか触れないかの距離で、支点だけを作る。
アリスは大量の花を抱えたまま、俺の歩幅に合わせて歩き出した。
花の匂いが、薬草の匂いに混ざる。
医務局の廊下は、相変わらず白くて、少し寒い。
でも、その日だけは、いつもより少しだけ騒がしかった。
花瓶が足りないせいで。




