第4幕『痛みと疑い』
午後になると、医務室の窓に差す光が少し黄色くなった。
朝の白い光より、ずっと鈍い。
壁に吊られた包帯の影が伸びて、薬棚の瓶の中で乾いた根っこみたいなものが沈んでいる。
俺は寝台の上で、上半身だけ少し起こされていた。
背中には丸めた布をいくつも挟まれている。
自力で起き上がったわけじゃない。
医務官に「動くな」と言われたので、「ちょっとだけ」と返したら、返事の代わりに布団を剥がされ、問答無用でこの姿勢に固定された。
たぶん、治療という名の拘束だ。
《評価:妥当》
「お前、医務官の味方なのか」
《否定。当ユニットはユーザーの継続稼働を優先》
「おい、言い方」
寝台の横に立てかけられたセブンが、黒い刀身に午後の光を吸い込んでいる。
見舞い客が来ると不気味がられるからという理由で、布をかけようとした医務官がいたが、セブン本人が《拒否》した。
剣に拒否権があるのか、とも思うが。
……あったんだよな、これが。
扉が叩かれた。
医務官の乱暴な叩き方ではない。
アリスの一定間隔でもない。
エナなら、叩く前に声がする。
「リクくん。入ってもいい?」
セレスだった。
「どうぞ」
扉が開く。
セレスは記録具と薄い書類束を抱えていた。
軍服の襟は整っている。
けれど、眼鏡を押し上げる指の動きが少し重い。たぶん、まだ寝不足だ。
「顔色、少し戻ったわね」
「そうか?」
「少なくとも、昨日みたいに会議室で倒れそうな顔ではないわ」
「倒れてねぇし」
「倒れる前に撤収させたからよ」
言い返せない。
セレスは寝台の横の椅子に座った。
書類束を膝の上に置き、いつもの仕事の顔に戻る。
「体調確認と、報告を兼ねて来たわ」
「見舞いじゃねぇの?」
「見舞いも兼ねているわ」
「順番逆じゃない?」
「仕事中だもの」
さらっと言った。
でも、膝の上の書類束の隣に、小さな包みが置かれている。
布越しに、甘い匂いがした。
「それは?」
「医務官に確認して。食べてもいいと言われた焼き菓子」
今朝、ヴェイルにも似たようなのを渡された。
ありがたいけど、ベッドの横が菓子棚みたいになりそうだ。
「仕事中なのに?」
「見舞いも兼ねているって言ったでしょう?」
セレスは少しだけ視線を逸らした。
俺は笑いそうになって、胸が痛む前にやめた。
「ありがと」
「どういたしまして」
そこで一度、空気が落ち着く。
俺は包みを見る。
食べたい。
でも、今聞くべきことはそれじゃない。
「セレス」
「なに」
「ポータルは?」
セレスの表情が、すぐに仕事のものへ戻った。
「証拠品として押収されているわ」
「やっぱりか」
「王国軍、監察局、魔導機関の三者立ち会いで保管。私一人の判断では持ち出せない」
「厳重だな」
「当然よ。未知の位相層を開いた可能性のある道具だもの。下手に触れば、また別の場所へ繋がるかもしれない」
そう言われると、文句を言いにくい。
——あの銀色の円盤。
あの白衣を着た、距離感のバグった男が置いていった、胡散臭い道具。
それを使って、ボーダーレイヤーに入った。
逆に言えば、あれがないと、あの場所にもう一度入れるかも分からない。
「アニエスのこと、あの白衣着た男に聞く必要がある」
セレスの手が、書類の端で止まった。
「……ポータルを持ってたって人ね。その男を疑っているの?」
「疑ってる」
俺は正直に言った。
「でも、黒幕だと決めつけてるわけじゃない。あいつがやったとは限らない。でも、何か知ってるはずだ。
全部じゃなくても、何かは」
セブンが小さく鳴る。
《補足:ポータルは、既存転移とは異なる位相干渉を示した。当該人物が関連情報を保有している可能性は高い》
「ポータルがあれば、通信できるかもなんだけど……」
セレスは眼鏡を押し上げた。
「言ったでしょ。押収中よ」
「こっそり借りるとか?」
「犯罪宣言を、監察官の前でしない」
即答だった。
「いや、冗談だって」
「冗談にしては目が本気だったわ」
《分析:本気度四十七パーセント》
「盛るな」
《否定。低めに申告》
「低めかよ」
セレスがため息をついた。
呆れている。
でも、完全には否定していない顔だった。
「必要性は理解しているわ。だから、私からも正式に申請を出している。ポータルの解析状況と、外部連絡手段としての使用可否の確認」
「通りそう?」
「簡単には無理ね」
「だよな」
「でも、出さなければ絶対に通らない」
その言い方は、セレスらしかった。
走って突破するんじゃない。
書類を書いて、判を取って、相手の逃げ道を塞ぐ。
それが、セレスの戦い方なんだろう。
俺には、たぶん向いてない。
向いてないから、ありがたかった。
俺は顔をしかめる。
セレスがすぐに気づいた。
「痛む?」
「まあ、そこそこ」
「医務官を呼ぶ?」
「いや、大丈夫」
「あなたの『大丈夫』は信用してない」
「じゃあ、まあまあ大丈夫」
「もっと信用できないわね」
俺は左手で包帯の上を軽く押さえた。
「なあ、この世界って回復魔法ないの?」
セレスが、書類をめくる手を止めた。
「回復魔法?」
「そう。ヒールとか、ホイミとか。こう、パッて光って、サッと怪我が治るやつ」
言いながら、自分でも雑な説明だと思った。
手をかざす。
そしたら光る。
で、怪我が治る。
セレスは、真面目な顔で聞いていた。
「どんな仕組みで?」
「いや、それは知らねーよ」
「知らない仕組みで肋骨が繋がると思っていたの?」
「元の世界だと、そういうもんなんだよ。……フィクションの中だけど」
「便利な世界ね」
「現実にはねーけどな」
「なお悪いわ」
即答だった。
セブンが壁際で淡く鳴る。
《補足:ユーザーは、発言に創作物に由来する概念を混入させる傾向がある》
「お前、冷静に分析すんな。はずいだろ」
セレスは少し考えるように、指先で眼鏡の縁に触れた。
「治療補助の術式ならあるわ。血止め、消毒、腐敗抑制、痛みの緩和、熱を下げる」
「じゃあ、治るんじゃ」
「それは、人の身体が治るのを助けているだけ。切れた肉が一瞬で塞がるわけではないし、折れた骨が即座に元通りになるわけでもない」
「魔法なのに?」
「厳密にいえば、魔法と魔術は違う概念よ」
セレスは、少しだけ眉を寄せた。
「現象には代償と過程がある。傷を塞ぐには材料が要る。熱を奪うには逃がす先が要る。肉を無理に繋げば、膿むこともある。骨を急がせれば、曲がって固まることもある」
「……RPGみたいにはいかねぇか」
「あーるぴーじー?」
「俺の世界の遊び。細かい説明は長くなる」
「そう」
セレスはそれ以上、聞かなかった。
代わりに、書類束を膝の上で整える。
「つまり、今のあなたに必要なのは、安静、薬、食事、睡眠。あと、余計な会議に出ないこと」
「最後だけ刺してきたな」
「事実よ」
《評価:医療方針として妥当》
「お前ら、今日ずっと組んでない?」
セレスが少し笑った。
笑ってから、すぐに表情を戻す。
「リクくん」
「うん」
「パッと治る魔法がないから、人は怪我を恐れる。だから、軍は撤退路を作るし、衛生兵を連れていくし、死者の数を数える」
ファンタジー世界なんだから、便利な回復魔法があってもおかしくない、と思っていた。
でも、もしそれが当たり前になったら。……人は傷付くことを、今ほど怖がらなくなるかもしれない。
剣で切られても治る。
骨を折られても治る。
なら、斬る側も折る側も、今ほどためらわなくなるんだろうか。
怪我を怖がらない人間は、自分の身体だけじゃなく、他人の身体も軽く見る気がする。
……それは、少し怖い気がした。
セレスは膝の上の書類に目を落とした。
「数えるのは、冷たいことだけど。数えなければ、次に減らせない」
俺は何も言えなかった。
昨日の会議室を思い出す。
死亡推定。
兵力配分。
保留。
数字にされるのが嫌だった。
でも、数字にしなければ動けない人間もいる。
たぶん、それもこの世界の現実なんだろう。
セレスは焼き菓子の包みを寝台の横の台へ置き、立ち上がる。
書類束を抱え直し、扉へ向かった。
扉へ向かう途中、セレスは一度だけ振り返る。
「それと、リクくん」
「ん?」
「ポータルを持ってた男を疑うのはいい。王国を疑うのも、今は仕方ない。でも、一人で抱え込まないこと」
「……分かってる」
「あなたの『分かってる』も、信用してない」
「じゃあ、まあまあ分かってる」
セレスが、起こってるような、笑ってるような微妙な表情をみせてから、扉を閉める。
医務室に、また薬草の匂いと午後の光だけが残った。




