第1幕『行かない任務』
階段を下りられるようになった。
といっても、一段ずつだ。
左手で手すりを握る。右腕は、まだ胸の前で吊られている。
片足を下ろす。体重を移す。
胸の奥に痛みが走らないことを確かめてから、もう片方を同じ段へ運ぶ。
以前なら、三段くらいまとめて飛び越えていた。今は、その三段にずいぶん時間がかかる。
《評価:歩行速度、前日比八パーセント上昇》
腰の左側に吊ったセブンが言った。刀身は軽量状態になっている。
それでも歩くたび、鞘代わりの布が脚へ当たった。
「それ、褒めてんのか?」
《評価:観測結果》
「知ってた」
階段の下には、医務官が待っていた。
腕を組み、こちらを見上げている。
俺が二段飛ばしでもしようものなら、その場で階段を封鎖しそうな顔だった。
最後の一段へ足を下ろす。靴底が床についた瞬間、息が漏れた。
苦しいわけじゃない。
身体のどこへ力を入れれば、胸を揺らさずに済むのか。まだ、それを考えながら動かなきゃならないだけだ。
医務官が砂時計を確かめる。
「十一分」
「昨日より早くなってますよね?」
「昨日より熱も下がっています。だからといって、走ってよい理由にはなりません」
「走るつもりはないです」
「顔に書いてあります」
反射的に頬へ触れようとして、右腕が動かないことを思い出す。
途中で止まった左手を見て、医務官が深く息を吐いた。
「病室まで戻れますか」
「戻れます」
「一人で?」
「はい」
「途中で座り込まない?」
「たぶん」
「……車椅子を用意しましょう」
「いや待って。今のは言い方を間違えた」
《補足:ユーザーの予測精度は低い》
「お前は黙ってろ」
医務官はしばらく俺を見ていた。やがて廊下の先へ顎を向ける。
「病室まで。寄り道禁止。階段は禁止。痛みが強くなったら、その場で呼びなさい」
「呼べって、どうやって?」
「声を出して」
「……普通だ」
「あなたは普通のことを避ける傾向がありますから」
……言い返せなかった。
俺は廊下を歩き始めた。
一歩ずつ。
壁沿いに並ぶ薬瓶。紐に掛けられた洗い立ての包帯。
桶を抱えた衛生兵が、俺を避けるために足を止める。
少し前まで、全部が寝台の外にある世界だった。
自分で歩くだけで、見えるものが増える。
……嬉しい。
たぶん、嬉しいはずなのに。
まだ走れないことの方が、先に頭へ浮かんだ。
病室の前まで来ると、扉の脇に三人がいた。
セレス、アリス、エナ。
セレスは書類の束を胸元に抱えている。
アリスは壁際に立ち、通行の邪魔にならない位置を選んでいた。
エナは俺を見つけた瞬間、両手を胸の前で握る。
「あっ! リクさん、一人で歩いてますっ!」
声が廊下へ響いた。
隣の病室から咳払いが聞こえる。
「あっ」
エナが慌てて口を塞ぐ。
それから顔を近づけるようにして、小声で繰り返した。
「一人で歩いてますっ」
小さくなっても、まだ少し大きい。
「ありがと。だから、病棟への全体アナウンスは今日で打ち切ってくれ」
笑った拍子に、胸の奥が引きつった。
足が止まる。
アリスの視線が、すぐに俺の足元へ落ちた。
「歩行姿勢に乱れを確認」
「平気」
「訂正します。平気であるとの自己申告を確認」
「意味同じじゃねーか」
「情報の信頼度が異なります」
「俺の申告、一段階下の資料扱いなんだな」
「はい。観測結果と一致した場合のみ、信頼度を更新します」
セレスが病室の扉を開けた。
「話は中でしましょう。リクくん、まず座って」
「その書類の厚さで、軽い話じゃないのは分かる」
「察しがよくて助かるわ」
たぶん、良い知らせではある。でも、全部が良いわけじゃない。
俺は寝台の縁へ腰を下ろした。横になれとは言われなかったので、背中を壁へ預ける。
セレスは椅子に座らなかった。
寝台の前に立ったまま、書類の束を持ち直す。
「あの村の再捜索が、正式に認可されたわ」
言葉の意味が入ってくるまで、少しかかった。
「……通ったのか」
「ええ」
身体が勝手に浮きかける。
胸に痛みが走り、尻が寝台へ戻った。
「いつ?」
「出発は二日後。現地で侵入口と周辺を確認して一泊。翌朝、境界層へ再侵入する予定よ」
「二日後……」
頭の中で、自分の身体を数え始めた。
二日あれば、もう少し歩ける。
右腕は無理でも、セブンは左手で持てる。
戦闘にならなければ。
そこまで考えてから、セレスが持っている書類へ目がいった。
「名簿、見せてくれ」
セレスは一番上の紙を抜き、こちらへ差し出した。
左手で受け取る。
この世界の文字も、簡単なものなら読めるようになった。
ただ、役職名が長くなると、まだ目が滑る。
王国軍監察局。
王立魔導機関技術解析局。
位相観測班。
資料回収班。
治療補助員。
外周警備。
知っている名前を探す。
セレス・ヴェルスタン。
アリス・リドル。
エナ。
指が止まった。
「二人とも、まだ直りきってねーだろ」
アリスの肩から脇へ伸びる外装には、まだ色の違う継ぎ目が残っている。
左脚の関節も、以前より音が硬い。
エナはいつも通り立っていた。
けれど、黒い鎧の胸元には、補修材の細い筋が走っている。
さっき両手を上げた時も、一瞬だけ顔をしかめたように見えた。
「連続で動いても、本当に保つのか? エナも、補修したところ、脆いだろ」
セレスが書類を一枚めくる。
「アリスちゃんは、主駆動系、索敵機能、ワイヤー機構の動作確認を終えているわ。ただし、一部感覚器の精度低下と、連続稼働時間の制限が残っている」
視線がエナへ移る。
「エナちゃんも通常行動に支障はない。けれど、高出力兵装の連続使用は禁止。二人とも、戦闘を前提にした状態ではないわ」
「戦闘回避は作戦条件であって、敵に提出するお願いじゃない」
セレスの口が止まった。
責めたいわけじゃなかった。でも、言葉にすると、どうしても刺さる形になった。
「悪い。セレスに言ってるんじゃない。ただ……また同じことにならないか……」
「分かってるわ」
アリスがこちらを見る。
「任務遂行に必要な機能は回復しています」
「機能だけじゃなくて、アリス自身はどうなんだ?」
「質問内容の再定義を要請します」
「痛みとか、不具合とか。行きたくないのに、必要だから参加することになってないかってこと」
アリスは一度だけ瞬きした。
「完全修復には至っていません」
少し間を置く。
「ただし、現在確認されている制限を理解した上で、わたしは参加を承諾しました」
今度はエナを見る。
「エナも、自分で決めたのか?」
「はいっ」
エナは胸の前で両手を握った。
勢いよく答えたあと、少しだけ声を落とす。
「まだ、前とまったく同じではないです。でも、向こうで誰かが待ってるかもしれません」
「前と同じじゃないなら、無理はできないぞ」
「あたしも分かってます。出力を上げすぎないことも、痛くなったらすぐ言うことも、ちゃんと約束しました」
エナがセレスを見る。
セレスが頷いた。
「出力制限を超えた場合は、本人の判断にかかわらず撤退対象になる。それも参加条件に入れてあるわ」
名簿へ目を戻す。
その下まで探しても、俺の名前はなかった。セブンもない。
分かっていたはずなのに、紙の上で見ると、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「……俺とセブンは、名簿にないんだな」
「ええ」
セレスの答えは短かった。
最初から、俺が食い下がると分かっている顔だった。
「書き忘れじゃなくて?」
「違うわ」
「今から追加は?」
セレスはすぐに首を横へ振った。
「医務官から、戦闘復帰の許可が出ていない。長時間の徒歩移動も不可。胸部と右腕を再損傷する可能性が高いわ」
「戦闘には参加しない。中に入って、道を確認するだけでも」
「今回も、戦闘が起きない保証はない」
「前に入った人間がいた方がいいだろ。地形も、敵のことも知ってる」
「訂正」
アリスが口を挟んだ。
「現地移動経路、敵性存在、構造変化は、わたしが記録しています。案内役としてリク本人を必要とする条件はありません」
胸の奥へ、細い針が入った。
アリスに悪意がないことは分かっている。
分かっているから、怒ることもできない。
「アリスの覚えてることと、俺が感じたものは違うと思う」
「相違条件の提示を要請します」
「それは……」
言葉が止まった。
俺にしか分からないものがある。そう言いたかった。
でも、その何かが見つからない。
曲がり角の空気。
地面を踏んだ時の感触。
誰もいない街の気味悪さ。
そんなものまで、アリスは俺より正確に記録している気がした。
役に立ちたい。
置いていかれたくない。
——結局、俺が言いたいのはそれだけだった。
「リクくん」
セレスが静かに名前を呼ぶ。
「今回の目的は、侵入口の安定性確認、帰還経路の確保、行方不明者三名の所在確認。それから、現場記録と資料の回収よ」
「三人が見つかったら、助けるんだよな?」
「生存していて、搬送が可能なら救出する」
「搬送できなかった場合は?」
セレスの視線が、ほんの少し下がった。
「位置と状態を記録して、一度撤退する」
「……見つけても、置いて戻るかもしれないって……」
「その可能性はあるわ」
言い方は冷たく聞こえた。でも、冷たく言っているわけじゃない。
全員で取りついて、全員が帰れなくなる。前に起きかけたことだ。
だから、腹を立てる場所が見つからなかった。
「……分かった。俺の話は、ここまでにする」
口に出しても、納得できたわけじゃない。
でも、これ以上続けても、セレスに断らせる回数が増えるだけだ。
セレスも、そう受け取ったらしい。
それ以上は言わなかった。
俺はもう一度、アリスとエナを見る。
二人とも、自分で参加を決めた。……俺がいない場所で。
——それは当たり前だ。
止めたい気持ちは消えなかった。
でも、俺が止める権利を持っているわけでもない。
アリスにも、エナにも、自分の理由がある。
別に俺がRPGの主人公ってわけじゃない。俺の前にだけ、選択肢が浮かぶわけじゃない。
俺が動けないからって、アリスやエナまで止まる理由にはならない。
腹の底に残った重いものを、そのまま飲み込む。
代わりに、別のことが気になった。
「セレス。魔導機関は、二人を調査対象として連れていくつもりじゃないよな」
セレスの眉がわずかに動いた。
「その可能性を心配してるのね」
「アリスもエナも、向こうの連中が欲しがりそうな技術だろ。現地へ行ってから、装備扱いされたり、勝手に調べられたりしないか?」
「そこは参加条件に明記したわ」
セレスは書類の中から、端に赤い印のある一枚を抜いた。
「アリスちゃんとエナちゃんは、王国軍および王立魔導機関の所有物ではない。分解、拘束、機能検査は厳密に制限。身体への接触も本人の同意なしには行えない」
指先で、別の項目を示す。
「修復記録と出力制限は、必要な範囲だけ共有済み。アリスちゃんの部品交換は現地では行わない。エナちゃんも規定以上の出力低下が確認された時点で、調査より撤退を優先する」
「魔導機関は、それで納得を?」
「納得はしていないでしょうね」
セレスは眼鏡を押し上げた。
「でも、署名はさせたわ」
たぶん、そのために何枚も書類を書いた。何人にも説明した。何人かとは、確実に揉めた。
俺が寝たり、歩く練習をしたりしている間に。
「ありがとう」
セレスが少しだけ目を見開いた。
「……急に素直ね」
「二人のことだから」
「あなた自身の名簿は変わらないわよ」
「そこ狙ってない」
……いや、少しだけ狙っていたかもしれない。
セレスは紙を戻しながら、説明を続ける。
「再捜索が通った理由は一つじゃないわ。エルド将軍が軍側の条件をまとめた。コルティア少将が監察条件付きで承認した。ルーンヴァイス主幹研究員が、境界層の技術的価値を保証した」
「ヴェイルが?」
「ええ。王立魔導機関が技術者と予算を出すことで、軍の兵力消耗を抑える。そういう形で通したの」
「じゃあ、行方不明者を探すためだけじゃないんだな」
「それだけでは通らなかった」
セレスは言葉を選ぶように、一度息を置いた。
「軍は前線から兵を割けない。戦略室は、生存可能性の低い対象へ一個小隊規模を投入することに反対した。けれど、未確認位相層や敵の魔装、女性型ゴーレムには、国家安全保障上の調査価値がある」
「研究する価値があるから、人を出すってことか」
「そうよ」
「行方不明者は、そのついで?」
すぐには答えが返らなかった。
エナが、胸の前で握っていた手を下ろす。
「でも、探しますっ」
まっすぐな声だった。
「魔導機関の人が、難しいものを調べたいなら、それもすればいいです。でも、あたしは、いなくなった人を探します」
エナは俺を見る。
「向こうには今、守ってくれる人がいませんから」
何も言えなくなった。
エナは俺を置いていきたくない。たぶん、今もそう思っている。
それでも行く。向こうにいるかもしれない誰かのために。
「アリスは?」
「未回収対象三名の所在確認は、わたしの未完了任務に該当します」
アリスは変わらない声で答えた。
「また、前回作戦における記録保持者として、わたしの参加は合理的です」
そこで一度、言葉を切る。
「その上で、参加を承諾しました」
「……そっか」
二人はもう決めている。
だったら、行くなと言うんじゃなくて、帰るために何ができるかを考えるべきだ。
分かっている。
——それでも。
名簿に自分の名前がないことだけは、どうしても目についた。
「せめて、現地まで同行できないか? 外で待つだけでもいい」
「駄目よ」
「戦わない。走らない。境界層にも入らない」
「現地までの馬車移動だけでも、今のリクくんには負担になる。帰還者が出た場合、医務班の寝台をあなたが一つ使う可能性もある」
言葉が詰まった。
セレスの声は硬かった。
「あなたは今、救助に行く側ではなく、まだ救助される側なの」
胸の痛みとは違う場所が、ずきりとした。
俺は名簿を握った。左手だけで。
でも、反論は出なかった。
馬車で熱を出すかもしれない。
向こうで動けなくなるかもしれない。
誰かが、俺を担いで帰ることになるかもしれない。
それは救助じゃない。
ただ、助ける人数を一人増やすだけだ。
「リクさん」
エナが一歩近づいた。
けれど、俺の身体には触れなかった。
「必ず戻りますっ」
「それは……」
声が強くなりかけて、止める。
エナが目を瞬いた。
「悪い。約束をするなって言いたいわけじゃないけど」
喉の奥に、ルカの顔が浮かんだ。
誰も約束していなかった。それでも、助けられると思っていた。
「必ずとか、絶対とか。守れなかった時に、言った方も、聞いた方も苦しくなるから」
エナは少し俯いた。
「……はい」
声が小さい。
また……言い方を間違えた。
「エナに怒ってるわけじゃないんだ」
「分かってますっ」
分かっていない顔だった。
それでも、笑おうとしていた。
アリスが、俺の手元の紙へ視線を落とす。
「提案。作戦出発までに、わたしが保持する現地記録をリクと照合します」
「俺と?」
「はい。経路、敵性存在、構造変化、民間人搬送時の問題点。リクの記憶と比較すれば、調査班へ追加情報を提供できる可能性があります」
「役に立つと思うか?」
「有用性あり」
「どのくらい?」
「未検証」
「そこは正直だな」
「正確です」
腰の横で、セブンが小さく鳴った。
《提案:ユーザーは現地記録の照合に加え、既存転移術および境界層に関する基礎情報を取得すべき》
「勉強しろって?」
《肯定》
「お前までヴェイルみたいなこと言うなよ」
《評価:ユーザーは未知情報下での即時判断を多用する。判断材料の増加は生存率向上に寄与》
正論だった。
この世界へ来てから、正論に腹を立ててばかりいる気がする。
俺は再び、名簿に目を落とす。そこに自分の名前はない。
名前がないから、何もできないわけじゃない。
そう思おうとした。でも、すぐには、うまくいかなかった。
俺は書類をセレスへ返した。
「……悪い。少しだけ、一人で悔しがる時間をくれ」
セレスは紙を受け取りながら、俺の顔を見た。
「夕方までに終わる?」
「長引きそうなら、延長申請を出す」
「却下するわ」
「じゃあ夕方までで」
アリスが一度だけ頭を下げた。
「現地記録の資料作成を実施します。夕刻に再訪問予定。照合を予定してください」
エナは扉の前で足を止める。
「リクさん」
「ん?」
「絶対戻るっていう約束はしません」
少しだけ困った顔で笑う。
「でも、戻るために、いっぱい考えてから行きますっ」
俺はしばらくエナを見た。
「……うん。それなら、頼む」
三人が出ていく。扉が閉まる。
部屋に残ったのは、俺とセブンだけだった。
窓の外では、医務棟の中庭を誰かが掃いている。箒が石畳を擦る音が、一定の間隔で続いていた。
俺は名簿を寝台の上へ置く。
左手を開く。紙の端を強く握りすぎて、指に跡がついていた。
「……悔しいな」
《確認》
「確認すんな」
《発言内容を受領》
「言い方変えただけだろ、それ」
セブンは黙った。俺は天井を見る。
——行きたい。
行って、残された三人を探したい。
アリスとエナの隣にいたい。何かあった時、セブンを振りたい。
でも、今の俺が行けば。馬車で熱を出すかもしれない。向こうで動けなくなるかもしれない。
誰かが、俺を担いで帰ることになるかもしれない。
分かっている。
分かっているから、余計に悔しかった。
「分かってんだけどな」
《理解と感情の一致は必須ではない》
「そういう時だけ、少し人間みたいなこと言うなよ」
《訂正:学術統計に基づく一般論》
「はいはい」
目を閉じる。
ヴェイルの言葉を思い出した。知識は正解を保証しない。でも、間違い方を選べるようにはなる。
あいつが何を考えているのかは、まだいまいち分からない。
それでも、その言葉だけは残っていた。
知らないまま、走ってきた。
知らないまま、選んだ。
その全部が間違いだったとは思わない。
けれど、知らなかったせいで見落としたものが、なかったとも言えない。
今は走れない。だったら、走らなくてもできることを探す。
それが俺のやり方だったはずだ。
「セブン。王立魔導機関って、一般人でも入れるかな」
《情報不足》
「ヴェイルに会いに行きたい。怪我が治ったらって言われたけど、歩けるようにはなった」
《却下》
「早いな」
《医務棟外への移動許可なし》
「じゃあ、申請する」
《承認可能性は低い》
「出さなきゃ絶対通らない」
口にすると、少しだけ気分が変わった。セレスが、いつもやっていることだ。
走って押し通すんじゃなく、紙と判で道を作る。
《評価:セレス・ヴェルスタンの行動様式を模倣》
「俺だって、書類くらい出せる」
《文字記述速度および王国公文書形式の理解に懸念》
「そこは手伝ってくれよ」
《当ユニットは王国公文書形式を学習中》
「二人とも駄目じゃねぇか」
少しだけ笑った。胸は痛んだ。
でも、前ほどじゃなかった。
俺は寝台から足を下ろす。
立たない。ただ、床へ足をつける。
「まず、アリスの記録を見る」
《承認》
「そのあと、転移者。魔術。魔導機関。王国と帝国。魔王軍」
自分で言いながら、嫌になってきた。
「……多いな」
《肯定》
「勉強、嫌いなんだけど」
《相棒の発言傾向として既知》
「即答すんな」
窓の外で、箒の音が止まった。
代わりに、遠くで鐘が鳴る。
一つ。
二つ。
三つ。
作戦出発まで、あと二日。
俺は行けない。それは変わらない。
だから、その間にできることをやる。次に自分が立った時、知らなかったでは済ませない。
勉強が好きになったわけじゃない。
賢くなりたいわけでもない。
——ただ。
知らないことが理由で、何かを失うのは嫌だった。




