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境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部8話『走れない勇者』
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第1幕『行かない任務』


 階段を下りられるようになった。


 といっても、一段ずつだ。


 左手で手すりを握る。右腕は、まだ胸の前で吊られている。


 片足を下ろす。体重を移す。

 胸の奥に痛みが走らないことを確かめてから、もう片方を同じ段へ運ぶ。


 以前なら、三段くらいまとめて飛び越えていた。今は、その三段にずいぶん時間がかかる。



 《評価:歩行速度、前日比八パーセント上昇》



 腰の左側に吊ったセブンが言った。刀身は軽量状態になっている。

 それでも歩くたび、鞘代わりの布が脚へ当たった。



 「それ、褒めてんのか?」



 《評価:観測結果》



 「知ってた」



 階段の下には、医務官が待っていた。


 腕を組み、こちらを見上げている。

 俺が二段飛ばしでもしようものなら、その場で階段を封鎖しそうな顔だった。


 最後の一段へ足を下ろす。靴底が床についた瞬間、息が漏れた。


 苦しいわけじゃない。

 身体のどこへ力を入れれば、胸を揺らさずに済むのか。まだ、それを考えながら動かなきゃならないだけだ。


 医務官が砂時計を確かめる。



 「十一分」



 「昨日より早くなってますよね?」



 「昨日より熱も下がっています。だからといって、走ってよい理由にはなりません」



 「走るつもりはないです」



 「顔に書いてあります」



 反射的に頬へ触れようとして、右腕が動かないことを思い出す。

 途中で止まった左手を見て、医務官が深く息を吐いた。



 「病室まで戻れますか」



 「戻れます」



 「一人で?」



 「はい」



 「途中で座り込まない?」



 「たぶん」



 「……車椅子を用意しましょう」



 「いや待って。今のは言い方を間違えた」



 《補足:ユーザーの予測精度は低い》



 「お前は黙ってろ」



 医務官はしばらく俺を見ていた。やがて廊下の先へ顎を向ける。



 「病室まで。寄り道禁止。階段は禁止。痛みが強くなったら、その場で呼びなさい」



 「呼べって、どうやって?」



 「声を出して」



 「……普通だ」



 「あなたは普通のことを避ける傾向がありますから」



 ……言い返せなかった。



 俺は廊下を歩き始めた。

 一歩ずつ。


 壁沿いに並ぶ薬瓶。紐に掛けられた洗い立ての包帯。

 桶を抱えた衛生兵が、俺を避けるために足を止める。


 少し前まで、全部が寝台の外にある世界だった。

 自分で歩くだけで、見えるものが増える。


 ……嬉しい。

 たぶん、嬉しいはずなのに。


 まだ走れないことの方が、先に頭へ浮かんだ。



 病室の前まで来ると、扉の脇に三人がいた。


 セレス、アリス、エナ。


 セレスは書類の束を胸元に抱えている。

 アリスは壁際に立ち、通行の邪魔にならない位置を選んでいた。

 エナは俺を見つけた瞬間、両手を胸の前で握る。



 「あっ! リクさん、一人で歩いてますっ!」



 声が廊下へ響いた。

 隣の病室から咳払いが聞こえる。



 「あっ」



 エナが慌てて口を塞ぐ。

 それから顔を近づけるようにして、小声で繰り返した。



 「一人で歩いてますっ」



 小さくなっても、まだ少し大きい。



 「ありがと。だから、病棟への全体アナウンスは今日で打ち切ってくれ」



 笑った拍子に、胸の奥が引きつった。


 足が止まる。

 アリスの視線が、すぐに俺の足元へ落ちた。



 「歩行姿勢に乱れを確認」



 「平気」



 「訂正します。平気であるとの自己申告を確認」



 「意味同じじゃねーか」



 「情報の信頼度が異なります」



 「俺の申告、一段階下の資料扱いなんだな」



 「はい。観測結果と一致した場合のみ、信頼度を更新します」



 セレスが病室の扉を開けた。



 「話は中でしましょう。リクくん、まず座って」



 「その書類の厚さで、軽い話じゃないのは分かる」



 「察しがよくて助かるわ」



 たぶん、良い知らせではある。でも、全部が良いわけじゃない。


 俺は寝台の縁へ腰を下ろした。横になれとは言われなかったので、背中を壁へ預ける。


 セレスは椅子に座らなかった。

 寝台の前に立ったまま、書類の束を持ち直す。



 「あの村の再捜索が、正式に認可されたわ」



 言葉の意味が入ってくるまで、少しかかった。



 「……通ったのか」



 「ええ」



 身体が勝手に浮きかける。

 胸に痛みが走り、尻が寝台へ戻った。



 「いつ?」



 「出発は二日後。現地で侵入口と周辺を確認して一泊。翌朝、境界層へ再侵入する予定よ」



 「二日後……」



 頭の中で、自分の身体を数え始めた。


 二日あれば、もう少し歩ける。

 右腕は無理でも、セブンは左手で持てる。

 戦闘にならなければ。


 そこまで考えてから、セレスが持っている書類へ目がいった。



 「名簿、見せてくれ」



 セレスは一番上の紙を抜き、こちらへ差し出した。

 左手で受け取る。


 この世界の文字も、簡単なものなら読めるようになった。

 ただ、役職名が長くなると、まだ目が滑る。


 王国軍監察局。

 王立魔導機関技術解析局。

 位相観測班。

 資料回収班。

 治療補助員。

 外周警備。


 知っている名前を探す。


 セレス・ヴェルスタン。

 アリス・リドル。

 エナ。


 指が止まった。



 「二人とも、まだ直りきってねーだろ」



 アリスの肩から脇へ伸びる外装には、まだ色の違う継ぎ目が残っている。

 左脚の関節も、以前より音が硬い。


 エナはいつも通り立っていた。


 けれど、黒い鎧の胸元には、補修材の細い筋が走っている。

 さっき両手を上げた時も、一瞬だけ顔をしかめたように見えた。



 「連続で動いても、本当に保つのか? エナも、補修したところ、脆いだろ」



 セレスが書類を一枚めくる。



 「アリスちゃんは、主駆動系、索敵機能、ワイヤー機構の動作確認を終えているわ。ただし、一部感覚器の精度低下と、連続稼働時間の制限が残っている」



 視線がエナへ移る。



 「エナちゃんも通常行動に支障はない。けれど、高出力兵装の連続使用は禁止。二人とも、戦闘を前提にした状態ではないわ」



 「戦闘回避は作戦条件であって、敵に提出するお願いじゃない」



 セレスの口が止まった。


 責めたいわけじゃなかった。でも、言葉にすると、どうしても刺さる形になった。



 「悪い。セレスに言ってるんじゃない。ただ……また同じことにならないか……」



 「分かってるわ」



 アリスがこちらを見る。



 「任務遂行に必要な機能は回復しています」



 「機能だけじゃなくて、アリス自身はどうなんだ?」



 「質問内容の再定義を要請します」



 「痛みとか、不具合とか。行きたくないのに、必要だから参加することになってないかってこと」



 アリスは一度だけ瞬きした。



 「完全修復には至っていません」



 少し間を置く。



 「ただし、現在確認されている制限を理解した上で、わたしは参加を承諾しました」



 今度はエナを見る。



 「エナも、自分で決めたのか?」



 「はいっ」



 エナは胸の前で両手を握った。

 勢いよく答えたあと、少しだけ声を落とす。



 「まだ、前とまったく同じではないです。でも、向こうで誰かが待ってるかもしれません」



 「前と同じじゃないなら、無理はできないぞ」



 「あたしも分かってます。出力を上げすぎないことも、痛くなったらすぐ言うことも、ちゃんと約束しました」



 エナがセレスを見る。

 セレスが頷いた。



 「出力制限を超えた場合は、本人の判断にかかわらず撤退対象になる。それも参加条件に入れてあるわ」



 名簿へ目を戻す。

 その下まで探しても、俺の名前はなかった。セブンもない。


 分かっていたはずなのに、紙の上で見ると、胸の奥へ冷たいものが落ちた。



 「……俺とセブンは、名簿にないんだな」



 「ええ」



 セレスの答えは短かった。

 最初から、俺が食い下がると分かっている顔だった。



 「書き忘れじゃなくて?」



 「違うわ」



 「今から追加は?」



 セレスはすぐに首を横へ振った。



 「医務官から、戦闘復帰の許可が出ていない。長時間の徒歩移動も不可。胸部と右腕を再損傷する可能性が高いわ」



 「戦闘には参加しない。中に入って、道を確認するだけでも」



 「今回も、戦闘が起きない保証はない」



 「前に入った人間がいた方がいいだろ。地形も、敵のことも知ってる」



 「訂正」



 アリスが口を挟んだ。



 「現地移動経路、敵性存在、構造変化は、わたしが記録しています。案内役としてリク本人を必要とする条件はありません」



 胸の奥へ、細い針が入った。

 アリスに悪意がないことは分かっている。

 分かっているから、怒ることもできない。



 「アリスの覚えてることと、俺が感じたものは違うと思う」



 「相違条件の提示を要請します」



 「それは……」



 言葉が止まった。

 俺にしか分からないものがある。そう言いたかった。

 でも、その何かが見つからない。


 曲がり角の空気。

 地面を踏んだ時の感触。

 誰もいない街の気味悪さ。


 そんなものまで、アリスは俺より正確に記録している気がした。



 役に立ちたい。

 置いていかれたくない。



 ——結局、俺が言いたいのはそれだけだった。



 「リクくん」



 セレスが静かに名前を呼ぶ。



 「今回の目的は、侵入口の安定性確認、帰還経路の確保、行方不明者三名の所在確認。それから、現場記録と資料の回収よ」



 「三人が見つかったら、助けるんだよな?」



 「生存していて、搬送が可能なら救出する」



 「搬送できなかった場合は?」



 セレスの視線が、ほんの少し下がった。



 「位置と状態を記録して、一度撤退する」



 「……見つけても、置いて戻るかもしれないって……」



 「その可能性はあるわ」



 言い方は冷たく聞こえた。でも、冷たく言っているわけじゃない。

 全員で取りついて、全員が帰れなくなる。前に起きかけたことだ。


 だから、腹を立てる場所が見つからなかった。



 「……分かった。俺の話は、ここまでにする」



 口に出しても、納得できたわけじゃない。

 でも、これ以上続けても、セレスに断らせる回数が増えるだけだ。



 セレスも、そう受け取ったらしい。

 それ以上は言わなかった。


 俺はもう一度、アリスとエナを見る。

 二人とも、自分で参加を決めた。……俺がいない場所で。



 ——それは当たり前だ。



 止めたい気持ちは消えなかった。

 でも、俺が止める権利を持っているわけでもない。


 アリスにも、エナにも、自分の理由がある。

 別に俺がRPGの主人公ってわけじゃない。俺の前にだけ、選択肢が浮かぶわけじゃない。


 俺が動けないからって、アリスやエナまで止まる理由にはならない。


 腹の底に残った重いものを、そのまま飲み込む。

 代わりに、別のことが気になった。



 「セレス。魔導機関は、二人を調査対象として連れていくつもりじゃないよな」



 セレスの眉がわずかに動いた。



 「その可能性を心配してるのね」



 「アリスもエナも、向こうの連中が欲しがりそうな技術だろ。現地へ行ってから、装備扱いされたり、勝手に調べられたりしないか?」



 「そこは参加条件に明記したわ」



 セレスは書類の中から、端に赤い印のある一枚を抜いた。



 「アリスちゃんとエナちゃんは、王国軍および王立魔導機関の所有物ではない。分解、拘束、機能検査は厳密に制限。身体への接触も本人の同意なしには行えない」



 指先で、別の項目を示す。



 「修復記録と出力制限は、必要な範囲だけ共有済み。アリスちゃんの部品交換は現地では行わない。エナちゃんも規定以上の出力低下が確認された時点で、調査より撤退を優先する」



 「魔導機関は、それで納得を?」



 「納得はしていないでしょうね」



 セレスは眼鏡を押し上げた。



 「でも、署名はさせたわ」



 たぶん、そのために何枚も書類を書いた。何人にも説明した。何人かとは、確実に揉めた。

 俺が寝たり、歩く練習をしたりしている間に。



 「ありがとう」



 セレスが少しだけ目を見開いた。



 「……急に素直ね」



 「二人のことだから」



 「あなた自身の名簿は変わらないわよ」



 「そこ狙ってない」



 ……いや、少しだけ狙っていたかもしれない。


 セレスは紙を戻しながら、説明を続ける。



 「再捜索が通った理由は一つじゃないわ。エルド将軍が軍側の条件をまとめた。コルティア少将が監察条件付きで承認した。ルーンヴァイス主幹研究員が、境界層の技術的価値を保証した」



 「ヴェイルが?」



 「ええ。王立魔導機関が技術者と予算を出すことで、軍の兵力消耗を抑える。そういう形で通したの」



 「じゃあ、行方不明者を探すためだけじゃないんだな」



 「それだけでは通らなかった」



 セレスは言葉を選ぶように、一度息を置いた。



 「軍は前線から兵を割けない。戦略室は、生存可能性の低い対象へ一個小隊規模を投入することに反対した。けれど、未確認位相層や敵の魔装、女性型ゴーレムには、国家安全保障上の調査価値がある」



 「研究する価値があるから、人を出すってことか」



 「そうよ」



 「行方不明者は、そのついで?」



 すぐには答えが返らなかった。

 エナが、胸の前で握っていた手を下ろす。



 「でも、探しますっ」



 まっすぐな声だった。



 「魔導機関の人が、難しいものを調べたいなら、それもすればいいです。でも、あたしは、いなくなった人を探します」



 エナは俺を見る。



 「向こうには今、守ってくれる人がいませんから」



 何も言えなくなった。

 エナは俺を置いていきたくない。たぶん、今もそう思っている。


 それでも行く。向こうにいるかもしれない誰かのために。



 「アリスは?」



 「未回収対象三名の所在確認は、わたしの未完了任務に該当します」



 アリスは変わらない声で答えた。



 「また、前回作戦における記録保持者として、わたしの参加は合理的です」



 そこで一度、言葉を切る。



 「その上で、参加を承諾しました」



 「……そっか」

 


 二人はもう決めている。

 だったら、行くなと言うんじゃなくて、帰るために何ができるかを考えるべきだ。


 分かっている。



 ——それでも。



 名簿に自分の名前がないことだけは、どうしても目についた。



 「せめて、現地まで同行できないか? 外で待つだけでもいい」



 「駄目よ」



 「戦わない。走らない。境界層にも入らない」



 「現地までの馬車移動だけでも、今のリクくんには負担になる。帰還者が出た場合、医務班の寝台をあなたが一つ使う可能性もある」



 言葉が詰まった。

 セレスの声は硬かった。



 「あなたは今、救助に行く側ではなく、まだ救助される側なの」



 胸の痛みとは違う場所が、ずきりとした。

 俺は名簿を握った。左手だけで。

 でも、反論は出なかった。


 馬車で熱を出すかもしれない。

 向こうで動けなくなるかもしれない。

 誰かが、俺を担いで帰ることになるかもしれない。


 それは救助じゃない。

 ただ、助ける人数を一人増やすだけだ。



 「リクさん」



 エナが一歩近づいた。

 けれど、俺の身体には触れなかった。



 「必ず戻りますっ」



 「それは……」 



 声が強くなりかけて、止める。

 エナが目を瞬いた。



 「悪い。約束をするなって言いたいわけじゃないけど」 



 喉の奥に、ルカの顔が浮かんだ。

 誰も約束していなかった。それでも、助けられると思っていた。



 「必ずとか、絶対とか。守れなかった時に、言った方も、聞いた方も苦しくなるから」



 エナは少し俯いた。



 「……はい」



 声が小さい。

 また……言い方を間違えた。



 「エナに怒ってるわけじゃないんだ」



 「分かってますっ」

 


 分かっていない顔だった。

 それでも、笑おうとしていた。


 アリスが、俺の手元の紙へ視線を落とす。



 「提案。作戦出発までに、わたしが保持する現地記録をリクと照合します」 



 「俺と?」



 「はい。経路、敵性存在、構造変化、民間人搬送時の問題点。リクの記憶と比較すれば、調査班へ追加情報を提供できる可能性があります」



 「役に立つと思うか?」



 「有用性あり」



 「どのくらい?」



 「未検証」



 「そこは正直だな」



 「正確です」



 腰の横で、セブンが小さく鳴った。



 《提案:ユーザーは現地記録の照合に加え、既存転移術および境界層に関する基礎情報を取得すべき》



 「勉強しろって?」



 《肯定》



 「お前までヴェイルみたいなこと言うなよ」



 《評価:ユーザーは未知情報下での即時判断を多用する。判断材料の増加は生存率向上に寄与》



 正論だった。

 この世界へ来てから、正論に腹を立ててばかりいる気がする。


 俺は再び、名簿に目を落とす。そこに自分の名前はない。

 名前がないから、何もできないわけじゃない。

 そう思おうとした。でも、すぐには、うまくいかなかった。


 俺は書類をセレスへ返した。



 「……悪い。少しだけ、一人で悔しがる時間をくれ」



 セレスは紙を受け取りながら、俺の顔を見た。



 「夕方までに終わる?」



 「長引きそうなら、延長申請を出す」



 「却下するわ」



 「じゃあ夕方までで」



 アリスが一度だけ頭を下げた。



 「現地記録の資料作成を実施します。夕刻に再訪問予定。照合を予定してください」



 エナは扉の前で足を止める。



 「リクさん」



 「ん?」



 「絶対戻るっていう約束はしません」



 少しだけ困った顔で笑う。



 「でも、戻るために、いっぱい考えてから行きますっ」



 俺はしばらくエナを見た。



 「……うん。それなら、頼む」



 三人が出ていく。扉が閉まる。


 部屋に残ったのは、俺とセブンだけだった。

 窓の外では、医務棟の中庭を誰かが掃いている。箒が石畳を擦る音が、一定の間隔で続いていた。


 俺は名簿を寝台の上へ置く。


 左手を開く。紙の端を強く握りすぎて、指に跡がついていた。



 「……悔しいな」



 《確認》



 「確認すんな」



 《発言内容を受領》



 「言い方変えただけだろ、それ」



 セブンは黙った。俺は天井を見る。



 ——行きたい。



 行って、残された三人を探したい。

 アリスとエナの隣にいたい。何かあった時、セブンを振りたい。


 でも、今の俺が行けば。馬車で熱を出すかもしれない。向こうで動けなくなるかもしれない。

 誰かが、俺を担いで帰ることになるかもしれない。


 分かっている。

 分かっているから、余計に悔しかった。



 「分かってんだけどな」



 《理解と感情の一致は必須ではない》



 「そういう時だけ、少し人間みたいなこと言うなよ」



 《訂正:学術統計に基づく一般論》



 「はいはい」



 目を閉じる。


 ヴェイルの言葉を思い出した。知識は正解を保証しない。でも、間違い方を選べるようにはなる。


 あいつが何を考えているのかは、まだいまいち分からない。

 それでも、その言葉だけは残っていた。


 知らないまま、走ってきた。

 知らないまま、選んだ。

 その全部が間違いだったとは思わない。


 けれど、知らなかったせいで見落としたものが、なかったとも言えない。


 今は走れない。だったら、走らなくてもできることを探す。

 それが俺のやり方だったはずだ。



 「セブン。王立魔導機関って、一般人でも入れるかな」



 《情報不足》



 「ヴェイルに会いに行きたい。怪我が治ったらって言われたけど、歩けるようにはなった」



 《却下》



 「早いな」



 《医務棟外への移動許可なし》



 「じゃあ、申請する」



 《承認可能性は低い》



 「出さなきゃ絶対通らない」



 口にすると、少しだけ気分が変わった。セレスが、いつもやっていることだ。

 走って押し通すんじゃなく、紙と判で道を作る。



 《評価:セレス・ヴェルスタンの行動様式を模倣》



 「俺だって、書類くらい出せる」



 《文字記述速度および王国公文書形式の理解に懸念》



 「そこは手伝ってくれよ」



 《当ユニットは王国公文書形式を学習中》



 「二人とも駄目じゃねぇか」


 少しだけ笑った。胸は痛んだ。

 でも、前ほどじゃなかった。


 俺は寝台から足を下ろす。

 立たない。ただ、床へ足をつける。



 「まず、アリスの記録を見る」



 《承認》



 「そのあと、転移者。魔術。魔導機関。王国と帝国。魔王軍」



 自分で言いながら、嫌になってきた。



 「……多いな」



 《肯定》



 「勉強、嫌いなんだけど」



 《相棒の発言傾向として既知》



 「即答すんな」



 窓の外で、箒の音が止まった。

 代わりに、遠くで鐘が鳴る。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 作戦出発まで、あと二日。


 俺は行けない。それは変わらない。

 だから、その間にできることをやる。次に自分が立った時、知らなかったでは済ませない。


 勉強が好きになったわけじゃない。

 賢くなりたいわけでもない。


 ——ただ。


 知らないことが理由で、何かを失うのは嫌だった。


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