第1幕『一日半』
ゆっくり、目を開けた。
最初に見えたのは、白い天井だった。
……どこだ?
そう思うまでに、少し時間がかかった。
頭が重い。
水を含んだ布を、頭の中に詰められているみたいだった。
呼吸をすると、胸が痛む。
そこでようやく思い出す。
王都の医務室。
ベッド。
包帯。
セレス。
……泣いた。
そこまで思い出して、喉の奥が詰まった。
窓の外は、夕方だった。
薄い橙色の光が、医務室の壁を斜めに照らしている。
朝の冷たい青ではない。日が沈む前の、少し濁った色だった。
いつの間にか、眠っていたらしい。
ひどく喉が渇いていた。
舌が上顎に貼りつく。
唇も乾いていて、少し動かしただけで切れそうになる。
ベッドの傍らに、小さな台が置かれていた。
そこに、ガラスの水差しがある。
透明な水じゃなかった。
茶色い。
濁っているわけじゃない。薄く煮出した茶みたいな色だ。
傍には木の杯が伏せてある。
手を伸ばそうとして、右腕が動かないことを思い出した。
吊られている。
固定された右腕が、布の中で鈍く熱を持っていた。
「……くそ」
声が掠れた。
左手を伸ばす。
水差しを持ち上げようとして、思ったより重くて、少しこぼした。
木の台に、茶色い水が垂れる。
何かの薬草と、蜂蜜が混ざったような匂いがした。
——甘い。
でも、後ろに苦い匂いがある。
俺は木の杯にそれを注いだ。
手が震えて、また少しこぼれる。
それでも口元まで持っていき、飲んだ。
ぬるい。
薬草の苦みが舌に残る。
そのあとで、蜂蜜の甘さが遅れてくる。
うまい、とは思わなかった。
でも、喉を通った瞬間、身体がそれを欲しがっていたことだけは分かった。
もう一口飲む。
胸が痛む。
それでも飲む。
半分ほど飲んだところで、ようやく息が出た。
「……寝てたのか」
どのくらいだろう。
さっきは朝だった。
今は夕方だ。
……半日くらいか。
医務室は静かだった。
窓の外から、馬車の車輪の音がかすかに聞こえる。
どこかで兵士が号令を出している。
王都はいつも通り動いている。
俺が寝ている間にも。
ルカが死んだあとでも。
世界は、止まってくれない。
そのことが、妙に腹立たしかった。
いや。
腹立たしいというより、置いていかれる感じがした。
セレスは会議に行っただろうか。遅れると言っていた。
『だから、その分ちゃんと泣いて』
その声を思い出した瞬間、胸の痛みとは別の場所が少し熱くなった。
顔を埋めた感触。
軍服の布。
頭に置かれた手。
思い出すと、急に恥ずかしくなる。
でも、その恥ずかしさの奥に、まだ別のものが残っていた。
セレスは、逃げなかった。
俺が泣いている間、ずっとそこにいた。いてくれた。
「……会議、大丈夫だったのかよ」
独り言のつもりだった。
《会議開始は三十二分遅延。セレス・ヴェルスタンの消耗が勘案され、処罰・懲戒などへの言及はなかった》
声がした。
俺は顔を向けた。
ベッドの反対側、壁に立てかけられた黒い剣。
……セブンだ。
いつからそこにあったのか分からない。
いや、最初からあったのだろう。たぶん、今朝も。
俺が気づいていなかっただけで。
《三十六時間二十二分経過後、ユーザーの起床を確認》
「……は?」
声が変なふうに出た。
「三十六?」
《肯定》
「いや、朝に寝て、今夕方だろ」
《肯定》
「半日じゃねぇの?」
《否定。一日半経過》
言葉が、すぐには入ってこなかった。
一日半……。
俺は木の杯を持ったまま、固まった。
「……そんなに?」
《肯定。途中、医療従事者による確認三回。セレス・ヴェルスタンによる確認三回。ユニット・アリスによる確認五回。ユニット・エナによる確認十一回》
「エナ、多くないか」
《補足:入室を制止された回数を含める場合、二十四回》
「多いな……」
言ってから、少しだけ息が抜けた。
でも、その息もすぐに痛みに変わる。
胸を押さえようとして、右腕が動かない。
仕方なく左手で包帯の上を触る。
「アリスとエナは?」
《現在、隣室に待機。医療従事者より、ユーザー起床時の刺激を避けるよう指示あり》
「いや、刺激って……」
《補足:ユニット・エナの発声量および接触行動が該当》
想像できてしまった。
エナが勢いよく飛び込んできて、俺に抱きつこうとして、医者か看護師に止められるところ。
その隣でアリスが『接触強度過多』とか言っているところまで。
少しだけ笑いそうになった。
けど、笑う直前で胸が痛む。
その痛みに、また現実へ戻された。
「……セレスは」
《緊急会議および関連聴取に出席中》
「一日半、ずっと?」
《断続的。直近の入室は二時間十四分前》
「寝てないんじゃないのか? アイツ」
《睡眠時間、不明。疲労兆候あり》
「だろうな」
アイツは、そういう奴だ。
自分が倒れるまで、倒れるという選択肢を後回しにする。
……俺が言えたことじゃないけど。
医務室の扉の向こうで、足音がした。
軽い足音。
それから、押し殺した声。
「アリスおねーちゃん、リクさん起きた?」
「声量低下を推奨します」
「はいっ。……これくらい?」
「まだ大きいです」
「これくらい……?」
「許容範囲」
そのやり取りが、扉越しに聞こえた。
俺は杯を持ったまま、しばらく扉を見た。
開けろと言えば、入ってくる。
たぶんエナは泣きそうな顔で笑う。
アリスは無表情で状態確認を始める。
それを見たい気もしたし、見たくない気もした。
ルカを抱えていたアリスの腕を思い出す。
『搬送を、継続します』
『保持を、終了しました』
あの声を聞いたら、俺はまた何かを思い出してしまう。
でも、アリスだって思い出しているはずだ。エナだって。
俺だけが逃げていいわけがない。
「セブン」
《待機中》
「俺、今ひどい顔してっか?」
《肯定》
「即答すんな」
《補足:顔色不良。眼瞼腫脹。脱水傾向。睡眠後の髪型乱れ》
「最後いるか?」
《外見状態の報告として必要》
少しだけ、息が抜けた。
痛いけど、さっきよりは耐えられる。
「入っていいって言ってくれ」
《承認、リク・ミナセより入室の許可》
セブンのシステム音声が、少し大きく響く。
扉の向こうで、アリスの声がする。
「入室許可を確認」
「ほんとですかっ?」
「声量」
「あっ、はいっ」
扉が、ゆっくり開いた。
最初に入ってきたのはアリスだった。
肩口の布が、新しいものに替わっている。
巡礼服の白に、そこだけまだ馴染んでいない水色の継ぎ目があった。
薄い金属の補強が、袖の内側で小さく光る。
右手の動きが硬い
それでも、歩き方はいつも通りに整えられていた。
無表情。
金色の目。
入室してすぐ、アリスの視線は俺の顔ではなく、俺の手元の杯に落ちた。
「摂水を確認。量、推定百四十ミリリットル。継続を推奨します」
「起きて最初の会話がそれかよ」
「必要事項です」
その後ろから、エナが顔を出した。
鎧はまだ欠けている。
肩の装甲も一部が外され、応急修理みたいな緑の光が細く走っていた。
それでも、エナは笑おうとしていた。
「リクさん」
声が、小さい。
エナにしては、驚くくらい小さい。
「起きたんですね」
「……おう」
それだけしか返せなかった。
エナはベッドへ駆け寄りかけて、途中でぴたりと止まった。
アリスが見ていたからだ。
「突進禁止です」
「はいっ。分かってますっ」
「抱擁も禁止です」
「……ちょっとだけも?」
「禁止です」
「手を握るのは?」
「左手のみ。圧力制限あり」
「許可出ましたっ」
エナが、そっと近づいてくる。
本当に、そっとだった。いつもの勢いがない。
大きな鎧の身体なのに、壊れ物に近づくみたいな足取りだった。
ベッドの横に膝をついて、俺の左手を両手で包む。
あたたかい手の感触。
「リクさん、起きてよかったです」
「一日半寝てたらしいな」
「はいっ」
エナは頷いた。
頷いてから、少しだけ唇を噛む。
「ずっと、起きないかと思いました」
その声で、胸の奥が痛くなった。
その痛みは、怪我だけじゃない。
「悪い」
「謝らないでくださいっ」
エナはすぐ言った。
いつもの勢いで。
でも、そのあと声が小さくなる。
「……でも、次は、もう少し早く起きてくれると嬉しいです」
「努力する」
「はいっ」
エナは笑った。
無理に。
それが分かってしまった。
アリスは、ベッド脇に立ったまま俺を見ている。
何かを言おうとしているのか。
それとも、何も言わないことを選んでいるのか。
分からない。
俺は、アリスの肩を見る。
補強された場所。
赤い槍が掠めた背中。
ルカを抱え込んだ腕。
「アリス」
「はい」
声はいつも通りだった。
「背中、大丈夫か」
「機能に重大な支障なし。右肩部および左脚部の可動精度低下あり。修復予定」
「そっか」
「はい」
そこで会話が止まる。
聞きたいことは、他にあった。
でも、それを聞くのは違う。
ルカのことを、ここでアリスに聞くのは違う。
アリスは、たぶん全部覚えている。
抱き込んだことも。
保持を終了したことも。
ルカの母親に、ルカをそっと渡したことも。
俺は杯の中を見る。
茶色い薬草水が、夕方の光を受けて少し赤く見えた。
「……二人とも」
声が小さくなる。
「ごめん」
エナの手が、俺の左手を包んだまま止まった。
アリスは瞬きしない。
「俺、また寝てただけだったな」
「訂正」
アリスが言った。
即答だった。
「リクは重傷および極度疲労により睡眠状態へ移行。行動不能は医学的に妥当」
「でも」
「訂正を継続します」
アリスの声は、いつも通り平坦だった。
「睡眠は回復行動です。逃避行動とは明確に異なります」
俺は何も言えなかった。
アリスが、少しだけ間を置く。
「また、リクの起床を確認できたことにより、当ユニット群の待機目的は一部達成されました」
「……それ、どういう意味?」
アリスはまっすぐ俺を見る。すぐには答えなかった。
金色の目が、俺の顔を見て、吊られた右腕を見て、エナの手に包まれた左手を見た。
「……起きてくれて、よかったです」
その言葉は、いつもの報告の形をしていなかった。
でも、アリスは顔色を変えない。
エナが俺の手を握る力を、ほんの少しだけ強くする。
「はいっ。よかったです」
俺は、返事をしようとした。でも、喉がまた詰まった。
代わりに、杯を持ち上げる。
茶色い水を、もう一口飲んだ。
苦くて、甘い。
身体に染みる。
「……これ、まずいな」
やっと出た言葉が、それだった。
エナが目を丸くする。アリスが杯を見る。
「薬効優先の調合です」
「誰が作ったんだ」
「セレス・ヴェルスタンです」
俺は固まった。
「セレスが? 医者とか看護師じゃなくて?」
「はい。医務官の指示に基づき、蜂蜜量を追加」
「はちみつ……」
「はい」
アリスが淡々と続ける。
「リクが苦味を嫌がる可能性を考慮した、と発言」
俺は杯を見た。
茶色くて、苦くて、少し甘い水。
セレスが、これを置いていった。
会議に行く前か。
それとも、様子を見に来た時か。
俺が起きた時に飲めるように、置いていった。
「……そうか」
それだけ言って、俺はまた飲んだ。
さっきより、少し甘く感じた。
夕方の光が、医務室に差し込んでいる。
一日半が過ぎていた。
ルカのいない時間が、もうそれだけ進んでいた。
俺はまだ、何もできていない。
何も整理できていない。
——それでも、起きた。
窓の外では、まだ馬車の車輪が鳴っている。
兵士の号令も、どこかの扉が閉まる音も、俺が眠っていた間と同じように続いている。
俺だけが、止まっていた。
まだ立てない。
まだ歩けない。
それでも、杯を持つ左手に、少しだけ力を入れた。




