第4幕『会議には遅れるわね』
朝の光が、白い壁を薄く照らしていた。
窓の外はまだ青い。
夜が完全に明けきる前の、冷たい色だった。
遠くで鐘が鳴っている。
王都の朝の鐘だ。
その音を聞いて、俺はようやく、自分が王都にいるのだと気付いた。
……医務室だった。
白いシーツ。
硬い木のベッド。
棚に並んだ薬瓶。
薬草と消毒液が混ざった、鼻の奥に残る匂い。
俺は、ベッドに座っていた。
いつから座っていたのか、分からない。
どうやってここまで帰ってきたのかも、覚えていない。
村の十字路。
夜露の匂い。
ルカの母親の声。
村長の『ありがとう』
アリスの『搬送を完了しました』
そこまでは、断片みたいに残っている。
——そのあとは、ない。
気づいたら、朝だった。
胸に包帯が巻かれている。
右腕は固定されて、布で吊られていた。
少し呼吸を深くしただけで、肋骨のあたりが鈍く痛む。
痛い。
痛いはずなのに、その痛みもどこか遠かった。
自分の身体じゃないみたいだった。
——目の前で人が死ぬのは、初めてじゃない。
そう思った。
この世界に来てから、俺はもう見ている。
前線で。
カイザの爆煙が広がって、兵士たちが焼かれていくのを見た。
逃げ遅れた人間が、炎と煙の中に消えていくのを見た。
悲鳴も聞いた。
肉の焦げる匂いも、たぶん嗅いだ。
ひどいと思った。
怖いと思った。
助けたいとも思った。
でも。
あれは、どこか遠かったのかもしれない。
……昔、俺が生まれる少し前に、大きな地震があったらしい。
東京も酷かったと聞いた。
でも、北の方はもっと酷かったらしい。
小さいころ、動画サイトで津波の映像を見たことがある。
黒い水が道路を飲んで、車を流して、家を押し潰していく映像。
逃げている人がいて。
その人たちの姿が、水と瓦礫に紛れて見えなくなる映像。
怖かった。
胸の奥がざわついた。
でも、画面の向こうだった。
自分の手が届かない場所の出来事だった。
前線で見た死も、たぶんその延長だった。
酷い。
怖い。
こんなことは駄目だ。
そう思っていた。
でも、名前を知らなかった。
声を知らなかった。
俺の判断の先に、その人たちはいなかった。
ルカは違った。
ルカは、俺に聞いた。
『死ぬの?』と。
アリスを、おねぇちゃんと呼んだ。
『にじゅうななって近い?』と聞いた。
アリスは、近いです、と答えた。
俺が、先に行かせた。
子どもだから。
怖がっていたから。
早く安全な場所へ出した方がいいと思ったから。
間違っていない。
そう思うこともできる。
それなのに——
「リクくん」
声がした。
すぐ近くから。
俺は、ゆっくり顔を上げた。
ベッドの横に、セレスが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
軍服の襟はきちんと整っている。
眼鏡もいつも通りかけている。
でも、髪の横に細い後れ毛が残っていた。
目の下にも、薄い疲れがある。
セレスは、俺を見ていた。
「私はこれから緊急会議に出るわ」
声は落ち着いていた。
「リクくんは横になって、無理にでも眠りなさい」
眠る。
その言葉が、ひどく遠く聞こえた。
「なら、俺も」
反射的に言った。
セレスの眉が、きゅっと寄る。
「あなた、自分の状態が分かってるの?」
「でも」
「肋骨の損傷。胸部打撲。右腕の筋腱損傷。睡眠不足。極度の精神的負荷」
淡々と並べられる。
言葉だけ聞けば、ただの診断だ。
でも、セレスの声の奥にあるものは、たぶん怒りだった。
「会議に出る以前に、あなたは今、ひとりで廊下を歩く許可も出せない状態よ」
「……寝るなんて、無理だ」
声が、自分でも驚くくらい小さかった。
「眠れるはずがない」
目を閉じたら、聞こえる。
ルカの母親の声が。
起きて。
帰ってきたんでしょ。
叱るから。
起きて。
村長の声も聞こえる。
ありがとうな。
帰してくれて。
「あの時、俺が……」
そこまで言って、止まった。
それ以上言ったら、たぶんセレスはまた言う。
あなたの判断は間違っていなかった。
結果は変わらなかった。
その二つは、同時に存在する。
それは正しい。
正しいから、苦しい。
ここで弱音を吐いたら、セレスはまた慰めてくれる。
叱るかもしれない。
でも最後には、俺を立たせる言葉を探してくれる。
それが分かっていた。
分かっているから、言えなかった。
俺が欲しかったのは、たぶんそれじゃない。
責めてほしかった。
お前のせいだと。
どうして先に行かせたんだと。
判断を間違えたんだと。
誰かにそう言われた方が、まだ息ができる。
……セレスは、何も言わなかった。
医務室の中に、朝の鐘の余韻だけが残る。
俺はシーツの皺を見ていた。
白い布の上に、左手の指が置かれている。
爪の間に、まだ泥が残っていた。
王都の医務室なのに。
俺の手だけ、あの夜の村から帰ってきていないみたいだった。
——ベッドが、ぎしりと小さく鳴った。
セレスが隣に座った音だった。
俺は顔を上げない。
セレスも、すぐには話さなかった。
たぶん、何を言えばいいのか分からなかったんだと思う。
叱る言葉。
慰める言葉。
正しい言葉。
セレスなら、いくつも知っているはずだ。
でも、今の俺には、どれも届かない。
それを、セレス自身が分かっていたのかもしれない。
だから、何も言わなかった。
しばらくして、セレスの手が俺の肩に触れた。
俺は動かなかった。
拒まなかったんじゃない。
拒む力がなかった。
その手が、少しだけ迷う。
それから、セレスは俺の身体をゆっくり引き寄せた。
「……セレス?」
声が出た。
でも、セレスは答えなかった。
俺の頭を、自分の胸元へ抱き寄せる。
強引ではなかった。
でも、逃げられないくらいには確かだった。
柔らかい布の感触。
軍服の下に感じる、かすかな体温。
薬草と消毒液の匂いに混じって、セレスの匂いがした。
変な意味じゃない。
ただ、人がそこにいる匂いだった。
——俺の母さんは、俺が生まれると同時に死んだ。
親父は、ちゃんと俺を育ててくれた。
たぶん、人よりずっと大事にしてくれた。
キャンプに連れていってくれた。
パルクールを始めた時も、危ないと怒りながら、最後には膝の使い方を一緒に調べてくれた。
弁当も作ってくれた。
熱を出した時は、一晩中起きていてくれた。
足りなかったなんて、思ったことはない。
——でも。
女の人に、こんなふうに抱きしめられるのは、初めてかもしれなかった。
胸の奥で、何かがほどけた。
声を上げるのは、なんとか耐えた。
ここで声を出したら、もう戻れない気がした。
子どもみたいに泣いてしまう。
何もできないまま、誰かに縋るしかない自分を認めてしまう。
だから、歯を食いしばった。
でも、涙は止まらなかった。
勝手に溢れてくる。
目を閉じても、ルカの母親の声が聞こえる。
村長の『ありがとう』が聞こえる。
アリスの『保持を終了しました』が聞こえる。
エナの小さな声が聞こえる。
『あたし、ちゃんと、受け止めたかったです』
全部が胸の中でぐちゃぐちゃになって、出口を探していた。
セレスの軍服に、涙の染みが広がる。
それでも、セレスは何も言わなかった。
泣いていいとも言わない。
大丈夫とも言わない。
あなたのせいじゃないとも言わない。
ただ、抱いている。
セレスの手が、俺の後頭部に置かれた。
少しぎこちない手だった。
子どもをあやすのに慣れた手つきじゃない。
恋人を抱く手つきでもない。
ただ、ここにいると伝えるためだけの手だった。
その不器用さが、余計に苦しかった。
俺は左手を動かした。
何かを掴みたかった。
セブンは、ベッドの横に立てかけられている。
右手は固定されている。
だから、左手でセレスの軍服の裾を掴んだ。
弱い力だった。
掴んだというより、触れただけに近い。
それでも、セレスは逃げなかった。
……どのくらい、そうしていたのか分からない。
朝の光が、少しだけ白くなった。
遠くで人の足音が聞こえる。
廊下の向こうで、誰かが低い声で話している。
緊急会議。
セレスは、行かなきゃいけない。
分かっている。
この件は、ただの救助失敗じゃない。
エレノア。
アニエス・ソレル。
消えた村人たち。
サンドボックス・シティ。
全部、王国軍が動くべきことだ。
セレスは、そこに行かなきゃいけない。
なのに、まだここにいる。
——俺が、泣き止めないから。
セレスが、小さく息を吐いた。
呆れたみたいでも、疲れたみたいでもあった。
でも、離れなかった。
「会議には遅れるわね」
ぽつりと、セレスが言った。
俺は返事ができなかった。
喉が震えるだけだった。
セレスの手が、もう一度、俺の後頭部を撫でる。
「だから、その分ちゃんと泣いて」
その言葉で、また涙が出た。
声を上げるのは、まだ耐えた。
でも、もう何を耐えているのかも分からなかった。
俺はセレスの服を掴んだまま、顔を埋めていた。
胸の痛みも。
右腕の痛みも。
朝の鐘も。
廊下の足音も。
全部、遠くなっていく。
ただ、セレスの手だけが近かった。
何も解決していない。
ルカは戻らない。
村長の礼も消えない。
俺が先に行かせた事実も変わらない。
それでも。
その朝は、俺はひとりじゃなかった。
——第8話につづく。




