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境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部7話『欠けた帰路』
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第4幕『会議には遅れるわね』


 朝の光が、白い壁を薄く照らしていた。


 窓の外はまだ青い。

 夜が完全に明けきる前の、冷たい色だった。


 遠くで鐘が鳴っている。

 王都の朝の鐘だ。


 その音を聞いて、俺はようやく、自分が王都にいるのだと気付いた。



 ……医務室だった。


 白いシーツ。

 硬い木のベッド。

 棚に並んだ薬瓶。

 薬草と消毒液が混ざった、鼻の奥に残る匂い。


 俺は、ベッドに座っていた。


 いつから座っていたのか、分からない。

 どうやってここまで帰ってきたのかも、覚えていない。


 村の十字路。

 夜露の匂い。

 ルカの母親の声。

 村長の『ありがとう』

 アリスの『搬送を完了しました』


 そこまでは、断片みたいに残っている。



 ——そのあとは、ない。



 気づいたら、朝だった。


 胸に包帯が巻かれている。

 右腕は固定されて、布で吊られていた。


 少し呼吸を深くしただけで、肋骨のあたりが鈍く痛む。


 

 痛い。


 痛いはずなのに、その痛みもどこか遠かった。

 自分の身体じゃないみたいだった。



 ——目の前で人が死ぬのは、初めてじゃない。



 そう思った。


 この世界に来てから、俺はもう見ている。

 前線で。


 カイザの爆煙が広がって、兵士たちが焼かれていくのを見た。

 逃げ遅れた人間が、炎と煙の中に消えていくのを見た。

 悲鳴も聞いた。

 肉の焦げる匂いも、たぶん嗅いだ。


 ひどいと思った。

 怖いと思った。

 助けたいとも思った。


 でも。


 あれは、どこか遠かったのかもしれない。



 ……昔、俺が生まれる少し前に、大きな地震があったらしい。


 東京も酷かったと聞いた。

 でも、北の方はもっと酷かったらしい。


 小さいころ、動画サイトで津波の映像を見たことがある。

 黒い水が道路を飲んで、車を流して、家を押し潰していく映像。

 逃げている人がいて。

 その人たちの姿が、水と瓦礫に紛れて見えなくなる映像。


 怖かった。


 胸の奥がざわついた。


 でも、画面の向こうだった。


 自分の手が届かない場所の出来事だった。

 前線で見た死も、たぶんその延長だった。


 酷い。

 怖い。

 こんなことは駄目だ。


 そう思っていた。


 でも、名前を知らなかった。

 声を知らなかった。

 俺の判断の先に、その人たちはいなかった。


 ルカは違った。

 ルカは、俺に聞いた。


 『死ぬの?』と。


 アリスを、おねぇちゃんと呼んだ。


 『にじゅうななって近い?』と聞いた。


 アリスは、近いです、と答えた。


 俺が、先に行かせた。


 子どもだから。

 怖がっていたから。

 早く安全な場所へ出した方がいいと思ったから。


 間違っていない。


 そう思うこともできる。


 それなのに——



 「リクくん」



 声がした。

 すぐ近くから。


 俺は、ゆっくり顔を上げた。



 ベッドの横に、セレスが立っていた。

 いつからそこにいたのか分からない。


 軍服の襟はきちんと整っている。

 眼鏡もいつも通りかけている。

 でも、髪の横に細い後れ毛が残っていた。


 目の下にも、薄い疲れがある。

 セレスは、俺を見ていた。



 「私はこれから緊急会議に出るわ」



 声は落ち着いていた。



 「リクくんは横になって、無理にでも眠りなさい」



 眠る。


 その言葉が、ひどく遠く聞こえた。



 「なら、俺も」



 反射的に言った。

 セレスの眉が、きゅっと寄る。



 「あなた、自分の状態が分かってるの?」



 「でも」



 「肋骨の損傷。胸部打撲。右腕の筋腱損傷。睡眠不足。極度の精神的負荷」

 


 淡々と並べられる。

 言葉だけ聞けば、ただの診断だ。


 でも、セレスの声の奥にあるものは、たぶん怒りだった。



 「会議に出る以前に、あなたは今、ひとりで廊下を歩く許可も出せない状態よ」



 「……寝るなんて、無理だ」



 声が、自分でも驚くくらい小さかった。



 「眠れるはずがない」



 目を閉じたら、聞こえる。


 ルカの母親の声が。


 起きて。

 帰ってきたんでしょ。

 叱るから。

 起きて。


 村長の声も聞こえる。


 ありがとうな。

 帰してくれて。



 「あの時、俺が……」



 そこまで言って、止まった。

 それ以上言ったら、たぶんセレスはまた言う。


 あなたの判断は間違っていなかった。

 結果は変わらなかった。

 その二つは、同時に存在する。


 それは正しい。


 正しいから、苦しい。


 ここで弱音を吐いたら、セレスはまた慰めてくれる。


 叱るかもしれない。

 でも最後には、俺を立たせる言葉を探してくれる。


 それが分かっていた。

 分かっているから、言えなかった。


 俺が欲しかったのは、たぶんそれじゃない。


 責めてほしかった。

 お前のせいだと。

 どうして先に行かせたんだと。

 判断を間違えたんだと。


 誰かにそう言われた方が、まだ息ができる。



 ……セレスは、何も言わなかった。

 医務室の中に、朝の鐘の余韻だけが残る。


 俺はシーツの皺を見ていた。

 白い布の上に、左手の指が置かれている。

 爪の間に、まだ泥が残っていた。


 王都の医務室なのに。


 俺の手だけ、あの夜の村から帰ってきていないみたいだった。



 ——ベッドが、ぎしりと小さく鳴った。



 セレスが隣に座った音だった。


 俺は顔を上げない。

 セレスも、すぐには話さなかった。


 たぶん、何を言えばいいのか分からなかったんだと思う。


 叱る言葉。

 慰める言葉。

 正しい言葉。


 セレスなら、いくつも知っているはずだ。


 でも、今の俺には、どれも届かない。

 それを、セレス自身が分かっていたのかもしれない。


 だから、何も言わなかった。



 しばらくして、セレスの手が俺の肩に触れた。


 俺は動かなかった。

 拒まなかったんじゃない。

 拒む力がなかった。


 その手が、少しだけ迷う。

 それから、セレスは俺の身体をゆっくり引き寄せた。



 「……セレス?」



 声が出た。

 でも、セレスは答えなかった。


 俺の頭を、自分の胸元へ抱き寄せる。


 強引ではなかった。

 でも、逃げられないくらいには確かだった。


 柔らかい布の感触。

 軍服の下に感じる、かすかな体温。

 薬草と消毒液の匂いに混じって、セレスの匂いがした。


 変な意味じゃない。


 ただ、人がそこにいる匂いだった。



 ——俺の母さんは、俺が生まれると同時に死んだ。



 親父は、ちゃんと俺を育ててくれた。

 たぶん、人よりずっと大事にしてくれた。


 キャンプに連れていってくれた。

 パルクールを始めた時も、危ないと怒りながら、最後には膝の使い方を一緒に調べてくれた。

 弁当も作ってくれた。

 熱を出した時は、一晩中起きていてくれた。


 足りなかったなんて、思ったことはない。



 ——でも。



 女の人に、こんなふうに抱きしめられるのは、初めてかもしれなかった。



 胸の奥で、何かがほどけた。


 声を上げるのは、なんとか耐えた。

 ここで声を出したら、もう戻れない気がした。


 子どもみたいに泣いてしまう。

 何もできないまま、誰かに縋るしかない自分を認めてしまう。


 だから、歯を食いしばった。


 でも、涙は止まらなかった。

 勝手に溢れてくる。


 目を閉じても、ルカの母親の声が聞こえる。

 村長の『ありがとう』が聞こえる。

 アリスの『保持を終了しました』が聞こえる。

 エナの小さな声が聞こえる。


 『あたし、ちゃんと、受け止めたかったです』


 全部が胸の中でぐちゃぐちゃになって、出口を探していた。


 セレスの軍服に、涙の染みが広がる。


 それでも、セレスは何も言わなかった。


 泣いていいとも言わない。

 大丈夫とも言わない。

 あなたのせいじゃないとも言わない。


 ただ、抱いている。


 セレスの手が、俺の後頭部に置かれた。

 少しぎこちない手だった。


 子どもをあやすのに慣れた手つきじゃない。

 恋人を抱く手つきでもない。


 ただ、ここにいると伝えるためだけの手だった。


 その不器用さが、余計に苦しかった。


 俺は左手を動かした。

 何かを掴みたかった。


 セブンは、ベッドの横に立てかけられている。

 右手は固定されている。

 だから、左手でセレスの軍服の裾を掴んだ。


 弱い力だった。


 掴んだというより、触れただけに近い。

 それでも、セレスは逃げなかった。



 ……どのくらい、そうしていたのか分からない。


 朝の光が、少しだけ白くなった。

 遠くで人の足音が聞こえる。

 廊下の向こうで、誰かが低い声で話している。


 緊急会議。


 セレスは、行かなきゃいけない。


 分かっている。


 この件は、ただの救助失敗じゃない。

 エレノア。

 アニエス・ソレル。

 消えた村人たち。

 サンドボックス・シティ。


 全部、王国軍が動くべきことだ。


 セレスは、そこに行かなきゃいけない。

 なのに、まだここにいる。



 ——俺が、泣き止めないから。



 セレスが、小さく息を吐いた。

 呆れたみたいでも、疲れたみたいでもあった。


 でも、離れなかった。



 「会議には遅れるわね」



 ぽつりと、セレスが言った。


 俺は返事ができなかった。

 喉が震えるだけだった。


 セレスの手が、もう一度、俺の後頭部を撫でる。



 「だから、その分ちゃんと泣いて」



 その言葉で、また涙が出た。

 声を上げるのは、まだ耐えた。


 でも、もう何を耐えているのかも分からなかった。


 俺はセレスの服を掴んだまま、顔を埋めていた。


 胸の痛みも。

 右腕の痛みも。

 朝の鐘も。

 廊下の足音も。


 全部、遠くなっていく。


 ただ、セレスの手だけが近かった。


 何も解決していない。


 ルカは戻らない。

 村長の礼も消えない。

 俺が先に行かせた事実も変わらない。


 それでも。


 その朝は、俺はひとりじゃなかった。


——第8話につづく。

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