第3幕『帰ってきた子』
土の匂いがした。
湿った草。
夜露。
どこかの家から漏れた、灰の残り香。
それだけで、胸の奥が詰まった。
本物の夜の匂いだった。
サンドボックス・シティの空っぽな空気じゃない。
誰かが住んでいて、誰かが火を焚いて、誰かが明日の朝のために戸を閉めた匂い。
帰ってきた。
そう思った瞬間、膝が抜けそうになった。
「リクくん」
セレスが肩を支え直す。
「まだ倒れないで。もう少しだけ……」
「……分かってる」
声が、掠れた。
村の十字路に、俺たちは戻っていた。
夜の村は静かだった。
でも、完全な静けさじゃない。遠くで犬が吠えた。家の戸が開く音がした。誰かが慌てて走る足音が、泥の道を叩いた。
「戻ったぞ!」
ガルドの声が、暗い村道に響いた。
それだけで、家々から明かりが揺れた。
戸が開く。
人影が出てくる。
怯えた顔。信じられない顔。名前を呼ぶ声。
ミラが誰かに抱きしめられた。
トマスはエナの腕から下ろされるなり、足元をふらつかせながらも笑おうとした。
ユリウスは、十字路の端で立ち尽くしていた。
アリスは、その少し先にいた。
ルカを抱いたまま。
動かない。
いや、動けないみたいに見えた。
「ルカ!」
女の人の声がした。
家の一つから飛び出してきた人が、転びそうになりながら走ってくる。
髪はほどけていた。
肩にかけた粗い布はずれて、足元は片方だけ靴を履き損ねている。
その人は、それに気づいていなかった。
ただ、アリスの腕の中だけを見ていた。
「ルカ! ルカ、帰ってきたのね!」
母親だ。
声だけで分かった。
母親は笑おうとしていた。
泣きそうな顔で、笑おうとしていた。
「ルカ、もう、どこ行ってたの。お母さん、どれだけ——」
その声が、途中で止まった。
アリスが、ルカを渡さなかったからだ。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
母親が伸ばした手と、アリスの腕の間に、夜の空気が挟まった。
それだけだった。
それだけで、母親の顔から血の気が引いた。
「……ねえ」
声が、細くなった。
「どうして、そんなふうに抱いてるの」
アリスは答えなかった。
いつもの訂正もない。
報告もない。
状態説明もない。
ただ、ルカを抱えた腕だけが、少しだけ強くなった。
「アリス」
俺は呼んだ。
声が自分のものじゃないみたいだった。
「ルカは」
アリスの金色の目が、こちらを向いた。
表情は変わらない。
いつもと同じ無表情。
でも、口が開かない。
「……搬送を」
そこで、一度止まった。
アリスが言葉に詰まるところを、俺は初めて見た気がした。
「搬送を、完了しました」
母親の膝が、崩れた。
地面に手をつく。
泥が指につく。
それでも、母親はアリスの腕の中へ手を伸ばした。
「やだ」
最初に出たのは、それだけだった。
「やだ、やだ、ルカ。ねえ、起きて。起きてよ。帰ってきたんでしょ」
アリスは、ゆっくりと膝をついた。
ルカを渡すために。
でも、動きがぎこちなかった。
抱えているものを壊さないように。
揺らさないように。
最後まで、ルカが怖がらないように。
そんなふうに見えた。
母親がルカを抱きしめた。
小さな身体が、母親の腕の中へ移る。
軽かった。
見ているだけで分かるくらい、軽かった。
「ルカ」
母親は、頬を寄せた。
「ねえ、冷たいよ。外、寒かった? 寒かったね。ごめんね。迎えに行けなくて、ごめんね」
誰も、何も言えなかった。
「帰ったら、叱ろうと思ってたの」
母親の声が、ぐしゃぐしゃに崩れた。
「勝手にどこか行ったら駄目でしょって。お母さん、ちゃんと叱ろうと思ってたの。毎晩、麦粥温めてたのに。寝床も、敷いてたのに」
ルカは答えない。
母親の手が、ルカの髪を撫でる。
何度も。
何度も。
「ねえ、起きてよ。叱るから。ちゃんと叱るから。叱ったら、抱っこするから。だから、起きて」
夜の村に、その声だけが残った。
誰かが泣いた。
ミラだったかもしれない。
ユリウスだったかもしれない。
俺には、分からなかった。
ユリウスは、その場に立ったまま、ルカを見ていた。
顔が歪んでいる。
でも、声が出ない。
まだ、自分が泣いていいのか分からないみたいだった。
アリスは膝をついたまま、母親とルカを見ていた。
その手が、宙に残っている。
さっきまでルカを抱いていた形のまま。
「アリスちゃん……」
セレスが静かに呼んだ。
アリスの指が、ほんの少しだけ動く。
「……搬送任務を、終了します」
その声は、いつもと同じだった。
同じだったのに。
なぜか、ひどく遠く聞こえた。
「俺が」
声が漏れた。
誰に向けたのか、自分でも分からない。
「俺が、先に行かせた」
セレスの手は、俺の肩に置かれたままだった。
でも、止まらなかった。
「子どもだから。怖がってたから。早く外に出した方がいいと思った」
言葉が勝手に出てくる。
胸が痛い。
喉が痛い。
でも、それより中の方が痛い。
でも。
「でも、あいつはそれを見てた」
エレノアの声が、まだ耳の奥に残っている。
『先に逃がすのね。小さいものから』
「俺が……守ろうとする順番を、あいつに教えた」
誰かが、息を呑んだ。
俺は謝ろうとした。
でも、口が動かなかった。
『すみません』
その一言を言えばいいはずだった。
でも、それを言った瞬間、何かが軽くなってしまう気がした。
謝ったところで、ルカは起きない。
黙ってたって、俺が許されるわけでもない。
どっちにも行けなくて、喉だけが焼けるみたいに痛かった。
「リクくん」
セレスの声がした。
「今は——」
「ごめん」
やっと、それだけが出た。
母親に向けていたのか。
ユリウスに向けていたのか。
ルカに向けていたのか。
分からない。
母親は、聞いていない。
聞こえていないのかもしれない。
ルカを抱きしめたまま、同じ言葉を繰り返していた。
起きて。
帰ってきたんでしょ。
叱るから。
ねえ、起きて。
その声が、俺の中を削っていく。
「リクさん……」
エナの声が、かすかに震えていた。
いつもの明るさが、まだ残っている。
でも、その明るさが今はひどく小さい。
「あたし……ちゃんと、受け止めたかったです」
誰も責めていない。
アリスも。
エナも。
セレスも。
村人たちも。
誰も、俺を責めない。
それが、一番きつかった。
責めてほしかった。
お前のせいだと。
どうして先に行かせたんだと。
なんで判断を間違えたんだと。
そう言われた方が、まだ立っていられた。
「……リクくん」
別の声がした。
低く、掠れた、年老いた声。
村長だった。
村長は、杖をついて立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
たぶん、最初から見ていたんだと思う。
ルカの母親を見ている。
ルカを見ている。
杖を持つ手が震えていた。
膝も震えていた。
それでも、村長は一歩、俺の方へ来た。
「……ありがとうな」
その言葉が、最初は分からなかった。
俺に向けられたものだと、理解するまでに少しかかった。
「やめて、ください」
声が勝手に出た。
「俺は、ルカを——」
「連れて帰ってくれた」
村長の声は、かすれていた。
「村まで、帰してくれた」
「違う」
俺は首を振った。
胸が痛い。
でも、止まらない。
「違います。俺は、生きて帰せなかった」
「うん」
村長は頷いた。
その頷きが、やけに重かった。
「そうだな」
否定しなかった。
慰めるための嘘はつかなかった。
それなのに、村長はもう一度、俺へ頭を下げた。
「それでも、帰してくれた」
「……っ」
声が出なかった。
村長は顔を上げない。
「他の者も、帰してくれた。ミラも、ガルドも、トマスも、ユリウスも。みんな、帰ってきた」
杖の先が、泥に沈んでいる。
「それを、なかったことにはできん」
「でも」
「分かっとる」
村長は、何度も頷いた。
自分に言い聞かせるみたいに。
「責めたら、楽なんだろうな」
その声が、少しだけ震えた。
「お前さんのせいだって言えたら、たぶん、ワシは今より楽なんだろう」
母親の泣き声が、後ろで続いている。
村長は、それを聞きながら立っていた。
——孫の母親の泣き声を。
自分の孫の名前を呼ぶ声を。
聞きながら。
「でも、そういう話じゃ、ないんだろう」
俺は何も言えなかった。
村長は、ようやく顔を上げた。
目が赤かった。
でも、泣いていない。
泣けない顔だった。
「ありがとうな」
もう一度、言った。
「孫を……帰してくれて」
その瞬間、何かが折れた。
責められるより、ずっと痛かった。
殴られるより、ずっと苦しかった。
『ありがとう』
その言葉が、胸の中に入ってこない。
入ってこないのに、逃げ場だけを全部塞いでいく。
「……やめてくれ」
声が、勝手に落ちた。
「礼なんか、言わないでくれ」
セレスの手が、俺の肩を支える。
でも、足に力が入らない。
「俺は……俺は、助けられなかった」
視界が滲む。
夜の村の明かりが歪んで見える。
「ルカ、近いって……アリスが言って……あと少しだったんだ」
言葉がまとまらない。
「あと少しだったのに」
そこで、息が詰まった。
胸の怪我のせいじゃない。
いや、怪我のせいもある。
でも、それだけじゃない。
「俺が……先に行けって言った」
あの時、アリスとエナを地下道の出口で待たせてた。
アニエスが出口側を潰すのか、地下道の中を撃つのか、村へ抜けた先まで追ってくるのか、分からなかった。
だから、戦える奴が揃うまで、全員を一気に動かせないと思った。
——でも。
結局、エレノアは村までは追って来なかった。
なら、非戦闘員だけでも、先に歪みへ飛び込ませるべきだった。
エナが出口を押さえていた。
アリスが道を作っていた。
セレスが幻影で照準を散らしていた。
あの一瞬で、ミラも、ガルドも、トマスも、ユリウスも、ルカも。
少なくとも村へ押し込むことはできたかもしれない。
俺は、集合してから抜ける方が安全だと思った。
でも……たぶん違った。
それだけじゃない。
ただ、俺が全部を見える場所に置いておきたかったんだ。
「俺が判断した」
「リクくん」
「俺が——」
「リクくん」
セレスの声が、近くなった。
気づいたら、俺は膝をついていた。
泥がズボンに染みる。
セブンの切っ先が、地面に沈んでいる。
右手はまだ柄を握っていた。
離せない。
離したら、自分まで崩れそうだった。
セレスが俺の前に膝をついた。
眼鏡の奥の目が、まっすぐ俺を見る。
「責任を感じるな、なんて言わない」
声は低かった。
怒っていない。
慰めようとして、甘くしているわけでもない。
ただ、逃げられない場所で、逃げない声だった。
「あなたは、たぶんそういう人じゃない」
「だったら」
「でも」
セレスが、俺の言葉を切った。
「全部を自分の罪にしたら、ルカちゃんが最後に帰ってきた意味まで、あなたの中で潰れる」
息が止まった。
「意味なんかっ……!」
「ある」
セレスは即答した。
「……あるわ」
彼女の指が、俺の手に触れた。
セブンを握ったまま固まっている指を、無理に開こうとはしない。
ただ、その上から包む。
「ルカちゃんは帰ってきた。お母さんの腕に戻った。ユリウスくんも戻った。村の人たちも戻った」
「でも、ルカは生きてない」
「ええ」
セレスの声は揺れなかった。
「生きて帰せなかった」
その事実を、セレスは否定しなかった。
否定してくれなかった。
でも、逃がしもしなかった。
「あなたの判断は、間違っていなかった」
「でも、ルカは」
「結果は、変わらなかった」
喉が詰まる。
「その二つは、同時に存在するの」
そんなこと。
そんなこと、分かりたくなかった。
間違っていたなら、責められる。
間違っていなかったなら、救われる。
どちらかにしてほしかった。
なのに、現実はその間にある。
間違っていない判断で、救えない命がある。
それを、どう受け止めればいいのか分からない。
「俺は」
声が震えた。
「次、どうすればいい?」
セレスの目が、少しだけ柔らかくなった。
「その意味を、間違えないで」
「それだけ?」
「今は、それだけ」
彼女はそう言って、俺の手を強く握った。
「背負うなとは言わない。でも、背負い方を間違えないで」
後ろで、ルカの母親が泣いている。
村長は、そのそばへ行った。
杖を置いて、膝をつく。
震える手で、母親の背に触れる。
母親は、それでも泣き続けた。
「ルカ、起きて」
「ねえ、起きて」
「帰ってきたんでしょ?」
夜の村に、その声が溶けていく。
俺はセレスの手を握り返せなかった。
力が入らなかった。
ただ、セブンを握る右手だけが、まだ離れない。
《補足:ユーザーの生体反応、著しく低下》
セブンの声が、耳の奥で聞こえた。
いつも通りだった。
いつも通りすぎて、少しだけ救われた。
「うるせぇよ……」
声にならない声で返した。
セブンは何も言わなかった。
アリスも黙っている。
エナも、いつもの元気な返事をしない。
夜の村の真ん中で。
帰ってきたはずの場所で。
俺たちは、誰も勝っていなかった。




