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境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部7話『欠けた帰路』
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第3幕『帰ってきた子』


 土の匂いがした。


 湿った草。

 夜露。

 どこかの家から漏れた、灰の残り香。


 それだけで、胸の奥が詰まった。

 本物の夜の匂いだった。


 サンドボックス・シティの空っぽな空気じゃない。

 誰かが住んでいて、誰かが火を焚いて、誰かが明日の朝のために戸を閉めた匂い。


 帰ってきた。


 そう思った瞬間、膝が抜けそうになった。



 「リクくん」



 セレスが肩を支え直す。



 「まだ倒れないで。もう少しだけ……」



 「……分かってる」



 声が、掠れた。


 村の十字路に、俺たちは戻っていた。


 夜の村は静かだった。

 でも、完全な静けさじゃない。遠くで犬が吠えた。家の戸が開く音がした。誰かが慌てて走る足音が、泥の道を叩いた。



 「戻ったぞ!」



 ガルドの声が、暗い村道に響いた。

 それだけで、家々から明かりが揺れた。


 戸が開く。

 人影が出てくる。

 怯えた顔。信じられない顔。名前を呼ぶ声。


 ミラが誰かに抱きしめられた。

 トマスはエナの腕から下ろされるなり、足元をふらつかせながらも笑おうとした。

 ユリウスは、十字路の端で立ち尽くしていた。


 アリスは、その少し先にいた。


 ルカを抱いたまま。

 動かない。


 いや、動けないみたいに見えた。



 「ルカ!」



 女の人の声がした。


 家の一つから飛び出してきた人が、転びそうになりながら走ってくる。


 髪はほどけていた。

 肩にかけた粗い布はずれて、足元は片方だけ靴を履き損ねている。


 その人は、それに気づいていなかった。

 ただ、アリスの腕の中だけを見ていた。



 「ルカ! ルカ、帰ってきたのね!」



 母親だ。


 声だけで分かった。


 母親は笑おうとしていた。

 泣きそうな顔で、笑おうとしていた。



 「ルカ、もう、どこ行ってたの。お母さん、どれだけ——」



 その声が、途中で止まった。

 アリスが、ルカを渡さなかったからだ。


 ほんの一瞬。

 本当に、ほんの一瞬だけ。


 母親が伸ばした手と、アリスの腕の間に、夜の空気が挟まった。


 それだけだった。

 それだけで、母親の顔から血の気が引いた。



 「……ねえ」



 声が、細くなった。



 「どうして、そんなふうに抱いてるの」



 アリスは答えなかった。


 いつもの訂正もない。

 報告もない。

 状態説明もない。


 ただ、ルカを抱えた腕だけが、少しだけ強くなった。



 「アリス」



 俺は呼んだ。

 声が自分のものじゃないみたいだった。



 「ルカは」



 アリスの金色の目が、こちらを向いた。


 表情は変わらない。

 いつもと同じ無表情。


 でも、口が開かない。



 「……搬送を」



 そこで、一度止まった。

 アリスが言葉に詰まるところを、俺は初めて見た気がした。



 「搬送を、完了しました」



 母親の膝が、崩れた。


 地面に手をつく。

 泥が指につく。

 それでも、母親はアリスの腕の中へ手を伸ばした。



 「やだ」



 最初に出たのは、それだけだった。



 「やだ、やだ、ルカ。ねえ、起きて。起きてよ。帰ってきたんでしょ」



 アリスは、ゆっくりと膝をついた。

 ルカを渡すために。

 でも、動きがぎこちなかった。


 抱えているものを壊さないように。

 揺らさないように。

 最後まで、ルカが怖がらないように。


 そんなふうに見えた。



 母親がルカを抱きしめた。


 小さな身体が、母親の腕の中へ移る。


 軽かった。


 見ているだけで分かるくらい、軽かった。



 「ルカ」



 母親は、頬を寄せた。



 「ねえ、冷たいよ。外、寒かった? 寒かったね。ごめんね。迎えに行けなくて、ごめんね」



 誰も、何も言えなかった。



 「帰ったら、叱ろうと思ってたの」



 母親の声が、ぐしゃぐしゃに崩れた。



 「勝手にどこか行ったら駄目でしょって。お母さん、ちゃんと叱ろうと思ってたの。毎晩、麦粥温めてたのに。寝床も、敷いてたのに」



 ルカは答えない。


 母親の手が、ルカの髪を撫でる。

 何度も。

 何度も。



 「ねえ、起きてよ。叱るから。ちゃんと叱るから。叱ったら、抱っこするから。だから、起きて」



 夜の村に、その声だけが残った。


 誰かが泣いた。


 ミラだったかもしれない。

 ユリウスだったかもしれない。

 俺には、分からなかった。


 ユリウスは、その場に立ったまま、ルカを見ていた。


 顔が歪んでいる。

 でも、声が出ない。


 まだ、自分が泣いていいのか分からないみたいだった。


 アリスは膝をついたまま、母親とルカを見ていた。

 その手が、宙に残っている。


 さっきまでルカを抱いていた形のまま。



 「アリスちゃん……」



 セレスが静かに呼んだ。

 アリスの指が、ほんの少しだけ動く。



 「……搬送任務を、終了します」



 その声は、いつもと同じだった。


 同じだったのに。

 なぜか、ひどく遠く聞こえた。



 「俺が」



 声が漏れた。


 誰に向けたのか、自分でも分からない。



 「俺が、先に行かせた」



 セレスの手は、俺の肩に置かれたままだった。


 でも、止まらなかった。



 「子どもだから。怖がってたから。早く外に出した方がいいと思った」



 言葉が勝手に出てくる。


 胸が痛い。

 喉が痛い。

 でも、それより中の方が痛い。


 でも。



 「でも、あいつはそれを見てた」



 エレノアの声が、まだ耳の奥に残っている。


 『先に逃がすのね。小さいものから』



 「俺が……守ろうとする順番を、あいつに教えた」



 誰かが、息を呑んだ。


 俺は謝ろうとした。


 でも、口が動かなかった。


 『すみません』


 その一言を言えばいいはずだった。


 でも、それを言った瞬間、何かが軽くなってしまう気がした。


 謝ったところで、ルカは起きない。

 黙ってたって、俺が許されるわけでもない。


 どっちにも行けなくて、喉だけが焼けるみたいに痛かった。



 「リクくん」



 セレスの声がした。



 「今は——」



 「ごめん」



 やっと、それだけが出た。


 母親に向けていたのか。

 ユリウスに向けていたのか。

 ルカに向けていたのか。


 分からない。


 母親は、聞いていない。


 聞こえていないのかもしれない。


 ルカを抱きしめたまま、同じ言葉を繰り返していた。


 起きて。

 帰ってきたんでしょ。

 叱るから。

 ねえ、起きて。


 その声が、俺の中を削っていく。



 「リクさん……」



 エナの声が、かすかに震えていた。


 いつもの明るさが、まだ残っている。

 でも、その明るさが今はひどく小さい。



 「あたし……ちゃんと、受け止めたかったです」



 誰も責めていない。


 アリスも。

 エナも。

 セレスも。

 村人たちも。


 誰も、俺を責めない。

 それが、一番きつかった。


 責めてほしかった。


 お前のせいだと。

 どうして先に行かせたんだと。

 なんで判断を間違えたんだと。


 そう言われた方が、まだ立っていられた。



 「……リクくん」



 別の声がした。


 低く、掠れた、年老いた声。

 村長だった。


 村長は、杖をついて立っていた。


 いつからそこにいたのか分からない。

 たぶん、最初から見ていたんだと思う。


 ルカの母親を見ている。

 ルカを見ている。


 杖を持つ手が震えていた。

 膝も震えていた。


 それでも、村長は一歩、俺の方へ来た。



 「……ありがとうな」



 その言葉が、最初は分からなかった。


 俺に向けられたものだと、理解するまでに少しかかった。



 「やめて、ください」



 声が勝手に出た。



 「俺は、ルカを——」



 「連れて帰ってくれた」



 村長の声は、かすれていた。



 「村まで、帰してくれた」



 「違う」



 俺は首を振った。


 胸が痛い。

 でも、止まらない。



 「違います。俺は、生きて帰せなかった」



 「うん」



 村長は頷いた。

 その頷きが、やけに重かった。



 「そうだな」



 否定しなかった。

 慰めるための嘘はつかなかった。

 それなのに、村長はもう一度、俺へ頭を下げた。



 「それでも、帰してくれた」



 「……っ」



 声が出なかった。


 村長は顔を上げない。



 「他の者も、帰してくれた。ミラも、ガルドも、トマスも、ユリウスも。みんな、帰ってきた」



 杖の先が、泥に沈んでいる。



 「それを、なかったことにはできん」



 「でも」



 「分かっとる」



 村長は、何度も頷いた。

 自分に言い聞かせるみたいに。



 「責めたら、楽なんだろうな」



 その声が、少しだけ震えた。



 「お前さんのせいだって言えたら、たぶん、ワシは今より楽なんだろう」



 母親の泣き声が、後ろで続いている。

 村長は、それを聞きながら立っていた。



 ——孫の母親の泣き声を。



 自分の孫の名前を呼ぶ声を。


 聞きながら。



 「でも、そういう話じゃ、ないんだろう」



 俺は何も言えなかった。

 村長は、ようやく顔を上げた。


 目が赤かった。

 でも、泣いていない。


 泣けない顔だった。



 「ありがとうな」



 もう一度、言った。



 「孫を……帰してくれて」



 その瞬間、何かが折れた。


 責められるより、ずっと痛かった。

 殴られるより、ずっと苦しかった。


 『ありがとう』


 その言葉が、胸の中に入ってこない。

 入ってこないのに、逃げ場だけを全部塞いでいく。



 「……やめてくれ」



 声が、勝手に落ちた。



 「礼なんか、言わないでくれ」



 セレスの手が、俺の肩を支える。

 でも、足に力が入らない。



 「俺は……俺は、助けられなかった」



 視界が滲む。


 夜の村の明かりが歪んで見える。



 「ルカ、近いって……アリスが言って……あと少しだったんだ」



 言葉がまとまらない。



 「あと少しだったのに」



 そこで、息が詰まった。


 胸の怪我のせいじゃない。


 いや、怪我のせいもある。


 でも、それだけじゃない。



 「俺が……先に行けって言った」



 あの時、アリスとエナを地下道の出口で待たせてた。


 アニエスが出口側を潰すのか、地下道の中を撃つのか、村へ抜けた先まで追ってくるのか、分からなかった。

 だから、戦える奴が揃うまで、全員を一気に動かせないと思った。



 ——でも。



 結局、エレノアは村までは追って来なかった。

 なら、非戦闘員だけでも、先に歪みへ飛び込ませるべきだった。


 エナが出口を押さえていた。

 アリスが道を作っていた。

 セレスが幻影で照準を散らしていた。


 あの一瞬で、ミラも、ガルドも、トマスも、ユリウスも、ルカも。

 少なくとも村へ押し込むことはできたかもしれない。


 俺は、集合してから抜ける方が安全だと思った。


 でも……たぶん違った。


 それだけじゃない。

 ただ、俺が全部を見える場所に置いておきたかったんだ。



 「俺が判断した」



 「リクくん」



 「俺が——」



 「リクくん」



 セレスの声が、近くなった。


 気づいたら、俺は膝をついていた。


 泥がズボンに染みる。

 セブンの切っ先が、地面に沈んでいる。

 右手はまだ柄を握っていた。


 離せない。

 離したら、自分まで崩れそうだった。


 セレスが俺の前に膝をついた。

 眼鏡の奥の目が、まっすぐ俺を見る。



 「責任を感じるな、なんて言わない」



 声は低かった。


 怒っていない。

 慰めようとして、甘くしているわけでもない。


 ただ、逃げられない場所で、逃げない声だった。



 「あなたは、たぶんそういう人じゃない」



 「だったら」



 「でも」



 セレスが、俺の言葉を切った。



 「全部を自分の罪にしたら、ルカちゃんが最後に帰ってきた意味まで、あなたの中で潰れる」



 息が止まった。



 「意味なんかっ……!」



 「ある」



 セレスは即答した。



 「……あるわ」



 彼女の指が、俺の手に触れた。


 セブンを握ったまま固まっている指を、無理に開こうとはしない。

 ただ、その上から包む。



 「ルカちゃんは帰ってきた。お母さんの腕に戻った。ユリウスくんも戻った。村の人たちも戻った」



 「でも、ルカは生きてない」



 「ええ」



 セレスの声は揺れなかった。



 「生きて帰せなかった」



 その事実を、セレスは否定しなかった。


 否定してくれなかった。


 でも、逃がしもしなかった。



 「あなたの判断は、間違っていなかった」



 「でも、ルカは」



 「結果は、変わらなかった」



 喉が詰まる。



 「その二つは、同時に存在するの」



 そんなこと。


 そんなこと、分かりたくなかった。


 間違っていたなら、責められる。

 間違っていなかったなら、救われる。


 どちらかにしてほしかった。


 なのに、現実はその間にある。

 間違っていない判断で、救えない命がある。


 それを、どう受け止めればいいのか分からない。



 「俺は」



 声が震えた。



 「次、どうすればいい?」



 セレスの目が、少しだけ柔らかくなった。



 「その意味を、間違えないで」



 「それだけ?」



 「今は、それだけ」



 彼女はそう言って、俺の手を強く握った。



 「背負うなとは言わない。でも、背負い方を間違えないで」



 後ろで、ルカの母親が泣いている。


 村長は、そのそばへ行った。


 杖を置いて、膝をつく。

 震える手で、母親の背に触れる。


 母親は、それでも泣き続けた。



 「ルカ、起きて」



 「ねえ、起きて」



 「帰ってきたんでしょ?」



 夜の村に、その声が溶けていく。


 俺はセレスの手を握り返せなかった。

 力が入らなかった。


 ただ、セブンを握る右手だけが、まだ離れない。



 《補足:ユーザーの生体反応、著しく低下》



 セブンの声が、耳の奥で聞こえた。


 いつも通りだった。


 いつも通りすぎて、少しだけ救われた。



 「うるせぇよ……」



 声にならない声で返した。


 セブンは何も言わなかった。


 アリスも黙っている。

 エナも、いつもの元気な返事をしない。


 夜の村の真ん中で。


 帰ってきたはずの場所で。


 俺たちは、誰も勝っていなかった。


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