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境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部7話『欠けた帰路』
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第2幕『近いです』


 地下道は、思ったより狭かった。


 天井は低い。

 壁は白いタイル張りで、ところどころが剥がれている。濡れているわけでもないのに、足音だけがやけに湿った感じで返ってきた。


 出口は見えている。


 たぶん、百メートルもない。


 でも、その百メートルがあまりにも遠い。


 セレスに肩を支えられながら、一歩ずつ進む。

 胸が痛い。息を吸うたび、肋骨の奥で熱いものがこすれる。

 右手のセブンを杖みたいに突くたび、腕の奥まで嫌な痺れが走った。



 「リクくん、歩幅を広げて」



 「広げて、これなんだよ……」



 言っただけで、喉が詰まる。

 声が情けないくらい掠れた。



 《警告:ユーザーの呼吸効率低下を確認》



 「実況すんな……」



 《補足:沈黙した場合、状態悪化の共有が遅れる》



 「正論で……逃げ道を塞ぐな……」



 セレスの手が、俺の脇腹を避けるように支え直した。

 力は強い。

 でも、乱暴じゃない。


 彼女も限界に近いはずだった。

 幻影を出し続けたせいで、息が浅い。眼鏡の奥の目も、いつもより焦点が硬い。


 それでも、倒れない。

 倒れないように、俺まで支えている。


 出口の向こうから、激しい金属音が響いた。



 ——ギィンッ!!



 地下道の天井が震える。

 古い案内板が、かたかたと鳴った。


 続いて、ライムグリーンの光が出口の階段から漏れる。



 「……当然だよな」



 嫌な予感は、もう予感じゃなかった。


 アニエスは飛べる。

 地下に逃げても、出口に先回りできる。

 俺たちが逃げ道を見つけた時点で、向こうも出口を潰せばいいと分かる。


 分かりきっていた。

 分かりきっていたのに、そこを通るしかなかった。



 「エナちゃんとアリスちゃんが押さえてる」



 セレスが言った。

 自分に言い聞かせるみたいな声だった。


 階段を上がるにつれて、音が近づく。


 赤い槍が落ちる音。

 盾が受ける音。

 ワイヤーが弾ける音。

 誰かの短い息。


 出口に出た瞬間、夜の空気が顔を殴った。


 サンドボックス・シティの十字路。

 灯りの消えた信号機。

 意味のない文字列の看板。

 歩道の端で倒れた自転車みたいなもの。


 その全部を、赤い光が断続的に染めていた。


 アニエス・ソレルが、十字路の上に浮いている。


 少女型のコア。

 周囲の盾と刃と王冠みたいな兵装。


 白と赤の装甲が、夜の中で処刑台みたいに開いていた。


 その正面で、エナが踏ん張っている。


 トマスを逃す暇もなかったんだろう。

 彼を背後の壁際に押しやり、自分は両腕を広げていた。


 欠けた鎧の継ぎ目から、ライムグリーンの光が滲む。

 装甲片が何枚も重なり、階段の出口を斜めに塞いでいる。



 「通しませんっ!」



 赤い槍が落ちた。



 ——轟音。



 エナの盾が軋む。

 装甲片が一枚、砕けて跳ねた。


 それでも、エナは下がらない。


 その横を、アリスのワイヤーが走る。


 銀色の線が、街灯と標識と壊れた看板の支柱へ刺さっていた。

 アリスはルカを抱えたまま、身体を低くしている。

 もう片方のワイヤーで、ユリウスの腰を支えていた。


 背中と肩の人工皮膚は裂けている。

 白い服も、そこだけ黒く焼けていた。


 でも、ルカを抱える腕だけは崩れていない。



 「リク!」



 アリスがこちらを見た。

 金色の四白眼が、赤い光を反射している。



 「出口封鎖を受けています。突破経路、未確定」



 「見りゃ分かる……!」



 言った瞬間、胸が痛んだ。

 十字路の中央に、薄い歪みがある。


 空気が紙を重ねたみたいにずれている。

 白衣の男のポータルが反応した時と同じ、あの妙なズレ。


 帰り道。


 たぶん。



 「セブン、あれは使えるか」



 《空間接続の揺らぎを確認。進入時と類似》



 「使えるかって聞いてる」



 《不明。ただし他候補なし》



 「最悪な答えだな……!」



 でも、他にない。


 十字路まで、あと少し。

 距離にすれば二十メートルちょっと。


 近い。


 近すぎるくらい近い。


 なのに、そこまでの空間が、赤い槍とアニエスで埋まっている。


 ミラは恐怖で震えている。

 ガルドがその後ろで、ミラの肩を押さえている。

 トマスは壁に背を預けたまま、苦しそうに息をしていた。


 全員、揃った。


 揃ってしまった。


 ここで詰まったら、全員まとめて終わる。


 アニエスの盾翼が開いた。

 赤い光が、その内側に並ぶ。



 「来る!」



 セレスが叫ぶ。

 幻影が生まれた。


 青白いセレスが三人、五人、十人。

 十字路の左右へ散る。

 俺を支えるセレス。

 子どもを抱えるセレス。

 わざと転んで、立ち上がろうとするセレス。



 「セレス、無理してないか」



 「今それを聞くの?」



 「聞くくらいはできる」



 「じゃあ答えるわ。無理してる」



 「正直だな」



 「嘘つく余裕がないの」



 アニエスの照準が、一瞬だけ割れた。

 その隙に、エナの盾が前へ出る。



 「みんな、こっちですっ!」



 赤い槍が降る。

 幻影が砕ける。

 エナの盾が火花を散らす。

 アリスのワイヤーが、飛んできた槍の角度をずらす。


 持ちこたえている。

 でも、持ちこたえているだけだ。


 このまま全員で固まって進めば、十字路の手前でまとめて潰される。


 ……一人ずつなら、まだ抜けられる可能性がある。


 誰を先に行かせる?

 考えるより先に、俺の目はアリスを見ていた。


 ルカは、アリスの首に顔を押しつけている。

 何も見ないようにしている。

 ユリウスはルカから目を離さない。自分も震えているくせに、ずっとルカの前に出ようとしていた。


 あの二人をここに残したら、次で動けなくなる。

 動けなくなった子どもを抱えて、全員が止まる。


 だったら。



 「アリス!」



 声を出した瞬間、セレスが俺を見た。



 「リクくん?」



 俺はセレスを見なかった。

 見たら、止められると思った。



 「ルカとユリウスを連れて、先に十字路へ行け!」



 「リクくん、待って」



 セレスの声が鋭くなる。


 でも、もう言った。

 言ってしまった。



 「アリスなら抜けられる! 二人を先に通せ!」



 「了解」



 アリスの返事は早かった。


 早すぎた。


 それで、俺の胸の奥が一瞬だけ冷えた。


 セレスが俺の肩を掴む。



 「独断で決めないで。今は全体の隊列を——」



 「間に合わない!」



 セレスの言葉を遮った。

 自分でも驚くくらい、声が荒かった。



 「ここでルカが止まったら全員止まる! アリスなら行ける!」



 「だからって、あの子たちを先に出せば狙われる!」



 「分かってる!」



 分かってる。

 分かってるから嫌なんだ。


 でも、他に手がない。


 俺はアリスを見た。



 「アリス、行け!」



 アリスはルカを抱え直した。

 細い腕が、小さな身体を胸の内側へ押し込む。


 もう一本のワイヤーが、ユリウスの腰へ巻きついた。



 「ユリウス。低姿勢を維持してください」



 「おう……!」



 ルカが少しだけ顔を上げた。



 「アリスおねぇちゃん」



 「はい」



 「あと少し?」



 アリスは、一拍置いた。

 その一拍が、いつもより長く感じた。



 「推定距離、二十七メートル」



 「にじゅうななって、近い?」



 赤い光が、十字路の上で揺れる。

 アリスの金色の目が、ほんの少しだけルカへ下がった。



 「……近いです」



 ルカの指から、少しだけ力が抜けた。


 それが見えた。

 見えてしまった。


 怖がっていた子どもが、アリスの言葉を信じた瞬間だった。


 アリスが走る。

 いや、滑る。


 ワイヤーを巻き取る勢いで、地面すれすれに進む。

 ルカを揺らさないよう、身体の角度だけを変える。

 ユリウスはワイヤーに支えられながら、必死に足を動かしていた。


 セレスの幻影が、一斉に散った。


 アリスの進路とは逆へ。

 地下道の方へ。

 アニエスの下へ。


 青白いセレスたちが、盾になるみたいに走る。


 アニエスの盾翼が揺れた。

 赤い槍の向きが迷う。


 いける。


 今なら。



 「なるほど」



 エレノアの声が落ちてきた。

 静かだった。


 ……だから、余計に嫌だった。



 「先に逃がすのね。小さいものから」


 背筋が冷えた。


 『しまった』


 そう思った時には、もう遅い。

 俺が守ろうとした順番が、そのまま目印になった。


 小さいから先に。

 怖がっているから先に。

 止まる前に逃がす。


 その判断が、エレノアに優先順位を伝えた。



 「分かりやすいわ」



 濃い口紅が、薄く動く。



 「どこを刺せば、いちばん崩れるのか」



 「エレノア!」



 セレスの声が鋭くなる。


 同時に、幻影が一斉にアリスの前へ走った。

 青白いセレスたちが、壁みたいに並ぶ。


 アニエスの盾翼が開いた。

 さっきまでより、赤い光が濃い。



 「アニエス・ソレル」



 エレノアの指先が、手袋の留め金を叩いた。


 コツ。



 「"スカーレット・レイン"」



 盾翼の内側に、赤い槍が並ぶ。


 一本じゃない。

 十本でもない。


 雨みたいに、赤い穂先が空中へ生まれていく。



 「アリス!」



 叫ぶより早く、アリスは動いていた。


 逃げるためじゃない。

 ルカを、自分の胸の内側へ押し込むための動きだった。


 ユリウスがルカに覆いかぶさろうとする。

 でも、アリスのワイヤーが先にユリウスの腰を引いた。



 「ユリウス、低姿勢」



 「っ!」



 「ルカ。目を閉じてください」



 「え?」



 「目を閉じてください」



 アリスの声は平坦だった。

 でも、腕だけが強かった。


 ルカが目を閉じる。


 次の瞬間、赤い槍が降った。

 セレスの幻影が砕ける。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 青白い光が、赤い雨の中で割れて散る。


 アリスは止まらない。

 ルカを抱えたまま、低く進む。

 ワイヤーでユリウスを引き、地面すれすれに滑らせる。


 十字路まで、あと少し。


 あと少し。

 だからこそ、赤い槍はそこへ集まった。



 「アリス、右!」



 《警告:右上方、赤光》



 遅い。


 そう思った。


 アリスの背中へ、赤い光が落ちた。


 直撃はしなかった。

 アリスが、最後の瞬間に身体をひねったからだ。


 赤い槍は背中を裂き、肩を抉り、路面へ突き刺さった。


 爆発みたいに、十字路の手前が弾ける。


 砂塵。

 砕けた舗装。

 飛び散る看板の破片。


 アリスの姿が、見えなくなった。



 「ルカ!」



 叫んだのは、俺だったのか。

 ユリウスだったのか。

 ミラだったのか。


 分からなかった。


 身体が前へ出ようとする。


 出られるわけがない。

 膝が抜けた。胸が潰れるみたいに痛む。

 セブンが手から落ちかける。


 それでも前へ行こうとした俺の腕を、セレスが掴んだ。



 「リクくん、行かないで!」



 「アリスがっ! ルカが!!」



 「分かってる!」



 セレスの声が、十字路に響いた。

 初めて、少しだけ崩れた声だった。



 「分かってるから、今行かないで!」



 「でも!」



 「今あなたが出たら、次に撃たれて全員止まる!」



 言葉が刺さる。

 正しいから、余計に刺さる。


 俺は動けない。

 動いたら、足を引っ張る。


 分かっている。

 分かっているのに、身体だけが前へ行こうとする。


 砂塵の向こうで、細い影が動いた。


 アリスだった。


 歩いている。


 左脚を引きずっている。

 背中で服と皮膚は裂け、火花が散っていた。

 肩口から黒い線が走っている。

 球体関節の動きも、硬い。


 それでも。


 ルカを抱える腕だけは、崩れていなかった。


 ユリウスはその横で倒れ込み、咳き込みながら起き上がる。

 額から血が流れていたが、動いている。



 「ルカ……?」



 ユリウスの声が、細くなった。


 アリスは答えない。

 ルカを抱いたまま、ゆっくり十字路へ進む。



 「アリス!」



 俺は叫んだ。


 胸が痛んだ。

 でも、そんなことはどうでもよかった。



 「ルカは!?」



 アリスは答えなかった。

 ただ、ルカを抱いた腕を、少しだけ強くした。



 「アリスっ! 状態を報告しろ!」



 「……搬送を継続します」



 「状態を言えっ!」



 「搬送を、継続します」



 同じ言葉。

 同じ声。


 でも、いつものアリスじゃない。


 訂正しない。

 説明しない。

 報告しない。


 ただ、抱いている。

 抱いたまま、離さない。


 ユリウスが立ち上がろうとして、よろけた。



 「ルカ、ルカ……!」



 アリスはユリウスを見た。

 金色の四白眼が、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。



 「ユリウス。歩行してください」



 「ルカは!」



 「歩行してください」



 「ルカはどうしたんだよ!」



 アリスは、答えなかった。


 答えないまま、ワイヤーを一本伸ばして、ユリウスの身体を引っ張る。


 それだけで、分かりたくないことを分かりそうになる。


 違う。


 まだ分からない。

 まだ、決まってない。


 ここでは、決めるな。



 「エナちゃん!」



 セレスが叫ぶ。



 「十字路まで押し切る!」



 「はいっ!」



 エナの声が震えた。

 ほんの少しだけ。


 それでも、返事は明るかった。



 「みんなで、帰りますっ!」



 エナが前へ出る。



 「ルカちゃんも、みんなも、帰りますっ!」



 それは事実じゃない。

 願いだった。


 エナは、事実を言っているんじゃない。

 自分がそうすると決めたことを、声にしている。


 アニエスの盾翼が、また赤く光った。

 エレノアは、上からこちらを見ている。


 薄い笑みは戻っていない。

 さっきより、冷たい顔になっていた。



 「まだ走るの?」



 「走るわよ」



 セレスが即答した。



 「生きてる人間は、走るの」



 幻影が、また生まれた。


 セレスが三人。

 五人。

 十人。


 青白い影が、十字路へ向かって走り出す。


 赤い槍が、幻影へ落ちる。

 砕ける。

 また走る。

 また砕ける。


 その間を、アリスが歩く。


 走らない。


 ルカを揺らさないためだ。


 背中から火花を散らしながら。

 左脚を引きずりながら。

 それでも、抱える腕だけは揺らさない。



 「アリス、急げ!」



 言ってから、違うと思った。


 急げないんだ。


 急がないんじゃない。

 急げない。


 ルカを抱えているから。

 ルカをこれ以上、揺らしたくないから。


 アリスは振り向かなかった。

 セレスが俺の肩を支え直す。



 「リクくん、前だけ見て」



 「でも——」



 「前だけ見て!」



 その声に、息が止まった。


 セレスも見たいはずだった。

 ルカの状態を。

 アリスの腕の中を。


 でも、見たら止まる。

 止まったら、全員がここで終わる。


 だからセレスは、俺に前を見ろと言った。

 自分にも、そう言い聞かせるみたいに。



 「……分かった」



 声が、出た。


 俺は十字路を見る。

 薄い歪みが、夜の景色を滲ませている。


 希望と呼ぶには頼りなさすぎるもの。

 でも、今はそれしかない。



 「セブン、反応は!」



 《空間接続の揺らぎは継続》



 アリスが十字路へ入る。


 ルカを抱いたまま。


 ユリウスがその横で、ワイヤーに支えられながらついていく。

 ミラが泣きそうな顔で後を追う。

 ガルドがトマスを支え、エナがその後ろへ回る。


 セレスは俺の肩を支えたまま、最後尾に近い位置で幻影を出し続けている。


 青白いセレスたちが、赤い槍に砕かれていく。


 ひとつ砕けるたび、本物のセレスの呼吸が少し荒くなる。



 「セレス、もういい!」



 「よくない」



 「倒れるぞ!」



 「倒れるなら、向こうで倒れる!」



 セレスの声が、荒い。

 でも、折れていない。


 俺は歯を食いしばった。


 『向こうで倒れる』


 その言葉に、頷くしかなかった。



 「アリス、先に入れ!」



 アリスは、十字路の歪みの前で一瞬だけ止まった。

 ルカを抱えた腕が、また少し強くなる。



 「ルカ」



 初めて、アリスが名前だけを呼んだ。


 返事はない。


 アリスはそれ以上、何も言わなかった。 

 そして、白い歪みの中へ踏み込んだ。


 ルカを抱いたまま。


 その姿が、サンドボックス・シティの夜から消える。


 ユリウスが叫びかけた。

 声になる前に、セレスの幻影が彼の背を押す。



 「行って!」



 ユリウスも歪みへ飛び込む。


 ミラが続く。

 ガルドが続く。

 トマスを支えたエナが続く。


 赤い槍が、また落ちた。

 十字路の端が爆ぜる。


 セレスが俺を抱えるようにして、前へ押した。



 「リクくん!」



 「分かってる!」



 俺はセブンを握った。

 力なんて、ほとんど入っていない。


 でも、離さなかった。


 背後で、エレノアの声がした。



 「逃げるのね」



 俺は振り返らなかった。


 振り返ったら、何かを言ってしまいそうだった。


 怒鳴るかもしれない。

 突っ込もうとするかもしれない。


 どっちも、今やることじゃない。


 今は、逃げる。

 逃げ切れば勝ちだと、自分で言った。


 だから逃げる。


 ルカを抱いたアリスが先に消えた歪みへ、俺たちは飛び込んだ。


 最後に見えたのは、赤い槍の光だった。


 それから。


 夜の村の匂いがした。


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