第2幕『近いです』
地下道は、思ったより狭かった。
天井は低い。
壁は白いタイル張りで、ところどころが剥がれている。濡れているわけでもないのに、足音だけがやけに湿った感じで返ってきた。
出口は見えている。
たぶん、百メートルもない。
でも、その百メートルがあまりにも遠い。
セレスに肩を支えられながら、一歩ずつ進む。
胸が痛い。息を吸うたび、肋骨の奥で熱いものがこすれる。
右手のセブンを杖みたいに突くたび、腕の奥まで嫌な痺れが走った。
「リクくん、歩幅を広げて」
「広げて、これなんだよ……」
言っただけで、喉が詰まる。
声が情けないくらい掠れた。
《警告:ユーザーの呼吸効率低下を確認》
「実況すんな……」
《補足:沈黙した場合、状態悪化の共有が遅れる》
「正論で……逃げ道を塞ぐな……」
セレスの手が、俺の脇腹を避けるように支え直した。
力は強い。
でも、乱暴じゃない。
彼女も限界に近いはずだった。
幻影を出し続けたせいで、息が浅い。眼鏡の奥の目も、いつもより焦点が硬い。
それでも、倒れない。
倒れないように、俺まで支えている。
出口の向こうから、激しい金属音が響いた。
——ギィンッ!!
地下道の天井が震える。
古い案内板が、かたかたと鳴った。
続いて、ライムグリーンの光が出口の階段から漏れる。
「……当然だよな」
嫌な予感は、もう予感じゃなかった。
アニエスは飛べる。
地下に逃げても、出口に先回りできる。
俺たちが逃げ道を見つけた時点で、向こうも出口を潰せばいいと分かる。
分かりきっていた。
分かりきっていたのに、そこを通るしかなかった。
「エナちゃんとアリスちゃんが押さえてる」
セレスが言った。
自分に言い聞かせるみたいな声だった。
階段を上がるにつれて、音が近づく。
赤い槍が落ちる音。
盾が受ける音。
ワイヤーが弾ける音。
誰かの短い息。
出口に出た瞬間、夜の空気が顔を殴った。
サンドボックス・シティの十字路。
灯りの消えた信号機。
意味のない文字列の看板。
歩道の端で倒れた自転車みたいなもの。
その全部を、赤い光が断続的に染めていた。
アニエス・ソレルが、十字路の上に浮いている。
少女型のコア。
周囲の盾と刃と王冠みたいな兵装。
白と赤の装甲が、夜の中で処刑台みたいに開いていた。
その正面で、エナが踏ん張っている。
トマスを逃す暇もなかったんだろう。
彼を背後の壁際に押しやり、自分は両腕を広げていた。
欠けた鎧の継ぎ目から、ライムグリーンの光が滲む。
装甲片が何枚も重なり、階段の出口を斜めに塞いでいる。
「通しませんっ!」
赤い槍が落ちた。
——轟音。
エナの盾が軋む。
装甲片が一枚、砕けて跳ねた。
それでも、エナは下がらない。
その横を、アリスのワイヤーが走る。
銀色の線が、街灯と標識と壊れた看板の支柱へ刺さっていた。
アリスはルカを抱えたまま、身体を低くしている。
もう片方のワイヤーで、ユリウスの腰を支えていた。
背中と肩の人工皮膚は裂けている。
白い服も、そこだけ黒く焼けていた。
でも、ルカを抱える腕だけは崩れていない。
「リク!」
アリスがこちらを見た。
金色の四白眼が、赤い光を反射している。
「出口封鎖を受けています。突破経路、未確定」
「見りゃ分かる……!」
言った瞬間、胸が痛んだ。
十字路の中央に、薄い歪みがある。
空気が紙を重ねたみたいにずれている。
白衣の男のポータルが反応した時と同じ、あの妙なズレ。
帰り道。
たぶん。
「セブン、あれは使えるか」
《空間接続の揺らぎを確認。進入時と類似》
「使えるかって聞いてる」
《不明。ただし他候補なし》
「最悪な答えだな……!」
でも、他にない。
十字路まで、あと少し。
距離にすれば二十メートルちょっと。
近い。
近すぎるくらい近い。
なのに、そこまでの空間が、赤い槍とアニエスで埋まっている。
ミラは恐怖で震えている。
ガルドがその後ろで、ミラの肩を押さえている。
トマスは壁に背を預けたまま、苦しそうに息をしていた。
全員、揃った。
揃ってしまった。
ここで詰まったら、全員まとめて終わる。
アニエスの盾翼が開いた。
赤い光が、その内側に並ぶ。
「来る!」
セレスが叫ぶ。
幻影が生まれた。
青白いセレスが三人、五人、十人。
十字路の左右へ散る。
俺を支えるセレス。
子どもを抱えるセレス。
わざと転んで、立ち上がろうとするセレス。
「セレス、無理してないか」
「今それを聞くの?」
「聞くくらいはできる」
「じゃあ答えるわ。無理してる」
「正直だな」
「嘘つく余裕がないの」
アニエスの照準が、一瞬だけ割れた。
その隙に、エナの盾が前へ出る。
「みんな、こっちですっ!」
赤い槍が降る。
幻影が砕ける。
エナの盾が火花を散らす。
アリスのワイヤーが、飛んできた槍の角度をずらす。
持ちこたえている。
でも、持ちこたえているだけだ。
このまま全員で固まって進めば、十字路の手前でまとめて潰される。
……一人ずつなら、まだ抜けられる可能性がある。
誰を先に行かせる?
考えるより先に、俺の目はアリスを見ていた。
ルカは、アリスの首に顔を押しつけている。
何も見ないようにしている。
ユリウスはルカから目を離さない。自分も震えているくせに、ずっとルカの前に出ようとしていた。
あの二人をここに残したら、次で動けなくなる。
動けなくなった子どもを抱えて、全員が止まる。
だったら。
「アリス!」
声を出した瞬間、セレスが俺を見た。
「リクくん?」
俺はセレスを見なかった。
見たら、止められると思った。
「ルカとユリウスを連れて、先に十字路へ行け!」
「リクくん、待って」
セレスの声が鋭くなる。
でも、もう言った。
言ってしまった。
「アリスなら抜けられる! 二人を先に通せ!」
「了解」
アリスの返事は早かった。
早すぎた。
それで、俺の胸の奥が一瞬だけ冷えた。
セレスが俺の肩を掴む。
「独断で決めないで。今は全体の隊列を——」
「間に合わない!」
セレスの言葉を遮った。
自分でも驚くくらい、声が荒かった。
「ここでルカが止まったら全員止まる! アリスなら行ける!」
「だからって、あの子たちを先に出せば狙われる!」
「分かってる!」
分かってる。
分かってるから嫌なんだ。
でも、他に手がない。
俺はアリスを見た。
「アリス、行け!」
アリスはルカを抱え直した。
細い腕が、小さな身体を胸の内側へ押し込む。
もう一本のワイヤーが、ユリウスの腰へ巻きついた。
「ユリウス。低姿勢を維持してください」
「おう……!」
ルカが少しだけ顔を上げた。
「アリスおねぇちゃん」
「はい」
「あと少し?」
アリスは、一拍置いた。
その一拍が、いつもより長く感じた。
「推定距離、二十七メートル」
「にじゅうななって、近い?」
赤い光が、十字路の上で揺れる。
アリスの金色の目が、ほんの少しだけルカへ下がった。
「……近いです」
ルカの指から、少しだけ力が抜けた。
それが見えた。
見えてしまった。
怖がっていた子どもが、アリスの言葉を信じた瞬間だった。
アリスが走る。
いや、滑る。
ワイヤーを巻き取る勢いで、地面すれすれに進む。
ルカを揺らさないよう、身体の角度だけを変える。
ユリウスはワイヤーに支えられながら、必死に足を動かしていた。
セレスの幻影が、一斉に散った。
アリスの進路とは逆へ。
地下道の方へ。
アニエスの下へ。
青白いセレスたちが、盾になるみたいに走る。
アニエスの盾翼が揺れた。
赤い槍の向きが迷う。
いける。
今なら。
「なるほど」
エレノアの声が落ちてきた。
静かだった。
……だから、余計に嫌だった。
「先に逃がすのね。小さいものから」
背筋が冷えた。
『しまった』
そう思った時には、もう遅い。
俺が守ろうとした順番が、そのまま目印になった。
小さいから先に。
怖がっているから先に。
止まる前に逃がす。
その判断が、エレノアに優先順位を伝えた。
「分かりやすいわ」
濃い口紅が、薄く動く。
「どこを刺せば、いちばん崩れるのか」
「エレノア!」
セレスの声が鋭くなる。
同時に、幻影が一斉にアリスの前へ走った。
青白いセレスたちが、壁みたいに並ぶ。
アニエスの盾翼が開いた。
さっきまでより、赤い光が濃い。
「アニエス・ソレル」
エレノアの指先が、手袋の留め金を叩いた。
コツ。
「"スカーレット・レイン"」
盾翼の内側に、赤い槍が並ぶ。
一本じゃない。
十本でもない。
雨みたいに、赤い穂先が空中へ生まれていく。
「アリス!」
叫ぶより早く、アリスは動いていた。
逃げるためじゃない。
ルカを、自分の胸の内側へ押し込むための動きだった。
ユリウスがルカに覆いかぶさろうとする。
でも、アリスのワイヤーが先にユリウスの腰を引いた。
「ユリウス、低姿勢」
「っ!」
「ルカ。目を閉じてください」
「え?」
「目を閉じてください」
アリスの声は平坦だった。
でも、腕だけが強かった。
ルカが目を閉じる。
次の瞬間、赤い槍が降った。
セレスの幻影が砕ける。
一つ。
二つ。
三つ。
青白い光が、赤い雨の中で割れて散る。
アリスは止まらない。
ルカを抱えたまま、低く進む。
ワイヤーでユリウスを引き、地面すれすれに滑らせる。
十字路まで、あと少し。
あと少し。
だからこそ、赤い槍はそこへ集まった。
「アリス、右!」
《警告:右上方、赤光》
遅い。
そう思った。
アリスの背中へ、赤い光が落ちた。
直撃はしなかった。
アリスが、最後の瞬間に身体をひねったからだ。
赤い槍は背中を裂き、肩を抉り、路面へ突き刺さった。
爆発みたいに、十字路の手前が弾ける。
砂塵。
砕けた舗装。
飛び散る看板の破片。
アリスの姿が、見えなくなった。
「ルカ!」
叫んだのは、俺だったのか。
ユリウスだったのか。
ミラだったのか。
分からなかった。
身体が前へ出ようとする。
出られるわけがない。
膝が抜けた。胸が潰れるみたいに痛む。
セブンが手から落ちかける。
それでも前へ行こうとした俺の腕を、セレスが掴んだ。
「リクくん、行かないで!」
「アリスがっ! ルカが!!」
「分かってる!」
セレスの声が、十字路に響いた。
初めて、少しだけ崩れた声だった。
「分かってるから、今行かないで!」
「でも!」
「今あなたが出たら、次に撃たれて全員止まる!」
言葉が刺さる。
正しいから、余計に刺さる。
俺は動けない。
動いたら、足を引っ張る。
分かっている。
分かっているのに、身体だけが前へ行こうとする。
砂塵の向こうで、細い影が動いた。
アリスだった。
歩いている。
左脚を引きずっている。
背中で服と皮膚は裂け、火花が散っていた。
肩口から黒い線が走っている。
球体関節の動きも、硬い。
それでも。
ルカを抱える腕だけは、崩れていなかった。
ユリウスはその横で倒れ込み、咳き込みながら起き上がる。
額から血が流れていたが、動いている。
「ルカ……?」
ユリウスの声が、細くなった。
アリスは答えない。
ルカを抱いたまま、ゆっくり十字路へ進む。
「アリス!」
俺は叫んだ。
胸が痛んだ。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「ルカは!?」
アリスは答えなかった。
ただ、ルカを抱いた腕を、少しだけ強くした。
「アリスっ! 状態を報告しろ!」
「……搬送を継続します」
「状態を言えっ!」
「搬送を、継続します」
同じ言葉。
同じ声。
でも、いつものアリスじゃない。
訂正しない。
説明しない。
報告しない。
ただ、抱いている。
抱いたまま、離さない。
ユリウスが立ち上がろうとして、よろけた。
「ルカ、ルカ……!」
アリスはユリウスを見た。
金色の四白眼が、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。
「ユリウス。歩行してください」
「ルカは!」
「歩行してください」
「ルカはどうしたんだよ!」
アリスは、答えなかった。
答えないまま、ワイヤーを一本伸ばして、ユリウスの身体を引っ張る。
それだけで、分かりたくないことを分かりそうになる。
違う。
まだ分からない。
まだ、決まってない。
ここでは、決めるな。
「エナちゃん!」
セレスが叫ぶ。
「十字路まで押し切る!」
「はいっ!」
エナの声が震えた。
ほんの少しだけ。
それでも、返事は明るかった。
「みんなで、帰りますっ!」
エナが前へ出る。
「ルカちゃんも、みんなも、帰りますっ!」
それは事実じゃない。
願いだった。
エナは、事実を言っているんじゃない。
自分がそうすると決めたことを、声にしている。
アニエスの盾翼が、また赤く光った。
エレノアは、上からこちらを見ている。
薄い笑みは戻っていない。
さっきより、冷たい顔になっていた。
「まだ走るの?」
「走るわよ」
セレスが即答した。
「生きてる人間は、走るの」
幻影が、また生まれた。
セレスが三人。
五人。
十人。
青白い影が、十字路へ向かって走り出す。
赤い槍が、幻影へ落ちる。
砕ける。
また走る。
また砕ける。
その間を、アリスが歩く。
走らない。
ルカを揺らさないためだ。
背中から火花を散らしながら。
左脚を引きずりながら。
それでも、抱える腕だけは揺らさない。
「アリス、急げ!」
言ってから、違うと思った。
急げないんだ。
急がないんじゃない。
急げない。
ルカを抱えているから。
ルカをこれ以上、揺らしたくないから。
アリスは振り向かなかった。
セレスが俺の肩を支え直す。
「リクくん、前だけ見て」
「でも——」
「前だけ見て!」
その声に、息が止まった。
セレスも見たいはずだった。
ルカの状態を。
アリスの腕の中を。
でも、見たら止まる。
止まったら、全員がここで終わる。
だからセレスは、俺に前を見ろと言った。
自分にも、そう言い聞かせるみたいに。
「……分かった」
声が、出た。
俺は十字路を見る。
薄い歪みが、夜の景色を滲ませている。
希望と呼ぶには頼りなさすぎるもの。
でも、今はそれしかない。
「セブン、反応は!」
《空間接続の揺らぎは継続》
アリスが十字路へ入る。
ルカを抱いたまま。
ユリウスがその横で、ワイヤーに支えられながらついていく。
ミラが泣きそうな顔で後を追う。
ガルドがトマスを支え、エナがその後ろへ回る。
セレスは俺の肩を支えたまま、最後尾に近い位置で幻影を出し続けている。
青白いセレスたちが、赤い槍に砕かれていく。
ひとつ砕けるたび、本物のセレスの呼吸が少し荒くなる。
「セレス、もういい!」
「よくない」
「倒れるぞ!」
「倒れるなら、向こうで倒れる!」
セレスの声が、荒い。
でも、折れていない。
俺は歯を食いしばった。
『向こうで倒れる』
その言葉に、頷くしかなかった。
「アリス、先に入れ!」
アリスは、十字路の歪みの前で一瞬だけ止まった。
ルカを抱えた腕が、また少し強くなる。
「ルカ」
初めて、アリスが名前だけを呼んだ。
返事はない。
アリスはそれ以上、何も言わなかった。
そして、白い歪みの中へ踏み込んだ。
ルカを抱いたまま。
その姿が、サンドボックス・シティの夜から消える。
ユリウスが叫びかけた。
声になる前に、セレスの幻影が彼の背を押す。
「行って!」
ユリウスも歪みへ飛び込む。
ミラが続く。
ガルドが続く。
トマスを支えたエナが続く。
赤い槍が、また落ちた。
十字路の端が爆ぜる。
セレスが俺を抱えるようにして、前へ押した。
「リクくん!」
「分かってる!」
俺はセブンを握った。
力なんて、ほとんど入っていない。
でも、離さなかった。
背後で、エレノアの声がした。
「逃げるのね」
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、何かを言ってしまいそうだった。
怒鳴るかもしれない。
突っ込もうとするかもしれない。
どっちも、今やることじゃない。
今は、逃げる。
逃げ切れば勝ちだと、自分で言った。
だから逃げる。
ルカを抱いたアリスが先に消えた歪みへ、俺たちは飛び込んだ。
最後に見えたのは、赤い槍の光だった。
それから。
夜の村の匂いがした。




