第5幕『女王の降下』
陽が落ちた、低層商業施設の群は暗く沈み、
そのなかで看板だけがやけに明るい。
読めるはずの文字は、どこか並びがおかしくて、意味だけが抜け落ちている。床には割れた菓子袋みたいなものが散らばっていたが、中身の匂いはしない。
生活を真似た場所なのに、そこには生活の匂いはない。
その奥の一棟、そのシャッター脇に、
セレスと村人たちが固まっていた。
セレスが最初にこっちを見た。
次にミラ。
ユリウスが、壁際で膝を抱えるルカの肩を押さえる。
トマスは横になったまま、俺たちの足音に目だけを動かした。
最初に口を開いたのはガルドだった。
「戻ったのか……! じゃあ、あいつらは——」
言葉は、途中で止まった。
たぶん、俺の顔を見たからだ。
いや、顔だけじゃない。
アリスに肩を借りないと、まともに立てない足。
呼吸のたびに勝手に歪む口元。
自分でも分かる。
ひどい有様だ。
腰の鞘は、瓦礫に巻き込まれた時に留め具ごと砕けていた。
そのせいで、右手からぶら下がっているだけみたいなセブン。
《補足:鞘の保持機構は完全に破損》
「知ってる。オマエが今いちばん自己主張強い荷物になってる」
《訂正:当ユニットは荷物ではない》
「じゃあ自分で歩け」
アリスも無傷じゃない。
肩口や腕の人工皮膚が裂け、白い肌の下に硬い素地が覗いている。そこには、黒く焦げた剣筋の跡が残っていた。
エナの鎧も、いくつか欠けている。
ライムグリーンの術式線はまだ光っているけど、いつもの元気な明るさより、少しだけ細い。
「お兄ちゃん」
ルカの声が、小さく落ちた。
アリスの背後から、丸い目だけがこっちを見る。
「死ぬの?」
空気が、止まった。
ミラが息を呑む。
ユリウスがルカの肩を引こうとして、途中で手を止める。
トマスは壁にもたれたまま、目を伏せた。
俺は笑おうとした。
けど、胸が痛んで笑顔にならなかった。
「死なねぇよ。ちょっとビルと喧嘩して負けただけだ」
誰も笑わなかった。
いや、ガルドだけが反応に困ったような顔をした。
ミラは笑っていいのか泣いていいのか分からない顔で、口元を軽く押さえている。
セレスだけは、一切笑わなかった。
彼女は一歩こっちへ来ると、アリスの肩から俺の腕を静かに受け取った。
「アリスちゃん、ありがとう。リクくんは私が支える」
「支援継続は可能です」
「あなたも損傷してる。下がって」
アリスは一拍だけ沈黙した。
金色の目が、俺とセレスの手元を見比べる。
「……リクの体重負荷を移譲します」
「うん。移譲されます」
セレスがそう返して、俺の肩を支え直した。
思ったより、手に力が入っている。
俺が少しでも膝を抜いたら、そのまま抱え込むつもりみたいな支え方だった。
「リクくん」
声が低い。
「はい」
反射で返事をした。
「説明して」
「何をですか」
「どうして、『戦闘より、敵を引き離す方を優先しなさい』って言われたあなたが、立つのもやっとの状態で戻ってきているのかを」
——まずい。
これは、かなりまずい。
敵の攻撃とは違う方向で逃げ場がない。
「いや、あれはセブンがですね」
《補足:敵対対象の継戦能力停止のため、出力増加を実行》
「セブンくんも後で叱る」
《評価:叱責対象に含まれる理由が不明》
「ほら、本人もこう言ってますし」
「リクくん」
「はい」
セレスの指が眼鏡を押し上げた。
金属フレームに触れる指先が、ほんの少し震えている。
「あなた、今、自分がどれだけ危ない状態か分かってる?」
「……まあ、痛いなとは」
「痛いで済ませない」
声は強い。
でも、俺を支える腕は乱暴じゃなかった。
むしろ、さっきより丁寧に、俺の胸へ負担が行かない角度を探している。怒っているのに、手だけはずっと冷静だ。
軽く返そうとして、できなかった。
セレスの顔が、思ったより近くにあった。
いつもの仕事用の顔をしている。けど、灰がかった青緑の目の奥だけが、全然冷静じゃない。
「あなたが倒れたら、誰が村人たちを外へ出すの。誰がアリスちゃんとエナちゃんを止めるの。誰がセブンくんに“やりすぎ”って言うの」
《補足:当ユニットは合理的判断を実行する》
「だから必要なのよ、リクくんが!」
セブンが黙った。
俺も、言い返せなかった。
胸がチクリと痛む。
……ついでに肋骨も。
心配している、とは言わない。
危なかった、とも言わない。
全部、任務と安全と役割の言葉で殴ってくる。
でも、それが逆に、逃げ道を潰していた。
「……すみません」
「謝るなら歩いて。ここで倒れないで」
「叱り方が実務的すぎる……」
「実務で怒ってるの!」
そこで、トマスが小さく咳き込んだ。
張りつめていた空気が、少しだけずれる。
セレスは一度だけ息を吐いて、すぐに顔を上げた。
「全員、移動します。荷物は持たない。歩ける人は歩く。歩けない人は運ぶ。今すぐここを出ます」
ガルドがトマスの方へ寄った。
「俺が背負う。トマス、こっちへ」
「いや、待て。お前もふらついてるだろ」
「言ってる場合か」
ガルドの膝が、ほんの少し笑っている。
本人は隠しているつもりなんだろうけど、隠せていない。疲労と飢えと恐怖で、普通に限界が近い。
エナが前に出た。
「トマスさんは、あたしが抱きますっ!」
トマスが目を丸くした。
「いや、俺は……」
「軽いですっ!」
「男としてそれはそれで傷つくな……」
エナは悪気ゼロの笑顔で、両腕を広げた。
「大丈夫です! 今のリクさんよりは、壊れにくそうですっ!」
「比較対象が俺なのやめろ」
胸がズキリと痛んだ。
くそ……。
ツッコミにも体力がいる。
「はいっ!」
返事だけは元気だった。
トマスは抵抗しようとしたが、立ち上がる前に咳き込んだ。その隙にエナが、壊れ物を持つみたいにそっと抱え上げる。
見た目は完全に、姫騎士に救出される村の青年だ。
トマスの表情は……なんか複雑だ。
「……屈辱と安心が同時に来るな、これ」
「良かったですっ!」
「いや、良かったのか……?」
その横で、アリスがルカの前に膝をついた。
カチリ、と膝の関節が小さく鳴る。
「ルカ。搬送します」
「はんそう?」
金色の四白眼が、まばたきも少なくルカを見る。
「抱き上げます」
「おねーちゃんが?」
「訂正します。おねーちゃんではありません。LC-01-A-03、アリス・リドルです」
ルカは少し考えてから、こくんと頷いた。
「アリスおねぇちゃん?」
アリスは、瞬きもせずにルカを見ている。
「呼称許可」
「そこ許可制なんだ……」
俺がぼそっと言うと、アリスはルカを抱き上げながらこっちを見た。
「未成年対象による呼称選択と判断しました」
「基準があるんだな」
「あります」
断言だった。
セレスが俺の肩を支え直す。
「リクくん、あなたは私が支える。勝手に歩幅を広げない」
「いや、俺は歩けるよ」
「肩を貸されながら言う台詞じゃないわ」
《評価:ユーザーの歩行安定性は低い》
「お前もセレス側につくな」
《事実提示である》
「事実って残酷だな」
ミラが、小さく笑った。
笑ったあとで、すぐ口を押さえる。
こんな状況で笑っていいのか、自分でも分からないんだと思う。
でも、それでいい。
少しでも息ができるなら、それでいい。
「本当に……村に帰れるんですか?」
ミラの声は細かった。
セレスは、すぐに頷かなかった。
「保証はできません。でも、ここに残るより生存率は上がります」
「言い方が監察官」
「今は監察官です」
《補足:現在地における危険度は上昇傾向》
「お前も不安を煽るな」
「訂正します。危険情報の共有は必要です」
アリスがルカを抱えたまま、淡々と割り込む。
エナはトマスを抱えて、胸を張った。
「でも、大丈夫ですっ! あたしたち、勝ちましたから!」
トマスが腕の中で天井を見た。
「勝った人たちって、普通そんなボロボロか?」
「勝ち方にも種類があるんですよ」
ガルドが、軽口を吐いた俺を見た。
「いや、君、ほとんど死にかけてないか」
「死にかけてません。生き寄りです」
「その言い方、余計不安になるからやめなさい」
ルカがアリスの腕の中で首を傾げた。
「お兄ちゃん、いきより?」
「定義不明。使用非推奨」
「俺の造語を正式に却下するな」
エナが元気よく片手を上げようとして、トマスを抱えていることを思い出してやめた。
「リクさんは大丈夫ですっ! あたしのお婿さんなので!」
「今その話を入れない!
あと、そもそも違う!」
今度は、ユリウスも笑った。
……小さく、短くだけど。
笑ったあとで、彼はすぐにアリスの方を見た。ルカがまだ震えていないか、確かめている。兄貴の顔だった。
ルカはアリスの首にぎゅっとしがみついた。
「アリスおねぇちゃん、冷たい」
「体表温度が低いためです。保温が必要なら、エナへの移送を提案します」
「ううん。冷たくて、気持ちいい」
アリスは、一拍置いた。
それから、ほんの少しだけ腕の位置を変えた。
ルカの背中を支える角度が、さっきより深くなる。
「保持を継続します」
俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
痛みは消えない。
状況も良くなってない。
でも、ルカがしがみつく相手にアリスを選んだことだけは、悪くないと思えた。
俺たちは商業施設の裏口へ向かった。
シャッター横の非常口は、見た目だけは現代のものに似ている。
押し棒を押すと、嫌に軽い音で開いた。防犯ブザーも鳴らない。
外へ出ると、裏通りの空気が肌に触れた。
そこには、誰の匂いもなかった。
普通なら腐った食べ物とか、排水とか、古い油とか、そういう嫌な匂いがあるはずなのに。
ここには、そういう生活の残り香すらない。
セレスが短く指示を出す。
「隊列を作ります」
「アリスちゃん、先頭。ルカちゃんを抱えたまま、音と動線の確認。
ガルドさん、ミラさん、ユリウスくんは中央。
エナちゃんはトマスさんを抱えて中央後方。
私はリクくんを支えながら後方確認」
「セブンは?」
「リクくんの手から落ちないように」
《評価:当ユニットの保持状態は不安定》
「お前まで乗るな」
「事実でしょ」
セレスに言われると、何も返せない。
俺はセブンを握り直した。
握り直しただけで、右腕の奥が嫌な熱を持つ。
目標は十字路。
俺たちがこの位相のずれた場所に入ってきた地点。
白衣の男の、銀色のポータルが反応した場所。
そこに辿り着けば、元の村へ戻れる可能性が高い。
……可能性。
その言葉が、やけに頼りない。
敵二人は倒した。
でも、トマスは言っていた。
——男二人、女一人。
「……相手、まだ残ってるはずだ」
「分かってるわ。だから急いでる」
セレスの返事は早かった。
分かっているのに、急ぐしかない。
それはつまり、今の俺たちに選択肢が少ないということだ。
裏通りを抜けようとした、その時だった。
セブンが、低く告げた。
《警告:上空に位相波を検知》
「位相波って……転移のか!?」
《肯定:転移現象に伴う波形と類似》
「全員、止まって!」
セレスが鋭く声をあげて、村人たちが足を止めた。
ルカがアリスの首にしがみつく。
ガルドがミラを自分の背後へ押しやる。
ユリウスは何かを言いかけて、喉だけを鳴らした。
——空が歪んだ。
サンドボックス・シティのビルの上。
夜空の一部が、紙を指で押したみたいにへこむ。
次に、青白い円環が開いた。
円がいくつも重なる。
歯車みたいに回る。
中心に、赤い光が灯る。
その周囲を、文字列にも術式にも見える白い線が走った。
《再警告:空間変位波形、増大。接続点、上空に固定》
「最悪のタイミングだな……!」
「伏せて! みんなを壁際へ!」
アリスがルカを抱えたまま、音もなく壁際へ下がる。
エナはトマスを片腕で抱え直し、空いた腕の鎧を広げるように前へ出た。
セレスは俺を引き寄せる。倒れないように、支えるというより、固定する力だった。
——俺は上を見た。
空の裂け目から、何かが降りてくる。
最初に見えたのは、白い足先。
その下に、赤い光の輪がいくつも重なっていた。
細い脚が、空中で止まる。次に、白と赤の装甲片が、その周囲へ遅れて降りてきた。
肩の横に、盾みたいな板。
背中の後ろに、王冠みたいな輪。
腰の周りに、スカートみたいに広がる刃の束。
ひとつひとつは人より大きい。
けど、中心には人型のなにか……。
——小柄な、女王。
そう見えた。
顔もある。
細い腕もある。
膝も、指も、人間の形をしている。
ただ、表情がない。
アリスの無表情とは違う。
あれは、感情を隠しているとかじゃない。
最初から、その機能のない顔だ。
ただ、その周囲に吊られた装甲と刃と盾が、そいつを人間から遠ざけていた。
まるで、少女の形をした人形に、処刑台と王座を無理やり着せたみたいだった。
《再警告:空間変位波形、増大。降下対象、単一個体ではない》
「単一個体じゃないって……あれ、何体いるんだよ」
《評価:中心人型一。周辺兵装、多数。中央の人型個体と連結構造と推定》
「つまり、あの人型が本体で
周りのでかいのは全部武器か……!」
巨大な機体が、裏通りへ降りた。
着地は、静かだった。
……いや、着地はしていない。
俺たちの頭より少し高い位置まで降りて、止まった。
先に空気が沈んだ。
次に、路面のガラス片が細かく震える。
最後に、周囲の装甲が一斉に向きを変えた。
——カシャン。
乾いた音が、狭い通りに落ちる。
アリスの動きが止まった。
金色の瞳が、通りに浮かぶ機体を見つめる。
セブンの声が落ちる。
《補足:対象内部に高密度魔導コアを確認》
「コア?」
《推定:自律思考機構を搭載。
分類候補:魔導式機動人形。ゴーレム系兵装と推察》
俺は思わずアリスを見た。
「ゴーレム……か。
アリス。なんかわかるか?」
アリスは返事をしなかった。
——いや。
正確には、一拍遅れた。
普段なら即座に返ってくるはずの応答がない。
「……照合します」
声が少し遅い。
金色の瞳が、中心の人型を見つめている。
小さな間。
「A.Li.C.Eシリーズとの類似構造を検出しました」
「は?」
「A.Li.C.Eシリーズと……私と関連する可能性があります」
「ってことは……あの白衣着た胡散臭い奴が、なんか絡んでんのか」
「訂正不能。現時点では不明です」
訂正不能。
アリスの口から出るには、妙な言葉だった。
いつもなら、違うなら違うと切る。
分からないなら照合不可で済ませる。
なのに、今は訂正できない。
ルカを抱える腕だけが、ほんの少し強くなった。
その時、浮かぶゴーレムの少し前に、もう一つ円が開いた。
割れたアスファルトみたいな路面の上に、青白い転送陣が薄く広がる。
赤い光が、円の縁をなぞった。
セレスが息を呑む。
「まだ来る……!」
「全員、壁から離れないで!」
円の中心が、下から吹き上がるみたいに光った。
光の中に、靴先が現れる。
細いヒールが、路面を踏んだ。
——コツ。
やけに澄んだ音だった。
次に、整えられた暗い髪。
質の良さそうな制服めいた装備。
そして、濃い口紅。
四十歳手前……いや、半ばだろうか。
濃い化粧で年齢は曖昧だが、若くはない。
中年の女が、転送陣の上に立っていた。
叫びもしない。
剣を抜きもしない。
ただ、そこに現れて、手袋の指先で襟元を整えた。
ゴーレムは、その背後に浮いている。
女王の人形と、その処刑台。
その前に立つ、指揮官。
……順番が、嫌に正しかった。
女は、こちらを見た。
村人たち。
俺。
損傷したアリス。
鎧の欠けたエナ。
それから、セレス。
その視線が、ひとつずつ数を減らすみたいに動く。
女の指先が、赤い爪を軽く鳴らした。
——コツ。
爪が手袋の留め金に当たる。
——コツ。
もう一度。
その間だけ、女の笑みが薄く歪んだ。
「……随分、手間取ったのね」
声は静かだった。
でも、静かすぎた。
言葉の端だけが、紙で指を切るみたいに尖っている。
「二人も使って、この程度。処理対象は残り、機体は私が出す羽目になる。
……本当に、手間ばかり」
誰に向けた言葉なのか、一瞬分からなかった。
倒されたハルトとゴードンへ向けたものにも聞こえる。
俺たちへ向けたものにも聞こえる。
何より、ここに残っている村人たちを数えた上での言葉に聞こえた。
セレスが前へ出ようとした。
でも、俺の肩を支えているせいで動ききれない。
その一歩が半端に止まる。
「あなたが、指揮官ね」
セレスの声に、女はゆっくり視線を下ろした。
口元だけが、笑った。
「指揮官。ええ、そう呼んでも構わないわ。少なくとも、下の二人よりは、まだ物事を整理できるから」
「名乗りなさい」
「エレノア・ヴァルツ」
濃い口紅が、丁寧に名前を形にする。
その直後、彼女は小さく息を吐いた。
苛立ちを飲み込むみたいに。
「あなたたちは名乗らなくていいわ。どうせ、ここで処理するもの。……これ以上、余計な記録を増やしたくないの」
ミラが息を呑んだ。
ルカがアリスにしがみつく。
ユリウスが、そのルカを見て唇を噛んだ。
エレノアの視線が、村人たちへ動く。
人を見る目じゃない。
数を数えている目だった。
「処理対象が、まだこんなに残っている」
コツ、と爪がまた鳴った。
「残っているのよ。おかしいでしょう。残していいものではないのに」
俺はセブンを握り直そうとした。
けど、力が入らない。
右手の指が、黒い柄の上で滑る。
《警告:ユーザーの戦闘行動は不可能に近い》
「知ってるよ……」
エレノアの視線が、俺へ落ちた。
「あなたが、例の召喚者?」
胸の痛みとは別に、背筋が冷えた。
……召喚者。
その情報を知っている人間は、多くないはずだ。
魔王側。
王国政府関係者。
それと——あの白衣の胡散臭い奴。
どれだ。
どれと繋がってる。
考えようとした瞬間、肺が浅く鳴った。
「だったら何だよ」
エレノアは俺を見下ろした。
見ている。
でも、見ていない。
負傷者としてでも、敵としてでもない。
面倒な例外処理を見る目だった。
「ずいぶん、見苦しいわね」
静かな声だった。
怒鳴らない。
嘲笑もしない。
ただ、弱っている相手を見て、当然の評価みたいに言った。
セレスの手に力が入った。
「負傷者に向ける言葉じゃないわね」
エレノアは眉一つ動かさない。
ただ、口紅の端だけが少し上がった。
「感情的にならないでくれる? 私は事実を言っているだけよ」
そこで一度、言葉が切れた。
エレノアの視線が、俺の肩を支えるセレスの腕へ落ちる。
次に、セレスの顔。
眼鏡。
乱れかけた髪。
それを見て、彼女はほんの少しだけ目を細めた。
「有能な顔をして、結局それ? 怪我をした少年に寄りかかって、庇って、守ったつもりになる」
「……何が言いたいの」
「いいえ。別に」
エレノアは、また爪を鳴らした。
コツ。
今度は少し強い。
「ただ、不快なだけよ。便利ね。怪我人に寄りかかれば、自分が優しい側に立てるもの」」
その言い方で、分かった。
セレスは、弱っている人間を見ると支える。
怒っていても、手を差し伸べる。
でも、弱った相手だからこそ、棒を振り下ろせる人間もいる。
しかも、自分が殴っているとは思っていない。
ただ正しい位置から、間違ったものを指摘している顔をしている。
エレノアは、そっちだ。
同じ年上の女でも、立っている場所が違う。
エレノアが、背後に浮かぶ人型へ指を向けた。
「アニエス・ソレル。"スカーレットライン"、作動」
中心に浮かぶ、小さな女の子。
その周りに広がる、処刑機械。
——アニエス・ソレル。
……それがあの女王の名前。
次の瞬間、
少女型コアの瞳に赤い光が灯る。
《Personality layer: sealed.》
《Dame de Beauté frame: unlocked.》
《Card soldiers: kneel.》
《Execution orbit: deployed.》
感情のない機械音声が、裏通りに薄く響く。
頭上に浮かぶ王冠のような輪が、ゆっくり回り始めた。
左右の盾めいた装甲が外へ開き、白い継ぎ目の奥から赤い光が漏れる。
腰の周囲に浮かんでいた刃の束が、一枚ずつ角度を変えた。
——カチ、カチ、カチ。
刃が揃うたび、壁に、路面に、路地の入口に、赤い点が灯っていく。
俺たちを囲むみたいに。
数を数えるみたいに。
《Verdict: Off with their heads.》
アニエスの声と共に、王冠のような輪が強く光り、裏通りに赤い線が走った。
建物の壁。
割れた街路。
村人たちの背後。
逃げ道になりそうな細い路地。
薄い赤色の隔壁が、一瞬だけ光って、そこに残る。
《警告:周辺空間に固定障壁に類似する構造を検知。退路制限》
「っ、退路を……?」
セレスが低く呟いた。
アリスは何も言わない。
ただ、ルカを抱える腕だけが、また少し強くなった。
ルカは痛がらない。
むしろ、その腕の中へ顔を押しつける。
アリスの金色の目は、アニエスを見ていた。
人型の女王。
その周囲で、刃のスカートがゆっくり角度を変える。
何か、思うところがあるのかもしれない。
でも、アリスは言わない。
言葉にしない。
だから俺は、今は聞かなかった。
エレノアの声が降ってくる。
「逃がす必要があるの?」
静かだった。
でも、最後の一音だけが、わずかに跳ねた。
怒鳴る寸前の声を、喉の奥で押し潰したみたいに。
「逃げて、報告して、泣いて、庇い合って。そうやって手間を増やす。だから最初から、きちんと処理しておくべきなのよ」
赤い隔壁の向こうで、空気が重くなった。
村人たちは壁際に固まっている。
セレスは俺を支えていて、自由に動けない。
アリスはルカを抱えている。
エナはトマスを抱えたまま、前に立っている。
俺はセブンを握った。
握っただけだ。
腕に、力は入らない。
《状況評価:極めて不利》
「見りゃ分かる……」
目の前には、小柄な女王と、それを囲む処刑機械。
その前に、エレノア。
背後には、村人たち。
そして俺は、もうまともに戦えない。
「……セレス」
「分かってる」
セレスは俺の肩を支えたまま、前を見た。
眼鏡の奥の目は、もう震えていない。
「今回は、逃げ切れたら勝ちだ」
「ええ」
エレノアの声が、赤い隔壁の向こうから落ちてきた。
「そう。じゃ、試してみなさい」
——第7話につづく。




