第4幕『翠槍貫牙《ライム・ランサー》』
足が出かけた。
今すぐ踏み込んで、あの腕を斬りたい。
でも、ゴードンはエナの背後にいる。
太い腕で首を取って、身体をぴったり押さえ込んでいる。
近すぎる。
近すぎて、刃が入らない。
俺が斬れば、エナごと巻き込む。
「……っ」
セブンを握る手に、力が入った。
助けたい。でも、焦れば崩れる。
ゴードンはエナを盾にしている。
ハルトもいる。
俺が止まれば、向こうが動く。
突っ込めば、横から脚を取られる。
——どうする。
——どうする。
——どうする。
視界の端で、ハルトが動いた。
ゴードンを助けに行く動きじゃない。
——俺を見ている。
俺が止まるなら、そこへ入る。
俺が突っ込むなら、横から刈る。
そういう足だ。
「アリス!」
言うより早く、ワイヤーが走った。
夜の空気を、銀の線が切る。
ハルトの一歩先へ、金具が突き刺さった。
カン、と乾いた音。
ハルトの足が、わずかに止まる。
「……またか」
声は静かだった。
怒っている、というより。
床に落ちた小石を邪魔そうに見るような声。
アリスは、離れた屋上灯の下で表情を変えない。
「進路制限中です」
「しつこいな、人形」
ハルトの足が、半歩ずれる。
その半歩を、アリスの次のワイヤーがまた削った。
止めきれてはいないが、自由にはさせていない。
——でも、そんなに猶予はない。
オレの足が止まってから、ハルトはこっちを狙ってる。
なにか動かないと、更に状況は悪くなる。
ゴードンの腕に力がこもる。
エナの喉元が押さえられ、胸元のシャツは乱れたまま。ボタンの飛んだ布が夜風に震えている。
ゴードンは勝った顔をしていた。
「ほら、どうしたよ」
にやついた口が、エナの耳元で歪む。
「大事な仲間だろ? 斬れねぇよなぁ?」
斬れない……その通りだ。動けない。
俺はセブンを構えたまま、歯を噛んだ。
……その時、エナが俺を見た。
首を取られたまま。
ゴードンの腕に押さえられたまま。
苦しそうだった。
嫌悪で顔は歪んでいる。
怒りも、まだ消えていない。
目の奥のライムグリーンが、ぎらりと燃えている。
——でも。
笑っていた。
いつもの、ぱっと花が咲くみたいな笑みじゃない。
強がっている顔でもない。
もっと細い。
もっと鋭い。
喉を締められながら、視線だけでこっちを突き刺してくるような笑み。
『やってください』
そう言っているみたいだった。
……息が、一瞬だけ止まる。
「……そういうことかよ」
小さく漏れた。
エナは捕まったんじゃない。
……捕まえさせた。
ゴードンは、エナを盾にしているつもりでいる。
エナを押さえ込んで、俺の手を止めたつもりでいる。
でも、違う。
あの位置。
あの腕。
あの密着。
ゴードンの動きも、力の逃げ場も、全部そこに固定されている。
(無茶するよな、お前)
そう思った。
でも、エナの目は逸れない。
俺を待っている。
セブンを握る手から、余計な力が抜けた。
怒りはある。
焦りもある。
でも全部、沈める。
今見るのは、そこじゃない。
ゴードンの腕。
エナの肩。
首に回った肘。
鎧の角度。
ゴードンの笑みが深くなる。
「おいおい、まさか本気でやる気か?」
エナの目が、まだ俺を見ている。
セブンの声が、手の中で短く沈んだ。
《Mass Blow, standing by》
俺は床を蹴った。
ゴードンの笑みは消えない。
勝ったと思っている顔だ。
こっちが焦って、無理に突っ込んできたと思っている顔だ。
「おいおい、来るのか?」
太い腕が、エナの首をさらに締める。
「こいつごと斬る気かよ?」
答えない。
答える必要もない。
踏み込みが伸びる。足元の亀裂を越える。
瓦礫が靴底で砕けた。
視界が、細くなる。
エナの首に回ったゴードンの腕。
エナの肩。
乱れた胸元にかかった汚い手。
エナの笑み。
黒い刃の軽さ。
足元の亀裂。
全部が、一瞬ずつ流れていく。
奥歯を噛んだ。
止まるな。
信じる。
そう決めたなら、ここで止まるな。
ゴードンの笑みが消え、目が見開かれる。
たぶん、そこでようやく分かったんだろう。
——俺が止まらないことに。
「てめぇ、マジで——」
その声を、細い声が切った。
「離せ」
ハルトだった。
低く、短い。
ゴードンの眉が寄る。
「あ?」
「それは掴んだんじゃない」
ハルトの足が、こっちへ動く。
俺とゴードンの間へ割り込む軌道。
「掴まされてる」
空気が変わった。
でも、遅い。
アリスのワイヤーが走った。
銀の線が、ハルトの踏み出す先を切る。
床に金具が刺さり、火花が跳ねる。
ハルトの足が、一歩遅れた。
「進路制限、成立」
アリスの声は、いつも通り平坦だった。
でも、その一歩で足りる。
エナの目は、オレを見ている。
ゴードンはもう、オレの間合いに入っている。
黒い刃を振る。
軽いセブンが、夜を裂いた。
刃筋は、エナの肩口へ。
ゴードンの腕ごと。
エナの身体ごと。
そう見える角度で。
ゴードンの喉から、初めて笑いじゃない音が漏れた。
「お、おい——」
止まらない。
止めない。
信じると決めた。
なら、最後まで振り抜く。
黒い刃が、ゴードンへ向かう。
ゴードンの腕の中で、エナは逃げない。
逃げられないんじゃない。
逃げない。
ゴードンはエナを盾にしている。
そう思っている。
ハッタリだと、まだ思っている。
「やれるもんなら——」
その瞬間。
エナの身体に、ライムグリーンの光が走った。
「は?」
ゴードンの口から間抜けな声が漏れる。
首に回っていた腕が、ずるりと沈んだ。
エナの喉を締めていたはずの腕が、何もない空間を抱く。
胸元へ伸びていた汚い手も、支えを失って空を掴んだ。
エナが消えた。
——違う。
消えたんじゃない。形を変えた。
人型の輪郭が、光の粒になってほどける。
白いシャツも、銀髪も、歪んだ顔も、全部がライムグリーンの線へ戻っていく。
ゴードンの腕の中で、黒い装甲が収束する。
抱きしめていたはずの女の身体が、黒い刃へ変わっていく。
——巨大な、黒いブレード。
鍔の中央で、丸い眼がぎょろりと開いた。
ゴードンの腕は、まだそこに回っている。
逃げ遅れたんじゃない。抱いている。
女を捕まえたつもりで、刃を。
オレはそのまま、セブンを——
振り抜く!
《Mass Blow, activate》
セブンの声と共に、世界が手の中で重くなった。
腕が持っていかれる。
肩が悲鳴を上げる。
それでも、踏み込む。
足元の亀裂に靴底を噛ませる。
割れた屋上へ、体重ごと押し込む。
エナの眼が、ぎょろりと俺を見た。
次の瞬間、巨大なブレードがゴードンの腕の中で回転した。
ゴリ、と鈍い音がする。ゴードンの肘が内側から押し広げられ、顔が歪む。
厚い刀身が、縦から斜めへ。セブンの軌道を紙一枚ぶんだけ空ける。
——ギリギリだ。
本当に、ギリギリ。
セブンの刃が、エナの黒い刀身をかすめる寸前で抜けた。
鈍刃が、ゴードンの胴へ入る。
——ゴンッ。
金属みたいな、鈍い音がした。
黒い刃を、斜め下から斜め上へ振り切った。
そのすぐ後に、低い衝撃が来た。
空気が、一瞬だけ遅れて弾けた。
ドォン、と。
屋上そのものが、腹の底から鳴った。
ゴードンの身体が、くの字に曲がる。
口が開くが、声は出ない。
腕の中で黒刃になったエナが、その身体の支えを奪う
白い砂塵が横へ飛ぶ。
瓦礫が跳ねる。
屋上灯の光が、揺れた。
「がはっ」
そこでようやく、ゴードンの声が漏れた。
けど、もう身体は浮いていた。
でかい図体が、足元から持ち上がる。
俺の刃筋に押し出されるみたいに、ゴードンが屋上を斜めに飛んだ。
隣のビルへ。
低い放物線なんてもんじゃない。
ほとんど、叩き飛ばされた塊だ。
ゴードンの背中が、隣の屋上の室外機に突っ込んだ。
金属が潰れる。
配管がちぎれる。
白い蒸気が噴き上がる。
さらにその奥のコンクリートへ身体がめり込み、瓦礫が崩れて覆いかぶさった。
音が、遅れて返ってくる。
ガラン。
ガン。
ガガガガ、と。
壊れた室外機のファンが、空回りしていた。
俺はセブンを振り切った姿勢のまま、息を止めていた。
腕が痺れている。
肩も痛い。
腰もやばい。
でも、立っている。
セブンも、手の中にある。
——そして。
目の前で、巨大な黒刃が割れた。
ライムグリーンの光がほどけ、装甲が浮く。
鎧に組み直された黒い金属の中心に、人の輪郭が浮かび上がる。
銀髪が揺れ、エナが俺の少し前に降り立つ。
欠けた装甲。
乱れたシャツ。
まだ消えない怒り。
でも、その目は俺じゃなく、隣のビルを見ていた。
ゴードンの沈んだ瓦礫を、鋭く。
エナが手をかざす
すべての装甲がエナから離れ、軋みながら動き出す。
ライムグリーンの術式光が、夜の中で円を描く。
その全部が、エナの右手側へ集まっていった。
黒い装甲が重なり、捻じれ、長く伸びる。
穂先が形成されるたび、空気がぎしりと鳴った。
——槍の形。
大きすぎる黒い槍。
人間の腕で扱うには、明らかに重すぎる質量。
でも、エナの本体はあっちだ。
重い槍は、掲げられたエナの右手の前に、当然みたいに浮かんでいた。
「翠槍貫牙——」
ライムグリーンの光が、穂先へ収束する。
エナの目が細くなる。
……怒っている。
……嫌悪している。
でも、それだけじゃない。
ゴードンに向けられた怒りの奥に、もっと硬いものがあった。
連れ去られた三人。
もう二度と、そんなふうに扱わせない。
ルカやトマスたち。
そして、まだこの先にいるかもしれない誰かを……。
エナの目は、そう言っていた。
「……ライムッ——! ランサーァァアッ!!」
エナが叫ぶ。
槍が、飛んだ。
いや、飛んだというより、撃ち出された。
空気が割れる。
黒と緑の線が隣のビルへ一直線に走り、瓦礫の山へ突き刺さる。
次の瞬間。
——ズドォォン!!
隣の屋上が沈んだ。
室外機の残骸が跳ね、配管がまとめて千切れる。
白い蒸気が爆ぜ、コンクリート片が夜空へ噴き上がった。
瓦礫の山が、上から押し潰される。
巨大槍は、ゴードンの埋まった場所を貫くように突き立ち、そのまま屋上の床へ縫い止めた。
衝撃が、こっちの屋上まで遅れて届く。
足元が揺れた。
胸の奥が鳴った。
屋上灯が一瞬、ちかちかと瞬く。
……しばらく、音だけが残った。
ガラガラと崩れる瓦礫。
シュー、と漏れる蒸気。
どこかで回り続ける、壊れたファンの間抜けな音。
エナは槍を放った姿勢のまま、肩で小さく息をした。
それから、ゆっくりと腕を下ろす。
「……成功、ですっ」
声は少し震えていた。
それでも、笑っていた。
さっきより、少しだけすっきりした顔で。
俺は息を吐いた。
「無茶すんなよ……」
言いながら、壊れた室外機と崩れたコンクリートに目を向ける。
その中心には、黒い槍が深々と突き立っていた——
——第2部6話につづく




