表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界のソードファンタズマ  作者: 矢崎 那央
第2部5話『この刃は、守るために』
PR
101/117

第3幕『抱かれた刃』


 怒りを、足の裏へ沈める。


 そう決めて、俺は一歩前へ出た。


 割れた屋上の床が、靴底の下で小さく鳴る。さっきエナが叩き潰した縁はまだ白く煙っていて、夜風に混じったコンクリートの粉が舌の奥にざらついた。


 隣で、エナのクナイが細く鳴る。


 並び直した黒い刃の群れ。 ライムグリーンの線が、屋上灯の下でちらちらと揺れている。


 その数は、さっきより多い。

 籠手と肩の装甲は、全部細身の小刀へほどけて、彼女の周りに浮いている。


 むき出しになった腕は灰色の袖だけ。

 守りを薄くしてでも、手数を増やした形。


 さっきみたいに一人で飛び出す気配はない。呼吸も、踏み込みも、ちゃんとこっちの間合いに合わせている。



 ——でも。



 クナイの音が、硬い。


 空中に浮かぶ小刀の群れが、ライムグリーンの線を細かく震わせている。乱れているわけじゃない。陣形は保てている。


 でも、いつものエナなら、もう少し柔らかい。


 守るために広がる時のクナイは、もっと素直に空気へ馴染む。

 今は違う。

 刃の先が、全部ゴードンへ向きたがっている。

 肩にも力が残っていた。


 すね当ての継ぎ目が、歩くたびにカチャリと鳴る。


 怒りは、消えていない。

 悔しさも、たぶんそのままだ。


 ……大丈夫か聞いても、エナは大丈夫と答えるだろう。


 でも、その返事が本当に大丈夫かどうかは、次の一歩でしか分からない。


 なら、見るしかない。

 エナがどう動くか。

 俺がどこを埋めるべきか。



 正面にゴードン。


 少し離れた屋上の奥で、アリスのワイヤーが夜を切っている。

 ハルトの足元へ、肩口へ、逃げ道の先へ。

 捕まえるためじゃない。抜けさせないための線だ。



 ハルトは焦っていなかった。


 ワイヤーの一本一本を、まるで床に落ちた髪の毛でも見るみたいに眺めている。


 避ける。

 止まる。

 ずらす。


 そのたびに、アリスの線が先へ回る。

 向こうは向こうで、ぎりぎりの睨み合いになっていた。


 そして、ゴードンは……

 やはり俺じゃなく、エナを見ていた。



 「さっきの顔、よかったぜぇ」



 瓦礫を踏みながら、ゴードンが笑う。

 その声だけで、胸の奥がざらつく。



 「怒って飛び込んでくる女ってのは、分かりやすくて助かる。なあ?」



 エナのクナイが、また細く鳴った。


 ぴん、と。

 張りすぎた糸みたいな音。


 俺は、セブンを握る手に力を入れる。


 『エナ、乗るな』


 そう言いそうになって、飲み込んだ。


 言葉で止めても、たぶん遅い。

 それに、止めすぎればエナの動きそのものが死ぬ。


 エナは前に出る味方だ。

 守られる側じゃない。

 押さえ込むんじゃなく、合わせるしかない。



 「今度は逃がさねぇぜ?」



 ゴードンの足が、少しだけ沈む。



 ——来る。



 あいつはエナだけを見ている。

 でも、狙っているのはエナだけじゃない。


 エナを挑発して、突出させる。

 それをゴードンが受けて、ハルトが横から刺す。


 さっき崩された形。

 あいつらは、まだそれを狙ってる。



 「アリス!」



 俺は視線をゴードンから外さずに叫んだ。



 「ハルト、半歩でいい。遅らせろ!」



 離れた屋上で、金色の目がこちらを向く。



 「了解。進路制限を継続します」



 返事と同時に、ワイヤーが二本、低く走った。


 ハルトの足が止まる。

 ほんの半歩。


 それだけでいい。


 こっちは、ゴードンを見なきゃいけない。

 エナも見なきゃいけない。

 ハルトまで自由にされたら、目が足りない。


 ゴードンが、こちらのやり取りを見て口元を歪めた。



 「はっ。忙しそうだなぁ、兄ちゃん」



 「お前の相手で忙しいわけじゃねぇよ」



 セブンを低く構える。


 軽口は出た。

 でも、腹の底は冷えていない。


 エナの怒りは消えていないし、肩の力も抜けきっていない。


 怒りは残っている。

 ……俺の中にも。


 だったら、無理に抑える方が"鈍くなる"。

 さっきの形は、ここで捨てる。


 今のエナは“待て”で止まる状態じゃない。

 止まれないってわけじゃないが、

 止まるために余計な力を使う。



 ——オレは思考を切り替えた。

 


 エナが押す。

 俺が拾う。

 アリスがハルトの半歩を削る。


 戦法ってのは、予定通りに動く事じゃない。

 今、一番強い味方を殺さない形に変える物だ。



 「エナ」



 俺はセブンを低く構えたまま言った。

 ゴードンから目は外さない。



 「前、頼む。俺が横につく」



 エナのクナイが、ぴたりと止まった。

 一瞬だけ。


 それから、ライムグリーンの光が静かに並び直す。



 「はいっ」



 怒っている声だ。

 でも、今度は俺の合図を待つ声でもある。


 ゴードンが、エナを見ながら笑う。



 「来いよ。今度こそ抱いてやる」



 「悪いな」



 俺は床を蹴った。



 「エナは、お前が抱きしめていい相手じゃねぇよ」



 エナが前へ出る。

 クナイの群れが、夜の中で一斉に開いた。



 速い。



 ライムグリーンの線が、ゴードンの視界いっぱいに散る。

 上。

 右。

 左。

 足元。


 迷わせるための刃じゃない。

 削るための刃だ。



 「おっ……!」



 ゴードンが笑ったまま腕を上げる。

 金属音。

 クナイが弾かれる。


 エナは止まらない。



 ——けど、一歩深い。



 踏み込みが、さっきより強い。

 強すぎる。


 肩が入っている。

 刃の向きも荒い。

 クナイの間隔が、わずかに詰まりすぎている。


 まずい。

 前に出すぎだ。



 「エナ、横——」



 言い切る前に、エナの身体がさらに前へ滑った。

 ゴードンが待っていたみたいに笑う。



 「そうだ! それだよ!」



 拳が来る。

 真正面。


 エナは避けない。

 脚を上げ、黒い脛当てで受ける。


 重い音が鳴った。


 屋上の床が、エナの足元でひび割れる。



 「っ……!」



 でも、下がらない。


 クナイが背後から回り込む。

 ゴードンの背中へ。

 肩へ。

 膝裏へ。


 ゴードンは身体をひねってかわす。

 かわした先へ、もう一本。


 速い。


 けど、荒すぎる。


 俺はセブンを低く構えたまま、半歩遅れて横へ入った。


 ゴードンの視線が一瞬、俺へ流れる。

 その隙に、エナの膝が前へ出た。


 ぶつかる。


 鎧と肉体が、瓦礫の上で噛み合った。



 「ははっ、いいねぇ! 近い近い!」



 ゴードンの腕が伸びる。

 掴みに来た。


 エナの肩を。

 首元を。

 鎧の継ぎ目を。



 「エナ!」



 エナは返事をしない。

 代わりに、顎を引いた。

 その目が、一瞬だけこっちを見る。


 怒っている。

 悔しそうでもある。


 でも。


 ……見てる……オレを?


 エナのクナイが、硬い音を立てて鳴った。


 さっきより更に荒い。

 でも、全部が外へ散っているわけじゃない。


 一本だけ。

 俺の足元の右側。


 妙に空いている。


 そこだけ、道みたいに。



 「……っ」



 考えるより先に、身体が動いた。


 そこへ入る。


 ゴードンの腕がエナへ伸びる。

 その肘の内側へ、俺はセブンを差し込んだ。



 「セブン、軽く!」



 《質量カット》



 黒い刃が滑る。


 斬るんじゃない。

 押し込む。


 肘の内側。

 関節。

 力の逃げる場所。


 ゴードンの腕が、わずかに跳ねた。



 「ちっ!」



 掴み損ねた。

 エナのクナイが、その瞬間に戻る。

 ゴードンの脇腹へ三本。


 弾かれる。

 でも、身体は揺れた。


 押している。


 けど、エナの踏み込みが深すぎる。

 俺が拾わなければ、今ので掴まれていた。



 視線はズラさず、意識だけ横に向ける。

 視界の端で、細い影……ハルトが動いた。



 「アリス!」



 「対応します」



 ワイヤーが走る。


 ハルトの足元、その半歩先へ。

 金具が突き刺さる。


 ハルトは止まらない。

 ただ、足を置く位置を変える。

 それだけで、刃の角度がズレた。


 エナの脚へ届くはずだった線が、空を切る。



 「……面倒だな」



 ハルトの声が落ちる。


 苛立ちじゃない。

 手順が増えた、というだけの声。


 エナはまだ前だ。


 明らかに、ゴードンの間合いの中。



 「エナ、戻——」



 言い終わる前に、


 外へ散った刃が、ぐるりと回って背後から噛みつく。

 肩。

 膝。

 足首。


 全部、浅い。


 ゴードンの身体が、大きく揺れた。



 「おらっぁ!!」


 

 エナを掠めた拳が、床を叩く。

 砕けた破片が頬をかすめる。



 「ちっ!」



 一歩引いたオレの横で、エナがまた前へ出る。



 「まだ行くのかよ……!」



 思わず声が漏れた。


 クナイが鳴る。

 ライムグリーンの光が、夜の中で乱れて、また揃う。



 エナの動きは、かなり危うい。


 踏み込みは深い。

 クナイの軌道も荒い。

 肩に力が残っているせいで、ゴードンに掴まれる距離まで何度も入っている。


 さっきみたいにハルトが自由だったら、脚を取られて終わっていた。

 アリスが半歩遅らせてくれていなければ、俺のフォローも間に合っていない。


 俺が横へ入る道を見逃していたら、今ごろエナはゴードンに捕まっていた。



 ゴードンが再び踏み込む。


 エナのクナイが三本、正面から落ちる。

 ゴードンはそれを腕で弾いた。


 金属音。


 火花。


 俺は左から入る。

 けどその瞬間、ゴードンの身体が沈む。


 でかい図体が、瓦礫の陰へ低く潜る。

 力任せに来ると思っていた身体が、ぬるりとエナの正面から消えた。



 ——まずい。



 そう思った時には、もう遅い。

 ゴードンはエナの横を抜けていた。



 「エナ!」



 太い腕が、背後からエナの首に回る。

 肩と腕の装甲はない。

 灰色の袖と、胸元の黒いプレートが、ゴードンの腕の中で乱暴に押し潰される。



 「っ……!」



 エナの身体が後ろへ引かれ、浮いていた小刀の陣形が乱れた。


 ……完全に捕まった。


 エナの顔が歪む。

 歯を食いしばっている。怒りも、痛みも、全部そこで止めている。

 ゴードンは、その反応を見下ろして笑った。

 手に入れたみたいに。相手が誰なのかなんて、最初から見ていない顔で。



 「ほらな」



 耳元に口を寄せるみたいに、ゴードンが低く言う。



 「結局、捕まえちまえば同じなんだよ」



 エナの腕に力が入る。喉元が締まり、小刀の光がまた揺れた。

 それを見て、ゴードンの笑みがさらに深くなる。



 「さっきまで威勢よかったのになぁ」



 その声が、屋上の空気を汚していく。


 俺は踏み込もうとして、止まった。


 距離は近い。

 けど……近すぎる。


 下手に斬れば、エナごと巻き込む。

 その一瞬の詰まりを、ゴードンは見逃さなかった。



 「おいおい、どうしたよ。助けに来ねぇのか?」



 笑いながら、もう片方の手が動く。

 ……胸元へ。


 ゴードンの汚い指が、エナの胸部プレートの縁を掴んだ。

 エナの目が細くなる。



 「……触らないで、ください」



 「やだね」



 金属が軋んだ。

 ゴードンが、胸元のプレートを邪魔な蓋みたいに掴む。



 「こいつは邪魔だな」



 力任せに、引く。バキン、と嫌な音がした。

 留め具が弾け、胸のプレートが無理やり剥がされた。

 黒い装甲が屋上の床を転がる。


 その下に残ったのは、灰色のシャツ。首元が引きつれ、布が乱れ、エナの呼吸に合わせて震えている。


 服の隙間へ、ゴードンの汚い指が滑り込む。

 それが何をしようとしているのかは、分かった。


 胸の奥が、冷える。

 怒りより先に、吐き気が来る。


 乱暴に突っ込まれたゴードンの手で、シャツが引きつれ、首元の布が乱れる。

 ボタンがひとつ、弾けるように飛んだ。


 ゴードンの指が、エナの胸元へ食い込む。

 布の下で、柔らかな輪郭が乱暴に歪んだ。


 ゴードンは、それを面白がるみたいに口元を吊り上げる。



 「そういう顔、いいな」



 ゴードンが笑う。



 「怒ってんのに、動けねぇ。嫌なのに、逃げられねぇ。そういうのが一番——」



 言い終える前に、ゴードンの手が更にねじ込まれた。


 布が、嫌な音を立てて引きつれる。


 エナの身体がびくりと跳ねた。

 喉を押さえ込まれているせいで、声にならない息だけが、歯の隙間から漏れる。


 指の形が布越しに柔らかな膨らみの中に沈み、逃げ場を探すみたいに胸元が歪む。

 それを見下ろすゴードンの顔が、どうしようもなく嬉しそうで——



 嬉しそうにニヤついた顔に、吐き気がした。


 エナの顔が歪む。でも、悲鳴は上げない。

 歯を食いしばって、喉の奥で息だけを殺している。


 クナイは乱れている。

 アリスはハルトを止めている。

 エナは捕まっている。


 状況は……どうしようもなく悪い。



 ——でも、エナの目はまだ死んでいなかった。



 嫌悪に歪んでいる。怒りで震えている。

 それでも、俺を見ていた。


 助けを求める目じゃない。泣きそうな目でも、折れかけた目でもない。


 エナは、ゴードンの腕に押さえ込まれたまま、ほんの少しだけ口の端を上げた。


 強がりじゃない。

 あれは——何かを狙っている顔だ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ