第3幕『抱かれた刃』
怒りを、足の裏へ沈める。
そう決めて、俺は一歩前へ出た。
割れた屋上の床が、靴底の下で小さく鳴る。さっきエナが叩き潰した縁はまだ白く煙っていて、夜風に混じったコンクリートの粉が舌の奥にざらついた。
隣で、エナのクナイが細く鳴る。
並び直した黒い刃の群れ。 ライムグリーンの線が、屋上灯の下でちらちらと揺れている。
その数は、さっきより多い。
籠手と肩の装甲は、全部細身の小刀へほどけて、彼女の周りに浮いている。
むき出しになった腕は灰色の袖だけ。
守りを薄くしてでも、手数を増やした形。
さっきみたいに一人で飛び出す気配はない。呼吸も、踏み込みも、ちゃんとこっちの間合いに合わせている。
——でも。
クナイの音が、硬い。
空中に浮かぶ小刀の群れが、ライムグリーンの線を細かく震わせている。乱れているわけじゃない。陣形は保てている。
でも、いつものエナなら、もう少し柔らかい。
守るために広がる時のクナイは、もっと素直に空気へ馴染む。
今は違う。
刃の先が、全部ゴードンへ向きたがっている。
肩にも力が残っていた。
すね当ての継ぎ目が、歩くたびにカチャリと鳴る。
怒りは、消えていない。
悔しさも、たぶんそのままだ。
……大丈夫か聞いても、エナは大丈夫と答えるだろう。
でも、その返事が本当に大丈夫かどうかは、次の一歩でしか分からない。
なら、見るしかない。
エナがどう動くか。
俺がどこを埋めるべきか。
正面にゴードン。
少し離れた屋上の奥で、アリスのワイヤーが夜を切っている。
ハルトの足元へ、肩口へ、逃げ道の先へ。
捕まえるためじゃない。抜けさせないための線だ。
ハルトは焦っていなかった。
ワイヤーの一本一本を、まるで床に落ちた髪の毛でも見るみたいに眺めている。
避ける。
止まる。
ずらす。
そのたびに、アリスの線が先へ回る。
向こうは向こうで、ぎりぎりの睨み合いになっていた。
そして、ゴードンは……
やはり俺じゃなく、エナを見ていた。
「さっきの顔、よかったぜぇ」
瓦礫を踏みながら、ゴードンが笑う。
その声だけで、胸の奥がざらつく。
「怒って飛び込んでくる女ってのは、分かりやすくて助かる。なあ?」
エナのクナイが、また細く鳴った。
ぴん、と。
張りすぎた糸みたいな音。
俺は、セブンを握る手に力を入れる。
『エナ、乗るな』
そう言いそうになって、飲み込んだ。
言葉で止めても、たぶん遅い。
それに、止めすぎればエナの動きそのものが死ぬ。
エナは前に出る味方だ。
守られる側じゃない。
押さえ込むんじゃなく、合わせるしかない。
「今度は逃がさねぇぜ?」
ゴードンの足が、少しだけ沈む。
——来る。
あいつはエナだけを見ている。
でも、狙っているのはエナだけじゃない。
エナを挑発して、突出させる。
それをゴードンが受けて、ハルトが横から刺す。
さっき崩された形。
あいつらは、まだそれを狙ってる。
「アリス!」
俺は視線をゴードンから外さずに叫んだ。
「ハルト、半歩でいい。遅らせろ!」
離れた屋上で、金色の目がこちらを向く。
「了解。進路制限を継続します」
返事と同時に、ワイヤーが二本、低く走った。
ハルトの足が止まる。
ほんの半歩。
それだけでいい。
こっちは、ゴードンを見なきゃいけない。
エナも見なきゃいけない。
ハルトまで自由にされたら、目が足りない。
ゴードンが、こちらのやり取りを見て口元を歪めた。
「はっ。忙しそうだなぁ、兄ちゃん」
「お前の相手で忙しいわけじゃねぇよ」
セブンを低く構える。
軽口は出た。
でも、腹の底は冷えていない。
エナの怒りは消えていないし、肩の力も抜けきっていない。
怒りは残っている。
……俺の中にも。
だったら、無理に抑える方が"鈍くなる"。
さっきの形は、ここで捨てる。
今のエナは“待て”で止まる状態じゃない。
止まれないってわけじゃないが、
止まるために余計な力を使う。
——オレは思考を切り替えた。
エナが押す。
俺が拾う。
アリスがハルトの半歩を削る。
戦法ってのは、予定通りに動く事じゃない。
今、一番強い味方を殺さない形に変える物だ。
「エナ」
俺はセブンを低く構えたまま言った。
ゴードンから目は外さない。
「前、頼む。俺が横につく」
エナのクナイが、ぴたりと止まった。
一瞬だけ。
それから、ライムグリーンの光が静かに並び直す。
「はいっ」
怒っている声だ。
でも、今度は俺の合図を待つ声でもある。
ゴードンが、エナを見ながら笑う。
「来いよ。今度こそ抱いてやる」
「悪いな」
俺は床を蹴った。
「エナは、お前が抱きしめていい相手じゃねぇよ」
エナが前へ出る。
クナイの群れが、夜の中で一斉に開いた。
速い。
ライムグリーンの線が、ゴードンの視界いっぱいに散る。
上。
右。
左。
足元。
迷わせるための刃じゃない。
削るための刃だ。
「おっ……!」
ゴードンが笑ったまま腕を上げる。
金属音。
クナイが弾かれる。
エナは止まらない。
——けど、一歩深い。
踏み込みが、さっきより強い。
強すぎる。
肩が入っている。
刃の向きも荒い。
クナイの間隔が、わずかに詰まりすぎている。
まずい。
前に出すぎだ。
「エナ、横——」
言い切る前に、エナの身体がさらに前へ滑った。
ゴードンが待っていたみたいに笑う。
「そうだ! それだよ!」
拳が来る。
真正面。
エナは避けない。
脚を上げ、黒い脛当てで受ける。
重い音が鳴った。
屋上の床が、エナの足元でひび割れる。
「っ……!」
でも、下がらない。
クナイが背後から回り込む。
ゴードンの背中へ。
肩へ。
膝裏へ。
ゴードンは身体をひねってかわす。
かわした先へ、もう一本。
速い。
けど、荒すぎる。
俺はセブンを低く構えたまま、半歩遅れて横へ入った。
ゴードンの視線が一瞬、俺へ流れる。
その隙に、エナの膝が前へ出た。
ぶつかる。
鎧と肉体が、瓦礫の上で噛み合った。
「ははっ、いいねぇ! 近い近い!」
ゴードンの腕が伸びる。
掴みに来た。
エナの肩を。
首元を。
鎧の継ぎ目を。
「エナ!」
エナは返事をしない。
代わりに、顎を引いた。
その目が、一瞬だけこっちを見る。
怒っている。
悔しそうでもある。
でも。
……見てる……オレを?
エナのクナイが、硬い音を立てて鳴った。
さっきより更に荒い。
でも、全部が外へ散っているわけじゃない。
一本だけ。
俺の足元の右側。
妙に空いている。
そこだけ、道みたいに。
「……っ」
考えるより先に、身体が動いた。
そこへ入る。
ゴードンの腕がエナへ伸びる。
その肘の内側へ、俺はセブンを差し込んだ。
「セブン、軽く!」
《質量カット》
黒い刃が滑る。
斬るんじゃない。
押し込む。
肘の内側。
関節。
力の逃げる場所。
ゴードンの腕が、わずかに跳ねた。
「ちっ!」
掴み損ねた。
エナのクナイが、その瞬間に戻る。
ゴードンの脇腹へ三本。
弾かれる。
でも、身体は揺れた。
押している。
けど、エナの踏み込みが深すぎる。
俺が拾わなければ、今ので掴まれていた。
視線はズラさず、意識だけ横に向ける。
視界の端で、細い影……ハルトが動いた。
「アリス!」
「対応します」
ワイヤーが走る。
ハルトの足元、その半歩先へ。
金具が突き刺さる。
ハルトは止まらない。
ただ、足を置く位置を変える。
それだけで、刃の角度がズレた。
エナの脚へ届くはずだった線が、空を切る。
「……面倒だな」
ハルトの声が落ちる。
苛立ちじゃない。
手順が増えた、というだけの声。
エナはまだ前だ。
明らかに、ゴードンの間合いの中。
「エナ、戻——」
言い終わる前に、
外へ散った刃が、ぐるりと回って背後から噛みつく。
肩。
膝。
足首。
全部、浅い。
ゴードンの身体が、大きく揺れた。
「おらっぁ!!」
エナを掠めた拳が、床を叩く。
砕けた破片が頬をかすめる。
「ちっ!」
一歩引いたオレの横で、エナがまた前へ出る。
「まだ行くのかよ……!」
思わず声が漏れた。
クナイが鳴る。
ライムグリーンの光が、夜の中で乱れて、また揃う。
エナの動きは、かなり危うい。
踏み込みは深い。
クナイの軌道も荒い。
肩に力が残っているせいで、ゴードンに掴まれる距離まで何度も入っている。
さっきみたいにハルトが自由だったら、脚を取られて終わっていた。
アリスが半歩遅らせてくれていなければ、俺のフォローも間に合っていない。
俺が横へ入る道を見逃していたら、今ごろエナはゴードンに捕まっていた。
ゴードンが再び踏み込む。
エナのクナイが三本、正面から落ちる。
ゴードンはそれを腕で弾いた。
金属音。
火花。
俺は左から入る。
けどその瞬間、ゴードンの身体が沈む。
でかい図体が、瓦礫の陰へ低く潜る。
力任せに来ると思っていた身体が、ぬるりとエナの正面から消えた。
——まずい。
そう思った時には、もう遅い。
ゴードンはエナの横を抜けていた。
「エナ!」
太い腕が、背後からエナの首に回る。
肩と腕の装甲はない。
灰色の袖と、胸元の黒いプレートが、ゴードンの腕の中で乱暴に押し潰される。
「っ……!」
エナの身体が後ろへ引かれ、浮いていた小刀の陣形が乱れた。
……完全に捕まった。
エナの顔が歪む。
歯を食いしばっている。怒りも、痛みも、全部そこで止めている。
ゴードンは、その反応を見下ろして笑った。
手に入れたみたいに。相手が誰なのかなんて、最初から見ていない顔で。
「ほらな」
耳元に口を寄せるみたいに、ゴードンが低く言う。
「結局、捕まえちまえば同じなんだよ」
エナの腕に力が入る。喉元が締まり、小刀の光がまた揺れた。
それを見て、ゴードンの笑みがさらに深くなる。
「さっきまで威勢よかったのになぁ」
その声が、屋上の空気を汚していく。
俺は踏み込もうとして、止まった。
距離は近い。
けど……近すぎる。
下手に斬れば、エナごと巻き込む。
その一瞬の詰まりを、ゴードンは見逃さなかった。
「おいおい、どうしたよ。助けに来ねぇのか?」
笑いながら、もう片方の手が動く。
……胸元へ。
ゴードンの汚い指が、エナの胸部プレートの縁を掴んだ。
エナの目が細くなる。
「……触らないで、ください」
「やだね」
金属が軋んだ。
ゴードンが、胸元のプレートを邪魔な蓋みたいに掴む。
「こいつは邪魔だな」
力任せに、引く。バキン、と嫌な音がした。
留め具が弾け、胸のプレートが無理やり剥がされた。
黒い装甲が屋上の床を転がる。
その下に残ったのは、灰色のシャツ。首元が引きつれ、布が乱れ、エナの呼吸に合わせて震えている。
服の隙間へ、ゴードンの汚い指が滑り込む。
それが何をしようとしているのかは、分かった。
胸の奥が、冷える。
怒りより先に、吐き気が来る。
乱暴に突っ込まれたゴードンの手で、シャツが引きつれ、首元の布が乱れる。
ボタンがひとつ、弾けるように飛んだ。
ゴードンの指が、エナの胸元へ食い込む。
布の下で、柔らかな輪郭が乱暴に歪んだ。
ゴードンは、それを面白がるみたいに口元を吊り上げる。
「そういう顔、いいな」
ゴードンが笑う。
「怒ってんのに、動けねぇ。嫌なのに、逃げられねぇ。そういうのが一番——」
言い終える前に、ゴードンの手が更にねじ込まれた。
布が、嫌な音を立てて引きつれる。
エナの身体がびくりと跳ねた。
喉を押さえ込まれているせいで、声にならない息だけが、歯の隙間から漏れる。
指の形が布越しに柔らかな膨らみの中に沈み、逃げ場を探すみたいに胸元が歪む。
それを見下ろすゴードンの顔が、どうしようもなく嬉しそうで——
嬉しそうにニヤついた顔に、吐き気がした。
エナの顔が歪む。でも、悲鳴は上げない。
歯を食いしばって、喉の奥で息だけを殺している。
クナイは乱れている。
アリスはハルトを止めている。
エナは捕まっている。
状況は……どうしようもなく悪い。
——でも、エナの目はまだ死んでいなかった。
嫌悪に歪んでいる。怒りで震えている。
それでも、俺を見ていた。
助けを求める目じゃない。泣きそうな目でも、折れかけた目でもない。
エナは、ゴードンの腕に押さえ込まれたまま、ほんの少しだけ口の端を上げた。
強がりじゃない。
あれは——何かを狙っている顔だ。




