第2幕『怒りの置き場所』
瓦礫の上で、ゴードンが膝を鳴らした。
崩れた屋上の縁。
そこに残った亀裂を、俺とエナが挟む。
アリスは少し離れた位置で、ハルトの進路を細い線で切っていた。
ワイヤーが夜の中に張られ、屋上灯の白い光を一瞬だけ拾って消える。
こっちは二対一……いや、三対一だ。
でも、ゴードンは笑ったまま。
「いいねぇ」
瓦礫を踏み潰しながら、ゴードンが一歩近づく。
アイツの目は、俺ではなくエナへ向いていた。
——嫌な視線だ。
……ああいう目、見覚えがある。
電車で見かけたら、無言で一両ずれるタイプのやつ。
敵を見る目じゃない。
こっちの人数も、立ち位置も、武器も見てない。
エナの鎧の隙間で視線を止めたまま、ゴードンは口元だけで笑っていた。
戦場でその目ができるの、逆に才能だろ。
もちろん、いらない方の。
「……へぇ。顔はお姫様みてぇなのに、
身体つきは随分と誘ってんなぁ」
ゴードンが、舌で唇の端を湿らせた。
「その鎧の下がどうなってんのか、見てみてぇなぁ……」
エナの肩が、びくっと小さく跳ねた。
ぞわぞわっと来たものを払うみたいに、両腕で自分の肩を抱く。
「……っ」
顔が、露骨に歪む。
うっかり変な虫が服の中に入ってきた時みたいな……。
そういう種類の反応だ。
「……リ、リクさん」
エナはゴードンを見たまま、こっちへ小さく声を落とす。
「アイツ、なんていうか。すごく……ダメです」
語彙がちょっと迷子だった。
でも、言いたいことは分かる。
全身で「ムリっ」と表現してた。
「ああ? なんだよ。褒めてんだぜ? そう怖い顔すんなよ、傷付くじゃねぇか」
ゴードンが、そこで笑う。
普段のエナなら、自分の身体の話をされても、たぶんこんな反応はしない。 新婚だのお嫁さんだの、こっちが頭を抱える方向へ真顔で飛んでくるやつだ。
でも、これは違う。
恥ずかしいとかじゃない。 自分の身体が、勝手に相手の変な棚へ置かれたことへの、反射みたいな拒絶だ。
「分かる。男の中でも、かなり風通しの悪い棚に入ってるタイプだな」
軽口だけ返して、俺はセブンを構え直す。
「右、いけるか」
エナは一度だけ頷き、肩を抱いていた手が離れる。
嫌悪は消えていない。ただ、奥へ押し込んだ。
「大丈夫ですっ!
斬光輪舞……展開しますっ」
短い返事とともに、エナが前へ出た。
次の瞬間、エナの両腕の装甲が外れた。
黒い籠手が、左右へ割れる。
ライムグリーンの術式光を引きながら、細い小刀の群れへ変形していく。
「いきます」
エナが踏み込んだ。
正面からじゃない。
一歩、右。
その動きに合わせて、俺も左へ流れる。
ゴードンの視線が、一瞬だけ迷った。
——エナを、"女"として見るか。"敵"として見るか。
その迷いで少し遅れた。
エナのクナイが三本、斜め上から落ちる。
ゴードンは舌打ちしながら肩を引いた。
その逃げ道に、俺が入る。
「セブン、軽く!」
《質量カット》
黒い刃が軽くなる。
斬るためじゃなく、速く振るため……。
ゴードンの膝を狙って、低く払う。
「ちっ……!」
ゴードンが後ろへ跳ぶ。
だが、そこへエナのクナイが回り込む。
一本。
二本。
三本。
屋上の空気に、ライムグリーンの線が走った。
ゴードンは身体をひねって避ける。
速い。
雑に見えるのに、反応は悪くない。
けど、追い詰めてるのはこっちだ。
「おいおい、やるじゃねぇか!」
ゴードンが笑う。
笑いながら、俺の斬撃を腕で弾いた。
硬い。
鈍い衝撃が手首まで来る。
手甲か、何か仕込んでんな……。
その反動を使って、俺は横へ逃げた。
代わりに、エナが前へ出る。
エナの重装が、屋上灯の下で影を落とした。
ゴードンがその影の中で、また笑う。
「いい身体してる上に、動きも軽いんだなぁ」
返事はしない。けど、エナの眉が寄る。
クナイがゴードンの足元を切る。
瓦礫が跳ねる。
その隙に、俺がもう一度踏み込む。
「下見るな、エナ! 肩で合わせろ」
「はいっ!」
エナの返事が、今度は少しだけ戻った。
俺が左から押す。
エナが右を塞ぐ。
アリスのワイヤーが、離れたところでハルトの影を止める。
——流れは、悪くない。
少なくとも、ゴードンは押せている。
だが、アイツはオレじゃなく、エナを見ていた。
「いやぁ、もったいねぇな」
ゴードンが一歩下がる。
その足を、クナイが追う。
「あの田舎娘どもも、まぁ不味くはなかったけどよ。
オマエは比べもんにならねぇくれぇ、美味そうだ」
『田舎娘』
言葉が、引っかかった。
足が、止まりかけた。
違う。
止まるな。
頭では分かっているのに、胸の奥で何かが冷えた。
ただの悪口なら、流せた。
村の人たちを見下した、いつもの下卑た言い方だと、そう処理できた。
——でも、違う。
ここで、こいつがその言葉を出す意味。
『若い女だけ別に連れて行かれた』
トマスがそう言った時点で、嫌な推測はしていた。
したくなくても、してしまっていた。
敵は村人を後始末しに来ている。
男たちは殺され、女たちは分けられた。
それなら、別にされた三人が何のために連れて行かれたのか。
でも、まだ推測だった。
そうであってほしくないから。
間に合う可能性があるなら、それに賭けたかったから。
俺は、その先を言葉にしなかった。
——なのに。
ゴードンは、笑ったまま続けた。
「あいつらもまあ、泣き声だけは悪くなかったけどよ」
嫌な推測が、当たった。
……それも、最悪の形で。
エナの光が、強くなる。
「お前はいいなぁ。身体も顔も……反応も良さそうだ」
耳の奥で、音が遠くなった。
まだ確実じゃない。
あいつの口から出たのは、断片だけだ。
三人全員がどうなったのか、まだ見たわけじゃない。
生きている可能性だって、ゼロだと決まったわけじゃない。
でも。
多分、そうだ。
少なくとも、こいつは三人を"生かす対象"として見ていない。
人質としても、保護対象としても、情報源としても見ていない。
もう終わったものを思い出す声だった。
遊び終えたものを、雑に床へ転がしている声だった。
「……お前」
声が出た。
自分でも、低いと思った。
ゴードンがこっちを見る。
「あ?」
「三人……どこにいる?」
ゴードンは、一瞬だけきょとんとした。
それから、面倒くさそうに笑った。
「ああ? 持って帰った女どもか?」
軽い。
あまりにも、軽い。
「知らねぇよ。最後まで保たなかったやつもいたし、うるせぇから黙らせたのもいたし」
喉の奥が、詰まった。
確実じゃない。
まだ、確実じゃない。
そう言い聞かせても、もう遅かった。
ゴードンは隠していない。
言葉を選んでもいない。
本人の中では、重大なことを言ったつもりすらない。
「ま、片付けはハルトがやったんじゃねぇの?」
視界の端で、ハルトが一瞬だけこちらを見た。
否定はしない。
ただ、ゴードンを見る目だけが、少し冷たくなった。
余計なことを喋った道具を見る目だった。
それで、足りてしまった。
まだ確かめていない。
誰の死体も見ていない。
誰の最期も聞いていない。
でも、身体の方が先に理解していた。
ヘルガのところの奥さんと娘。
それと、ミラの友達のサーシャ。
名前しか知らない。
どんな声で笑うのかも、誰を待っていたのかも、俺は知らない。
でも、ミラがサーシャの名前を呼んだ時の声は覚えている。
ガルドが膝の上で拳を握った音も。
トマスが、苦しそうに、それでも喋ろうとした顔も。
——全部、ここに繋がっていた。
唇の内側を噛んだ。
血の味がした。
怒鳴りそうになった。
そのまま踏み込みそうになった。
でも、その前に……エナが動いた。
「……ふざけるなぁっ!!」
エナの荒れた声を、初めて聞いた。
ライムグリーンの光が爆ぜる。
エナのクナイが一斉に前へ走った。
本人も、その後を追うように踏み込む。
速い。
さっきより、明らかに。
守るためじゃない。
止めるためでもない。
今のエナは……怒っていた。
それが、悪いわけじゃない。
むしろ、まともだ。
あの言葉を聞いて怒れない方がおかしい。
……でもッ!
「エナッ!」
ハルトが動いていた。
ゴードンじゃない。
エナが踏み込む、その先。
そこへ、細い影が滑る。
まるで、怒りで伸びた軌道を最初から待っていたみたいに。
「……出ると思った」
ハルトの声が、静かに落ちる。
手元で、薄い刃が光った。
「まずは……脚」
「アリス!」
言い終えるより早く、ワイヤーが走った。
——カチリ。
黒髪が揺れる。
アリスの身体が横へ抜ける。
ワイヤーがエナの肩口へ引っかかり、無理やり軌道をずらした。
ハルトの刃が、空を切る。
でも、完全には外れない。
——金属音。
——火花。
エナの太腿を守る装甲片が、半分えぐれた。
人型の身体そのものには血も出ない。
でも、痛みはあるのか、エナの顔が一瞬だけ歪む。
「っ……!」
エナの身体が、屋上を滑った。
クナイの陣形が崩れる。
ゴードンが、その隙を逃さない。
「ほらなぁ!」
瓦礫を蹴って、こっちへ詰めてくる。
俺は反射でセブンを上げた。
「セブン、重く! 腕が死なない範囲で!」
《評価:要求が曖昧。適正値へ調整》
重くなった刃を、盾みたいにぶつける。
ゴードンの拳とセブンが噛み合った。
——衝撃。
腕が痺れる。
それでも、押し負けるわけにはいかない。
後ろへ一歩下がったら、形が崩れる。
形が崩れたら、ハルトが抜ける。
「あっぶね……!」
奥歯を噛んで踏ん張る。
アリスのワイヤーが、すぐ足元へ支点を作った。
俺はそれを踵に引っかけて、身体を横へ逃がす。
ゴードンの拳が、さっきまで俺のいた場所を抜いた。
屋上の床が砕ける。
……やっぱり、力はバカ強い。
まともに食ったらまずい。
でも、今はそこじゃない。
——崩れかけた。
エナが怒ったからじゃない。
エナの怒りを、あいつらが利用した。
そこを間違えちゃ駄目だ。
「エナ!」
俺は叫ぶ。
責める声にならないように、短く切った。
「戻れ! 一回、形を直す!」
エナが、床に手をついたまま顔を上げる。
目が揺れていた。
悔しさと怒りと、たぶん自分が崩したことへの焦り。
でも、返事はすぐだった。
「……はいっ!」
エナが立ち上がる。
装甲片が、欠けた分を補うように再配置される。
クナイが空中で並び直す。
アリスも、ハルトから視線を切らないまま告げた。
「エナの突出に対し、敵対個体ハルトが即時介入。
以後、感情起因の単独突入は非推奨です」
「分かってますっ!!」
エナの声が、少しだけ悔しそうに跳ねる。
でも、ちゃんと戻ってきた。
それでいい。
俺は、ゆっくり息を吐く。
胸の奥は、まだぐちゃぐちゃだった。
三人は、たぶんもう戻らない。
村に帰れない。
誰かの家に、空いた場所だけが残る。
……だからこそ。
ここで俺たちが崩れたら、今度はルカたちまで帰れなくなる。
怒るのは後だ。
今は、こいつらを通さない。
「セブン」
《待機中》
「ゴードンの動き、力任せに寄ってる。反応は悪くないけど、先読みはハルトほどじゃない」
《同意。敵対対象ゴードンは視覚反応依存傾向が強い》
「じゃあ、視線を散らす」
《成立可能性あり》
俺はエナへ視線を振る。
「エナ。正面は任せる。でも一人で刺しに行くな」
「……はいっ」
「怒るのはいい」
そこで、一回だけ言葉を切る。
エナの目が、俺を見る。
俺も、たぶん表情は歪んでいた。
うまく隠せてない。
「俺も怒ってる」
短く言う。
「だから、崩さず行く」
エナは、一瞬だけ唇を結んだ。
それから、強く頷く。
「……はいっ」
返事は、ちゃんと戻ってきた。
でも、完全じゃない。
声はいつものエナに近い。
けど、目の奥に残った光だけは、さっきよりずっと鋭かった。
……悔しさ。怒り。
それから、自分が一度崩されたことへの焦り。
全部を飲み込んだ上で、まだ喉の奥に引っかかっている。
『……大丈夫か?』
そう聞きそうになって、やめた。
今それを聞けば、エナはたぶん『大丈夫ですっ』と答える。
答えるに決まっている。
でも、その返事が本当に大丈夫かどうかは、次の一歩でしか分からない。
だから俺は、エナの前に立つんじゃなく、隣に立った。
止めるためじゃない。
崩れた時に、すぐ支えられる位置へ。
「……無理に刺しに行くな。合わせるぞ」
「はいっ」
今度の返事は短かった。
戦える声だ。
でも、まだ熱い。
「なんだよ。もっと泣けよ。もっと怒れよ。その方が面白ぇだろ」
「悪いな」
俺はセブンを構え直す。
「面白がらせる気はねぇよ」
黒い刃を低く構える。
足場を確認する。
アリスのワイヤー。
エナのクナイ。
ハルトの位置。
ゴードンの視線。
全部、もう一回並べ直す。
怒りはある。
悔しさもある。
でも、それを置く場所は、今じゃない。
「アリス」
「はい」
「ハルトは追わなくていい。抜けようとする先だけ切れ。完全に止めようとするな」
金色の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……追撃ではなく、進路制限を優先します」
「頼む」
ハルトが、わずかに足をずらした。
それだけで、アリスのワイヤーが一本、先回りする。
ハルトの目が、初めて少しだけ細くなった。
「……線がうるさいな」
怒っているわけじゃない。 ただ、手順の中に余計な手間が増えた、みたいな声だった。
俺は一歩、前へ出る。
今度は、怒りに押されてじゃない。
怒りを、ちゃんと足の裏へ沈めて。
「鈍い方から、予定通り崩す」
セブンの黒い刃が、屋上灯を吸った。
……一歩、前へ出た。




