今日の空は、不穏な気配
木々生い茂る山々に囲まれたスルメ村。
そこでは、牧歌的な草原が広がり、山から流れてくる豊富な水を活かし、農作物の生産と酪農が盛んだ。
また、人間界域最果ての地であり、ビヴァリー王国の辺境にあたる。
豊かな自然に囲まれた、のどかな田舎の村である。
村人たちの一日は、日の出と共に始まる。
「おはよう、お婆ちゃん」
いつも自分よりも早くに起床している祖母は、父特製のロッキングチェアに座り、編み物をしている。
「やあ、おはよう。アシュリー」
焼きたてのパンの香ばしい匂いが彼女の鼻腔をくすぐり、食欲を掻き立てる。
――美味しそう。ちょっとくらいなら……と。
「こら。食事は支度を終えてからよ。早く顔を洗ってきなさい」
摘み食いをしようとした手を母に叩かれた。
「はーい」と不貞腐れた声で返事をする。
「伸ばさない!」
顔を洗って着替えを済ませたアシュリーはようやく食事にありつけた。
「やっぱり、美味し〜い!」
両親と祖母は微笑んだ。
「そりゃそうだ。なんて言ったって、この父さんが焼いたんだからなあ! ハッハッハッ……!」
父は、胸を反らせて豪快に口を開けて笑う。
「フン。私たちの作った麦が上等なんですよ!」
母はツンとした表情で、彼を睨む。
「なにィ!? 俺の焼き方は関係無いと言うつもりか!?」
父はガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、抗議する。
「アナタだって、素材があってこその美味しいパンだということを、認識してください?」
母もそれに応戦して、立ち上がり、静かに椅子を仕舞う。
父と母の間に火花が散っているようだ。彼ら村人たちは自分のたちの仕事に誇りを持っている。ただ、2人の場合は少しだけその誇りが高いのだ。
「これこれ、かわいい娘の前で喧嘩とは、おぬしら、恥ずかしくないのかね」
一触即発の場面で、祖母が口調は穏やかに表情は少し険し目に仲裁に入る。
「ま、まあ、喧嘩するほど仲が良いって言うしね。パンが美味しいのは、焼き方も工夫が必要だし、素材のこだわりもあってこそ、だと思うよ……?」
アシュリーも苦笑いで祖母のあとをつぐ。
「だだだ、だよなあ、アシュリー」
「そ、そうね。その通りだわ、アシュリー」
良かった。落ち着いたようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「全く……朝から騒がしいものだね」
祖母はやれやれと言って、また編み物を再開した。
「……ふふっ」 アシュリーは思わず笑みを零した。何故かはわからない。でも、何となく今の家族の姿を見て、面白いような嬉しいような気持ちになった。
それにつられて、みんなも笑いだした。
朝食の席はみんなの笑い声に包まれた。
食器を洗い、片付け終えたら、今日の仕事に取り掛かる。アシュリーの今日の担当は、薪拾いだ。
背負子を持って、外へ向かおうとすると、
「ちょっと、待ちな。アシュリー」
祖母から呼び止められた。
「どうしたの、お婆ちゃん」
神妙そうな顔をしている。
「今日の空は、何か怪しい。不穏な気配を孕んでいる」
「そうかなぁ? 何とも思わないけど……?」
「いいや。今日は風の方向がおかしい。東から吹く風だ。いつもはそんな方向からは来ない」
「東って……あの……?」
「ああ、山脈の向こうにある、災厄の悪魔の封印……」
「……そんなの、ただの迷信みたいなものでしょ? それとも、何か、関係が……?」
「いや、何もハッキリとは解らん。ワシの思い過ごしかもしれん。……じゃが、気をつけるんだよ。早めに帰ってきなさい……」
「……うん。わかった」アシュリーはしっかりと頷いた。「それじゃあ、行ってきまーす」つとめて明るく声を出す。暗い雰囲気を吹き飛ばしたかった。
「はい、行ってらっしゃい。くれぐれも気をつけてな」
バタン、と扉が閉まり、アシュリーは家を後にした。
向かうのは近くの山の麓にある森。そこに落ちている木の枝を集めるのだ。
「風……確かに、東からだ……」
祖母にあんな意味深なことを言われたせいか、東の空が澱んで見える。
あの山の向こうにいる――。
――災厄の悪魔。
それは、数千年前に世界の3分の1を滅ぼしたと言われる伝説上の悪魔。
魔王を倒した勇者たちの活躍によって、悪魔は封印された。その封印は今も世界の果てにあり、近づく者を灰に変えると言われる。
ただし、それを見たものは存在しない。
アシュリーはその話を祖母に以前から聞いていた。だが、それのことを伝説、架空、空想の世界の話だと思っていた。
それなのに、祖母は真剣にアシュリーを心配していた。
――山の向こうに今もいると言う、悪魔。
もう一度、東の空を見やる。
ハッキリと関係が有るとは言えない。それは、裏返せば、ハッキリと関係が無いとも言えないのだ。
――ゴォォォォォォォォオオオオ……。
「キャッ……」
風が強くなってきた。木々が唸るように揺れている。
確かに、今日の天気はあまり良くない。早く充分に集めて、撤収しよう。
森の中へ足を踏み入れると、薄暗く感じる。これも、きっと祖母の話のせいだ。陰鬱な雰囲気に呑まれてしまっているだけだ。
自分にそう言い聞かせていないと、不安で堪らない。
――バサバサッ……バサバサバサッ……。
その一瞬に、体が強ばる。
「なんだ、鳥かぁ」
何羽もの鳥が鳴きながら、森から飛び去っていくようだ。向かう方向は西。鳥の飛行には、追い風は不都合なはずなのに。
――ザアアアアアアァァァァァァ……。
また強い風が吹き、木々が唸りをあげる。
――ゴオオオオオオオオオオオオオオオ……オオオオオオオオオオオ……オオオオオオオオオオオ……。
先程とは桁違いの突風が吹き荒れる。枝葉が空へ飛び散る。
吹き飛ばされそうになる体を、太い幹に捕まって、耐え忍んだ。
強風のため目を開けていられない。薄目で、不確かだが、前方にある木々がなぎ倒されるのが見えた。
よくよく観察すると、ただ倒れているのではない。健康的な茶色の表皮が、白く変貌していく。まるで生気を吸い取られているようだ。灰のようになった木はボロボロと崩れ落ちていく。
その周囲の木々も同様に次々と……。また、木だけではなく、草花も枯れていってしまう。自然が超高速で腐敗していくのだ。
その腐敗の波は、強風と共に、アシュリーの方へ押し寄せてくる。
ついに捕まっていた樹木までもが、崩れ落ちだした。枯葉枯れ木が頬を掠めていく。
――もう、ダメだ。
そう、諦めかけた時。不意に、嵐は止むのだった。
支えるものを失い、アシュリーは地面にへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……」
息が切れていた。肩で呼吸している。髪についた葉を払い落とし、乱れた髪を後ろに流して、視界を明るくさせる。視線を上にあげて。
目の前の光景に驚愕した。
森林の中に、巨大なサークルが出現していた。その円の中には生物の欠片も残されていなかった。全て死に絶え、地面が剥き出しになっている。
アシュリーは丁度その円周の外にいた。開いた口が塞がらない。もう一歩中へいたら、自分はどうなっていたことか。
円の中心に人影が見える。
それは、真っ白な髪を持った――年齢はアシュリーよりも少し上くらいの青年で、髪と同様に肌も真っ白だ。体つきは筋肉質でやや大柄だ。
仁王立ちをしている。
そこまで見て、初めて恥ずかしさを覚えた。顔を手で覆い隠しても、もう遅かった。
――なんで、裸なのよ……もうっ。




