無給の愉悦
春の夜風は冷たく、それでも達成感からか心地良くもある、会社の前の歩道に出ると植木に咲いた小さな花が揺れていた。すぐに会社の駐車場に着き、少ない中からいつも通りの位置にある自分の車に乗り込み帰路につく。車を進めてから二十分ほどかけてアパートの駐車場に着いた、車では電子タバコを吸って、いつも通りの音楽をかけている、アパートの駐車場に着いて車を止めても、それを止めない。それどころか新たにタバコを一本取り出した、すぐに吸うわけではなく、迷っているのかそのままタバコを観察する様に見て、結局は吸い始めた。どうせ吸うであろう事は分かっていた、こんな事は毎回であり、この男は遅くに帰って来てもすぐには車を出ない。理由は明白であった、時間を見ると八時半頃を示している、アパートに着いて十分ほど経っていた、無給での三時間ほどの仕事による愉悦、そうしてでっち上げた達成感、アパートに着くころにはもう冷めきっている。残るのは徒労感と憂鬱と、そして明日への恐怖。そんな事から逃げる為に車に立て籠もっている、意味がないことは承知している、だからこそ毎日の様にタバコを観察しているのだから。そしてまた一本取り出し、今度は迷わず吸い始めた、これもいつも通りの事である。
時間を見るともうすぐ九時になる、明日への恐怖はあるが仕事への不安も出てくる。これ以上は明日の仕事に支障がでる、感情より理性が勝つ、仕事がなければこんな憂鬱な生活も出来ない。金銭的に余裕がないわけではない。仕事をしないのは世間に顔向け出来ない生き方の様な気がする、こんな人生など早くに終わってしまえばいい、そう思いながら車から出た。
夜風は一層冷たい。まだ、ほとんどの部屋のカーテンの隙間から光が見える。車からは数歩でアパートの階段に着く、男の部屋は階段を上がってすぐの部屋だ。そこまでの数歩を例のごとく俯いて行こうとした時である。夜空から蒼白い光が差し、俯いた顔を上げあの流星を見た。その一瞬の夜瀾に男は少しの間立ち尽くしていた、見上げた夜空には澄んだ星空にほっそりとした三日月が夜空との境界を曖昧に艶めく。また俯くと何事もなかったかのように階段を上がり、部屋の鍵を開けるとより暗い中にするりと入って、静かに扉が閉まると夜には鍵をかける音だけがした。
帰って来ると着換えを持って風呂へ向かい、シャワーだけで済まして出てきた。体を拭いて寝間着に着替えると、洗面台の前に居座って何やらジッと鏡を見つめている。夜遅く、男は独り身であるので部屋中が寂莫として、洗面台にはタバコは置いていない様子、車に居座っているより余程不気味である。もし鏡に映っているのが女の濡れ髪であったら、いつ襲ってくるかもしれないと、さぞかし怖かろうて容易に目が離せまい。だが濡れ髪の中年男が映っていたらどうだろうか、判然としない黒目と萎れた皺には今にも消えてしまいそうな儚さがあり、憂鬱で重苦しい感じがして、すぐにでも離れ目に入れない様に務めるだろう。そしてそれが自分だったらなんて、そんな事は考えたくもないだろうから、そんな鏡の前に居座っているのはよせばいいものを。そうした考えにやっとたどり着いたのか洗面台を離れ、そして冷蔵庫から惣菜を出し、パックのご飯と共にレンジに入れる、なんせ独り身なのだからこのぐらいの横着は無論許されて当然である。温まるまでの間に酒を出して卓に置いた。そうして静かに飯を済ませると、布団でスマホの画面を見て酔った口角が世間を冷笑する、自分が居なくても廻り続ける世の中を見て、何かこの画面に表示されるような事でもしてやろうかと考えたが、やはり無駄なので止めた。その後は疲労のせいか、それとも酒の一利かすぐに眠ってしまった。単調なる独り身の生活、願いとは裏腹にその夜は特に普段と変わったことも無く幕を閉じた。




