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第9話 真実は愛と等しく重く


 エレノアがカイルハルトの私室に戻された後。彼は何も言わずに彼女をソファに座らせて、彼もまた向かい側に腰を下ろした。

 距離は開いているのに、逃げ場がないと分かった。彼の視線が、怖かった。まるで、彼女のすべてを見透かしているように思えたのだ。


「……お前は先程、私のことを『陛下』と呼んだな」


 低い声で尋ねられる。エレノアの肩が跳ねた。唇が震える。


「……っ、言い間違いでございます」

「違うな」


 即座に返された言葉に、息が止まる。彼は表情を変えないまま、続けた。


「お前は最初に会った日から、私を恐れていた。婚約を断り、私に触れられて倒れた」


 彼は、手を強く握りしめていた。彼女の胸が、苦しくなる。


「私は、私が皇帝になる未来を知っている」


 その言葉に、エレノアの全身に冷たい衝撃が走った。カイルハルトはゆっくりと立ち上がり、一歩ずつ彼女に近づいてくる。彼は彼女の目の前で膝を折ると、視線が合う高さまで身を屈める。金色の瞳が、まっすぐとエレノアを射抜いた。


「……お前は、何を知っている」


 優しい声ではない。責めている声でもない。だからこそ、逃げ場がないと突き付けられた気分になって、恐ろしい。誤魔化すことは、できない。

 エレノアの呼吸が乱れる。唇が震えるが、何かを言わなければならないと思った。


 彼の言葉に従わなくては、彼に疑われる。そうなると、前と同じように、殺されてしまうかもしれない。

 その恐怖が、ついに限界を超えた。


「……っ、わたくしは……」


 声が掠れ、視界が滲む。


「一度……死にました」


 その時、カイルハルトの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。だが彼が驚きを見せたのは一瞬だけだ。すぐに、重い沈黙が落ちる。エレノアは、震えながら言葉を続けた。


「陛下に処刑されて……気づいたら、あなた様との婚約前に戻っていて……」


 そこまで言って、息が詰まる。本当は、言いたくなかった。知られたくなかった。でももう、彼の前で隠し通せる気がしなかった。


「ですから……もう、陛下とは関わりたくありませんでした」


 ぽろり、と涙が落ちる。


「また……あなた様に見捨てられるのが、怖かったのです」


 長い沈黙の後、カイルハルトは目を閉じた。その顔は、やはり苦しそうだ。まるで、自分の胸に刃を突き立てられたかのように。

 エレノアは呆然とする。どうして彼は、そんな顔をするのか。自分を殺したのはあなただと、そう言いたかった。しかし、次に彼が口にした言葉が、すべてを壊した。


「……私は、お前を殺すつもりではなかった」


 エレノアの呼吸が止まる。彼はゆっくりと目を開けた。その金色の瞳は、まっすぐ彼女だけを見ている。


「処刑は、偽装するつもりだった。お前を反逆者として表向きには死んだことにし、地下に匿うつもりだった」


 頭が真っ白になる。何を言われたのか、理解できなかった。震える彼女を見つめたまま、彼は口を開く。


「誰にも会わせることなく、お前を私だけのものにするつもりだった」


 ぞくり、と背筋が震えた。彼の声色は淡々としているのに、その内容は狂気じみている。言葉を失うエレノアだが、彼は続ける。


「お前を愛していた」


 どくりと、痛いほどに心臓が鳴る。


「だが私は、お前のことを何も知らなかった。家族にすべてを奪われていたことも、功績を盗まれていたことも、お前がどれほど苦しんでいたのかも」


 金色の瞳に初めて、はっきりとした後悔が滲む。彼の手は、微かに震えていた。


「興味を持たなかった。知ろうとしなかった。……だからお前を死なせた」


 そこで初めて、エレノアは気が付いた。

 この人は、本気で自分を責めている。本気で後悔をしている。だがそれを理解した後に、恐ろしいことにも気が付いてしまった。


 彼は確かに、後悔をしている。だが、後悔をしているのは、自分が彼女を苦しめたことではない。彼女を失ったことだ。その瞳の奥底にある者は、底なしの闇が見える。


 ぞっとして、彼女は後ずさった。彼は追うことはせず、ただ静かに告げる。


「それでも、今度は選ばせようと思う」


 エレノアは目を見開く。彼は、変わらずまっすぐと彼女を見つめたまま言った。


「私から逃げたいのならば逃げれば良い」


 その言葉が信じられなかった。しかし次に続いた言葉で、息が止まる。


「だが、お前がどこへ行こうと見つけ出す。お前が望まなくとも、私はお前を二度と失わない」


 その時、エレノアははっきりと悟った。この人は、彼女が死んだ後におかしくなってしまったのだ、と。





 ◇ ◇





 翌朝のことだった。王宮の大広間で、両親と妹が跪いていた。父は蒼白で震えており、母も泣き崩れている。そして、リリアナだけは信じられないという顔をしていた。


「な、何かの間違いですわ……!」


 甲高い声が響く。エレノアは離れた場所——カイルハルトの隣で、それを見ていた。宰相が彼らの罪状を読み上げていく。

 公爵家による功績の横領。皇太子妃候補に関する情報の虚偽報告。皇族の監視命令。そして、皇太子妃候補暗殺未遂。


「ち、違います! 我々はそのような命令は——」

「黙れ」


 父の言葉を、カイルハルトは一蹴した。誰も動くことができない中、リリアナだけが涙を浮かべて一歩前に出た。


「殿下は騙されておいでですわ! お姉様は昔から陰気で、嘘つきで……っ」


 エレノアの身体がびくりと震える。リリアナは止まらない。


「お姉様は何にもできません! 加護だって、わたくしの方が強いのです! 殿下にはわたくしの方が——」


 妹が言い終える前に、カイルハルトがゆっくりと立ち上がった。そのまま階段を下りていく。広間中の人間が息を呑む中、彼はリリアナの前で立ち止まり、彼女を冷たく見下ろした。彼女は涙を浮かべたまま、必死に微笑もうとしている。


「で、殿下……」

「お前が加護を用いた所を、直接見たことがない」


 リリアナの顔が凍る。


「しかし、お前の姉の力は知っている。傷ついた兵士を癒し、悪夢に魘される侍女を穏やかに眠らせ、帝都の結界を維持していた」


 エレノアが目を見開く。彼が、どうしてそのことを知っているのか。


「な、何かの間違いで……」

「それでも奪えると思ったのか。そういえばお前は、私が彼女に贈った花も奪っていたな」


 彼の言葉に、リリアナの顔が強張った。なぜ知っているのかとその表情が語っている。


「あれは、お姉様がお譲りしてくださったもので……」

「当人が拒んでいたことも、お前が強引に花を奪ったことも、すべて報告を受けている」


 リリアナの顔からは血の気が引いていく。彼の声は淡々としていたが、その瞳は鋭く細められていた。


「お前は、一度も選ばれていない」


 とどめのように言われた言葉に、妹は床に崩れ落ちた。その顔が歪み、彼女は泣き叫び始める。


「いやっ……! 嫌よ! わたくしの方が可愛いのに! お姉様なんて何も言えないくせに! なんにもできないくせに! なんでいつも選ばれるのよ!!」


 その声が響き渡る。誰も、彼女を庇おうとはしなかった。カイルハルトは冷たい目で見下ろすだけ。


「他人のものを奪い続けた女が今更言葉を重ねるな。……連れて行け」


 近衛が一斉に動く。しかしその時、父が声を上げた。床に額をこすり付けながら、必死に叫ぶ。


「で、殿下! どうかお待ちください! 私どもは何も知らず……娘達の些細な諍いに過ぎません!」


 その言葉に、エレノアの心は冷えた。まだそう言うのかと、失望すら感じる。幼い頃からそうだった。妹が彼女の宝石を奪っても、ドレスを破っても、褒賞を横取りしても、すべて姉妹のじゃれ合いで済ませようとし、妹が泣けば叱られたのはいつもエレノアの方だった。

 公爵は顔を上げて、必死に言葉を重ねる。


「私は家を守るために最善を尽くしてきました! 皇太子妃となる娘を丁重に扱っておりましたとも!」


 父がそう言った時、カイルハルトははっきりとわかるほどに表情を歪めた。冷めきった、嫌悪だ。


「丁重?」


 低い声が落ち、父の身体がびくりと跳ねる。


「病み上がりの娘を寝台から引きずり下ろし、皇太子の前へ立たせた対応が、丁重だと言うのか」

「……な」


 父の顔色が変わる。


「熱が下がっておらず歩行も思うように行えない状態にも拘わらず、強引に連れ出したそうだな」


 静かな声だが、その一言ごとに空気が凍り付いていく。


「私からの贈り物がそこの女に奪われたのも黙認した」


 父の唇が震えている。カイルハルトは金色の瞳を細めた。


「お前は、自分の娘が三日寝込んでいたことすら知らなかったのでは?」


 その一言で、父の顔からは血の気が失せた。エレノアは息を呑む。確かに、父が彼女の部屋を訪れたことはなかった。熱があることすら、知らなかったとは思ってはいなかったが。


「家を守るため? ならば、なぜ役立てる方ではなく奪う方を選んだ」


 カイルハルトが距離を詰め、父は怯えながら後ずさる。


「彼女の加護や治療について、お前はすべて知っていたのだろう」


 父の目が見開かれる。エレノアも思わず顔を上げた。父は、彼女が様々なことを成していることを知らなかったのではない。知っていて、黙認していたのだ。妹に功績を渡す方が都合が良かったから。それは愛ではなく、利用しやすかったからなのだろうか。


「そ、それは家のためで……! リリアナの方が社交に向いており、エレノアでは——」


 最後まで言葉が続けられることはなかった。カイルハルトの手が、父の喉を掴んだからだ。


「ぐっ……!」


 彼よりも背の低い父の身体が宙に浮く。彼は無表情のまま、父を睨みつける。


「お前が二度とその名を口にするな」


 その声は底冷えするほどに低く冷たかった。父の顔が赤くなり、足が宙を蹴っている。必死に彼の手を掴んでいるようだが、びくともしていない。

 彼はしばらくそのまま父を見ていたが、やがて興味を失ったようにその手を離した。父は床に叩きつけられ、激しく咳き込んでいる。這いつくばって涙を流す姿は、公爵のようには見えなかった。ただの、醜い老人だ。

 カイルハルトは冷たく告げる。


「爵位を剥奪する。全財産も没収だ。北方辺境への流刑を命ずる」


 公爵夫妻は泣き叫び、リリアナは床に爪を立てて抵抗している。だが、すべてが無意味だった。そのまま彼らは、広間の外へと連行されていった。






 静まり返った大広間で、エレノアはただ呆然とカイルハルトの背中を見つめることしかできなかった。

 彼のことは、まだ怖い。それでも、彼が彼女を庇ったのも事実だった。信じられることではない。それなのに、心の奥で、前の世で一度だけ願ったことが蘇ってしまう。


 ——もしもあの日、この人が一歩でも前に出てくれたなら。


 その願いを思い出してしまい、彼女は唇を噛みしめた。

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