第10話 あなたを愛した結末の、その先に
エレノアが正式に王宮へと移されたのは、ハルーティア公爵家の断罪から三日後のことだった。虐待されていた令嬢の保護のためだと、表向きには報告されているらしい。家族を失った公爵令嬢を、皇太子妃候補として王宮で預かる……それだけを聞けば、何もおかしなことはない。
しかし、エレノアは知っていた。これは保護であり、同時に彼女を逃さないための監視でもある。それでも、もう以前ほど抵抗する気力はなかった。逃げても見つけ出すと、彼が言ったのだ。あれが脅しではないことくらい、分かっていたから。
王宮での生活は、意外なほどに穏やかだった。カイルハルトはあの日以来、無理に近づいてこようとはしない。
毎日顔を見せるわけではなく、部屋に押しかけてくることもなく、呼び出されることもない。ただ、気づけば必要なものはすべて取り揃えられていた。
前の世では古くなっても取り替えてもらえなかった寝具が、新しいものに替えられる。寒い朝には暖炉に火が入っている。読んでいた本の続巻が、翌日には机の上に置かれている。好きだと口に出したことのない紅茶の種類まで用意されていた。誰が手配したのかは聞くまでもないだろう。使用人達は一様に口を閉ざすが、その態度がすべてを語っていた。
エレノアは、とにかく戸惑った。こんなこと、一度も経験したことはない。前の世では、彼は何も与えてくれなかったのに、今は何も言わずに必要なものを差し出してくる。意図を読むことができず、怖かった。
……それでも、少しずつ。少しずつだけ、彼に対する警戒は薄れていった。
ある日、書庫で本を取ろうとして脚立から落ちかけた。ぐらりと視界が揺れた瞬間に、背中に腕が回される。強く支えられ、そのまま床におろされた。驚いて振り返ると、そこにいたのはカイルハルトだった。
いつからいたのかは分からない。相変わらずの無表情で、何を考えているのか分からない顔。エレノアの喉がひゅっと鳴る。
「……申し訳ございません」
反射的に謝ると、彼は一瞬眉を寄せた。
「なぜ謝る」
「ご迷惑をおかけしてしまいましたので……」
「落ちたら怪我をしていただろう」
それだけ言って、彼は脚立の上の本を取った。そのまま、エレノアに差し出す。彼女が読みたいと思っていた神話集だ。エレノアは戸惑いながら受け取る。
「……ありがとうございます」
小さく言うと、彼はほんの僅かに視線を逸らした。
「次からは、人を呼べ」
ぶっきらぼうな声だが、その手は彼女の腰を支えたままだった。それだけで胸が熱くなった自分に、エレノアは困惑した。
季節が巡る。春が過ぎ、夏が来て。やがて、秋の終わり頃。エレノアは王宮の礼拝堂で祈りを捧げていた。前の世では、夜ごと一人で祈った場所だ。国の結界を守るために、民を病から救うために。誰にも知られずに、ただひたすら一人で。
しかし今夜は違った。床に淡い光が広がり、祭壇を神聖な魔力が包み始めた時、人々のざわめきが聞こえ始めたのだ。
「……聖女の加護」
誰かが呟く声が聞こえ、彼女ははっと顔を上げる。慌てて振り返ると、丁度その時に礼拝堂の扉が開いた。入ってきたのは、カイルハルトだ。彼は仕事着のまま、ゆっくりと祭壇まで歩いてくる。神官達は一斉に跪いた。彼はエレノアを見つめながら、ただ一言告げる。
「記録しろ」
彼の声に、皆が顔を上げる。
「エレノア・ハルーティア唯一の加護として、帝国史に正式に残すのだ」
その言葉に、エレノアは目を見開いた。彼は言葉を続ける。
「今後、この功績を偽った者は、皇族への反逆とみなし処罰する」
誰も異を唱えるはずがなかった。この時、エレノアが奪われ続けてきたものが、ようやく自分のものになったのだ。
胸が熱い。何かが込み上げてきて、気づけばぽろりと涙が落ちていた。その雫に気付いたのか、カイルハルトはそっと指を伸ばして彼女の涙を拭いながら、金色の瞳をわずかに揺らす。
「……嫌だったか」
その問いに、エレノアは首を振った。
今の気持ちを、言葉で表すことはできない。ただ、涙が止まらなかった。すると彼は少しだけ困ったように目を伏せて、懐から白いハンカチを取り出すと無言で差し出した。
それだけだった。慰めの言葉もなく、抱きしめられることもない。それなのに、その不器用さが彼らしく思えて、エレノアはようやく小さく笑うことができた。
その夜。カイルハルトは珍しく、自ら彼女の部屋を訪れた。扉を叩く音に緊張しながら開けると、彼がそこに立っている。
「少し話がある」
エレノアは頷き、応接椅子へと案内する。しかし、彼は座ろうとしなかった。ただ立ったまま、しばらく黙っている。
やがて、低い声で言った。
「お前に、謝らなければならない」
予想していなかった言葉に、彼女は息を呑んだ。彼は彼女の目をまっすぐ見つめたまま続ける。
「私はお前の気持ちを考えてこなかった。前の世でも、今の世でも。……欲しいと思った。ただ、失いたくなかった。だから囲おうとした」
飾る言葉や嘘もない、正直すぎる告白だ。
「だが、今は違う。お前が望まないのであれば……私は、何もしない」
彼の手が震えていた。エレノアは目を見開く。
「婚約も、白紙に戻せる」
エレノアの心が揺れた。あれほど、婚約を破棄して彼から離れなければと思っていたのに、そう言われた時、なぜか苦しくなった。
カイルハルトはそれ以上何も言わず、話は終わったとばかりに踵を返そうとする。その背中を、エレノアは気づけば呼び止めていた。
「……陛下」
彼の足がぴたりと止まり、金色の瞳が彼女に向けられる。エレノアは喉を震わせながらも、彼を見上げた。
「わたくしは、まだあなた様のことが怖いです」
正直に話す。彼は黙って聞いていた。
「あなた様が何を考えていらっしゃるのか、今も全くわかりません。ですが……わたくしのことを何度も助けてくださったことは、嬉しかったです」
カイルハルトの瞳がわずかに揺れた。長い沈黙の後、エレノアは小さく微笑む。
「ですから」
胸が熱くなって、涙が滲みそうになる。それでも、はっきりと言うことができた。
「今度は、あなた様のことをもっと知りたいと思っています」
その言葉に、彼は目を伏せた。そして。
「……そうか」
と、それだけ言った。相変わらずの不愛想で、相変わらず何を考えているのか分からない。
しかし、エレノアが部屋を出ていく直前に、彼女は見てしまった。彼の耳が、少しだけ赤くなっていたのを。
◇ ◇
それから数年後。カイルハルトは皇帝となり、エレノアは彼の隣で皇后となった。帝国史上、最も強大だとされる皇帝と、癒しの加護を持つ聖女の皇后。二人が並ぶ姿は、まるで絵画のようだと民は囁く。
カイルハルトは変わらず無表情で、変わらず言葉が少なく、いつも冷静でその視線は冷たい。
しかし、エレノアが咳をすれば政務を切り上げようとするし、彼女の礼拝の帰りが遅ければ自ら迎えに行くし、夜会で他の男が彼女と長く話をしていれば、その男は翌日に遠方へ赴任になる。側近達は頭を抱えていた。
エレノアは知っている。彼の愛は、少しも健全ではないと。今でもきっと、彼女を閉じ込めるための部屋を用意しているのだろうと思わせるような言動をすることがある。それを問い詰めたことはない。詳しいことを知るのは怖かったから。
だが。冬の夜に執務を終えた彼が何も言わずに彼女の隣に座り、口を閉ざしたまま彼女の手を握る時。その手の温かさは、前の世ではなかったものだと知っている。だから、エレノアはそっとその手を握り返す。すると、彼はわずかに目を見開いて、すぐあとには何事もなかったかのように視線を逸らす。その耳は少し赤くて、そんな彼の姿にエレノアは小さく笑うのだ。
彼女はかつて願った。もう二度と、この人を愛することがないように、と。しかし、その願いは叶わなかった。
それでも、今度の結末は、きっと前とは違う。彼を愛した結末に死が待っているのならば、もう彼に近づかないと決めたはずだったのに、彼の手を取ることを選んだのは自分だった。そして、彼もまた彼女の手を取ることを選んでいる。
だからきっと、この先にどんな結末が待っていようと、前の世よりは幸せになれるのだろう。
次回の更新で、この物語は完結となります。ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
たくさんの方に読んでいただけたことを光栄に思います。とても励みになりました。
最後まで楽しんでいただけたら幸いです。




