愛した結末の、その裏側
カイルハルトは、自分が善人になったなどと思ったことは一度もなかった。むしろ逆だ。エレノアが二度目の人生で彼を恐れた瞬間から、はっきりと理解していた。
自分は、彼女を死に追いやった男なのだと。
処刑の手筈は完璧に整っていた。刃が首に落とされる直前に処刑人が剣を逸らして仕込んでいた血袋を斬り、彼女の首を落とすのに失敗はしたがその首は確実に斬ったと思わせる。そして彼女を昏倒させた後に、地下へ連れて行く。
そのための薬も、拘束具も、部屋も用意していた。地下深くの、移築した旧離宮の一室。窓のない、静かな部屋だ。
花瓶には、彼女が好きだった白い花を飾らせた。本棚には、彼女が何度も読んでいた神話集を並べた。祈りができるように、小さな祭壇まで作らせた。
彼女が寂しくて泣かないように。自分だけを見ていられるように。すべてを整えていた。
それなのに、処刑人が刃を逸らすことはなかった。彼女の首は、床に落ちた。
あの瞬間に、彼の世界は終わったのだ。彼は処刑人の首を素手で折り、死んでからもなお何度も殴り続けた。その原形がなくなるまで。周囲が止めに入るまで。
何も聞こえなかった。何も見えなかった。ただ、彼女の瞳が二度と自分を映さないのだと思うと、心が抉られた。
彼女は、怨みも憎悪も何も言わずに、ただ静かに死んでいった。あれは確実に、自分の所為だった。
目覚めて過去に戻った時、カイルハルトが行ったことは簡単だった。婚約を前倒しにし、誰よりも早く彼女を手に入れ、彼女を奪おうとするすべてを排除すること。
前の世では彼女の周囲に無関心だった。だから奪われ、利用され、死んだ。その未来を変えなければならない。徹底的に公爵家を調べ上げ、奴らが彼女を虐げている証拠を集め出した。そして、彼女を王宮に置いた時点で、半分は成功していた。
彼女は逃げ場を失った。王宮は広いが、彼が許可しなければ外には出られないようにした。誰にも彼女に危害を加えられないようにし、同時に誰も彼女を連れ去れないようにした。保護という名目の、監視だ。
分かっていた。自分は何も変わっていないと。地下室に閉じ込めることと何ら変わりはない。やり方を少し変え、檻の形が変わっただけだ。
それでも、彼女が無事に生きているのならばそれでいいと思った。最低だと分かっていたが、やめることはできなかった。
そして、彼女が自分に少しずつ心を許し始めた時。カイルハルトは恐怖を覚えた。失うことは怖いままだが、彼女が自分を本当に許してしまうことが、怖かった。
彼に許される資格はない。彼女を殺したのは自分だ。直接刃を振るったわけではなくとも、あの場を整えたのは自分。彼女の逃げ場を封じていたのも自分。彼女の絶望を見抜くことができなかったのも自分。
彼女が笑ってくれるたびに、手を握り返してくれるたびに、喉の奥が焼き切れそうだった。
欲しい。愛しい。抱きしめたい。だが、触れる資格などあるはずもない。そんな矛盾した感情が、ずっと彼を苛んでいた。
夜半。王宮の私室には微かな灯だけが揺れている。寝台の上では、エレノアは穏やかな寝息を立てていた。長い睫毛を伏せ、小さな頭を枕に埋めて眠る姿は、ひどく無防備だ。
最近になってようやく、彼女は彼の前で眠れるようになった。最初は違った。彼と同じ部屋にいるだけで肩を震わせ、扉の音ひとつで顔を青くし、彼が手を伸ばせば逃げるように後ずさり、名を呼ぶだけで怯えた目をしていた。
それが今では、夕食を共にし、短い言葉ではあるが会話を交わし、時折ほんの少しだけ微笑んでくれる。彼女はまだ完全には彼を信じていないようだが、それでも確かに気を許し始めていた。
——その変化が、たまらなく嬉しかった。同時に、胸の奥には鈍い棘が刺さる。
彼女を騙していると、そう思うたびに息が詰まる。彼女は知らないのだ。彼がどれほど醜い執着を抱えているのか。どれほど危うい欲望を押し殺しているのか。
優しく接しているのは、本心からだ。守りたいのも当然だ。彼女が泣けば胸が裂けるような思いになるし、彼女が笑えば世界が満たされる。だが、それだけではない。彼女をこの部屋に留めておきたい。誰にも見せたくない。彼女の世界を、自分だけで満たしたい。そう願う暗い感情が、いつだって底に沈んでいる。
二度目の人生を歩み始めてからも、その感情は一度も消えたことがない。それを隠し続けている。隠したまま、優しくなった夫を演じている。詐欺のようなものだ。
それでも、彼女が自分に向ける柔らかな視線を得るたびに、その罪悪感すら甘美に変わる。
彼は、寝台の脇に腰を下ろした。エレノアは深い眠りについているのか、起きる気配はない。細い肩が規則正しく上下している。彼女が起きていれば、こんな距離にいることはできない。近づけば、まだ少し怯えられる。
だが今は違う。眠っている彼女は、逃げない。拒まない。
カイルハルトはじっと彼女の寝顔を見つめた。彼の指先がわずかに動く。触れてはいけないと、そう強く思っている。眠っている間に触れるなど、卑劣だ。分かっている。
それでも、ゆっくりと手を伸ばしてしまう。その柔らかな髪を一房すくう。さらりと指の間を滑る感触に、息が止まりそうになった。
こんなにも柔らかい。彼女は生きている。生きて、ここにいる。二度と触れられないと絶望した存在が、今は自分の手の中にある。喉が熱くなった。
髪から頬へ、恐る恐る指先を移す。温かく、柔らかい。エレノアは小さく身じろぎをしたが、起きない。その事実に、理性が崩れていく音がした。
カイルハルトは目を閉じた。自分は何をしているのだろう。彼女に謝罪をしたい。彼にこんなことをする資格はない。それなのに、やめることはできない。
慎重に、身を屈める。彼女の寝息が彼の頬にかかる距離。エレノアは、何も知らないまま眠っている。
その唇に、自分の唇をそっと重ねた。触れるだけの、短い口づけ。それなのに、身体の奥まで焼け付くような熱い感情が全身を巡った。
離れてもなお、手が震えている。エレノアは変わらず、穏やかなまま眠っている。
カイルハルトは、彼女の手を自らの額に押し当てた。ひどく、浅ましい気分になった。
「……すまない」
掠れた声が零れる。心からの謝罪だ。罪悪感も、消えることはない。それでも、彼はまた同じことを繰り返すだろう。彼女が眠っている間に触れ、怯えられないことに安堵し、少しずつ距離を縮めていく。最低だと知りながらも、彼女のすべてを享受する。
止めることはできない。むしろ、彼女が自分を信じて無防備に眠るほどに、その幸福は深くなる。
カイルハルトは顔を上げ、寝息を立てるエレノアを見つめた。灯の所為か、彼女の頬はほんのりと赤い。夢を見ているのか、その唇がわずかに動いた。その無意識の仕草だけで、狂いそうになる。
◇ ◇
欲望は勝ってしまった。
皇帝即位の日から一か月後、正式な婚礼の夜。初夜。
前の世では拒絶した寝室に、今度は自ら足を踏み入れた。寝台の上で、エレノアは緊張したように座っている。
薄い寝間着に、艶のある髪。俯いた睫毛が震えている。彼女はまだ彼に怯えているのに、逃げなかった。自分を待っていた。その事実に、理性が崩れ始める。
カイルハルトは何も言わずに近づいた。彼女が逃げるなら、止めないつもりだった。しかし、彼女は逃げなかった。ただ不安そうに彼を見上げて、小さく囁く。
「……カイルハルト様」
その一言で、彼がずっと抑えていたものが爆発した。彼は彼女を抱きしめる。腕の中で彼女の身体がびくりと震えたが、彼女は押し返そうとしなかった。そのことに、胸が熱くなる。
唇を重ねる前に、彼は彼女の肩に顔を埋めたまま低く言った。
「……すまなかった」
エレノアが驚いて息を漏らした気配がする。だが彼は顔を上げない。情けない顔を、見られたくなかった。
「私は、お前の自由を奪った。お前が笑えば、愚かな私は許されたと感じてしまう。私は……お前を、ずっと閉じ込めたかった」
手に力が入り、彼女の寝間着に皴が寄る。彼の言葉は、すべて自分勝手な意見だ。それでも、もう止めることはできない。
カイルハルトはゆっくりと顔を上げた。金色の瞳は夜闇を閉じ込めたように暗く沈んでいる。
「……お前を離すことはできない」
彼は、彼女の頬を撫でた。処刑の日に、一切動かすことのなかった手で。
「何度生まれ変わっても。私は、お前を見つけ出す」
唇が触れる寸前、彼は囁いた。
「愛している、エレノア」
彼女の瞳が揺れている。怖がっているのか、戸惑っているのか、それとももっと別の感情か。分からなかったが、彼女はそっと目を閉じた。彼を、拒もうとしなかった。
カイルハルトの、最後の理性が切れた。彼女を抱きしめたまま寝台へ押し倒し、二度と逃れられないように指を絡める。
何度も謝りながら、何度も愛を囁きながら。そのどれも、許しを請う言葉ではなかった。自分がどれほど罪深いかを告げながら、それでも手放さないと何度も繰り返しているだけだった。
カイルハルトは一つの鍵を手に持った。必要がなくなったと分かっていても、手放すことができない地下室の鍵。それを握りしめ、彼は静かに笑った。
……これを、使わずに済んだ。少なくとも、今は。
眠るエレノアを抱き寄せながら、彼はその髪に口づける。そして、小さな声で囁いた。
「今度こそ、間違えない」
その言葉は優しい響きを帯びていたが、金色の瞳の奥に沈んでいるのは、やはり深い闇だった。
たとえ彼女が望まなくとも。たとえ、いつか彼の闇が知られて拒まれたとしても。もう二度と離すことはできない。
今度こそ、彼女を愛し尽くすと誓おう。
——終。




