第8話 逃げた先で
エレノアは、その夜を待っていた。王宮に滞在してから三日目、侍女達の監視も緩んだ頃合いだった。
表向きには、公爵令嬢の療養を行っているとされていたらしい。だが実際には、どこへ行くにも誰かの視線にさらされていた。廊下を出れば侍女が現れ、庭に出れば騎士が遠巻きに見ている。優遇されているのではなく、まるで逃がさないと言われているようだった。
これは、保護などではない。監視だ。そう思うほどに、恐怖は強くなっていく。
だから、決めたのだ。今夜この王宮から逃げると。家には戻らずに、そのまま帝都を出る。身分も名前も捨てて、ただ遠くへ。彼の、知らない場所へ。
夜更けになると、月明りだけが廊下を照らしていた。扉の前の監視がいなくなったのを確認し、彼女はそっと寝台を抜け出す。
気楽な服が着たいと頼んで用意してもらった簡素なワンピースに着替え、外套を羽織る。荷物は必要ない。必要なのは、足だけだ。
鼓動がうるさいほどに鳴っている。震える手で窓を開けると、冷たい夜風が吹き込んできた。こういう時には、前の世での記憶が役に立つ。この部屋の裏手には、使用人が使う小さな中庭がある。そこから城の裏門へ向かえる通路があったはずだ。
エレノアは躊躇わずに窓枠を乗り越えた。地面に着地した時に足が震えるが、立ち止まることはできない。
走る。夜露に濡れた地面を踏みしめて、ただひたすらに走る。
裏門まであと少しだった。人のいない回廊を抜けたら、外へ出られる。そう思って息を吐いた、その時。
「……どちらへ行かれるのですか、エレノア様」
闇から、声が聞こえてきた。心臓が止まるかと思った。
彼女の前、月明りの下に、一人の男が立っていた。黒い外套を羽織った男。その頬には古い傷跡がある。その顔を見た瞬間、エレノアの全身からは血の気が引いた。
忘れられるはずがない。処刑の際に、最後に刃を振り下ろした男だ。そして、地下牢から処刑場へと連れて行く役目を担っていた男でもある。
処刑の数日前からこの男は何度も彼女を見ていた。ねっとりとまとわりつくような気味の悪い視線で。あの視線が嫌で、何度も身震いしていた。
男はゆっくりと歩み寄ってくる。その唇が吊り上げられた。
「夜風は冷えます。お部屋に戻りましょう」
穏やかな声だが、その目は笑っていない。男の視線は、エレノアの顔から首筋、肩へと滑る。ぞっとした。
「……近づかないで」
やっと出た声は掠れていた。男はわずかに目を細める。
「殿下がお探しでしたよ。勝手に出歩かれては困るのです」
嘘だ。それだけが目的でないと分かる。この男は、処刑場へ向かう前に耳元で囁いてきた。
『貴女様はずっと、お美しくいてくださいね』
意味が分からなかった。ただこの男が、彼女の状況を楽しんでいるということだけは分かった。
男は鞘から短剣を抜く。月光を受けて、刃が鈍く光った。しかし男は、彼女を殺すというよりも、脅すことを目的としているようだ。彼女が怯える様子を、楽しんでいる。
「大人しくしてくだされば傷つけません。……まあ、少しくらい暴れてくださった方が、私としては嬉しいですが」
男がにやりと笑った時、エレノアの中では何かが切れた。恐怖が一気に蘇り、視界が白く染まりかける。
今すぐに逃げなければと思い、反射的に身をかわして走ってきた道を逆戻りした。
「おや」
男の声が、背後から楽しげに聞こえる。
「追いかけさせる気ですか。困ったお嬢様だ」
足音が追ってくる。わざと、ゆっくりと歩いているのだろう。彼女が逃げられないということを分かっているかのように。それが、余計に恐ろしかった。
恐怖で息ができなくなり、何度も躓いて転びそうになる。それでも、止まることはできない。後ろから迫る気配に、涙が滲む。
回廊を抜けて、中庭へ飛び出した瞬間。腕を掴まれた。
「っ!」
悲鳴を上げる間もなく、強く引かれる。終わったと、そう思った。
しかし次の瞬間には、身体が宙に浮いていた。抱き上げられたのだと気づき、目を見開く。眼前に、金色があった。
男が足を止め、その顔からは一瞬で血の気が引いていく。
「で、殿下……」
カイルハルトは何も言うことはなく、片腕でエレノアを抱き上げたままもう片方の手を伸ばし、近くに控えていた近衛が差し出した剣を無言で受け取った。男は、青ざめて膝をついている。
「お待ちください! 誤解でございます! 私はただ命令に従い——」
「誰の命令だ」
冷たい声に、男は汗を滲ませながら言葉を詰まらせる。
「そ、それは……公爵家から、彼女の様子を見ておくようにと……」
その言葉に、カイルハルトの瞳が鋭く細められた。
「それで」
彼は一歩、男に近づく。男は後ずさった。
「お前は、何をするつもりだった」
「な、何も……!」
男は必死なのか声を震わせているが、カイルハルトの視線が男の短剣へと向けられた時、空気が変わった。男もそれを察したのか、顔色を失って叫ぶ。
「殿下! 私は貴方様に忠義を——」
彼は、最後まで言わせることはなかった。剣が一閃され、次の瞬間には男の右腕が肩口から斬り飛ばされていた。
「ぎゃあああああっ!!」
絶叫が響き渡り、血が石畳を染めた。エレノアは息を呑み、身体を強張らせる。
カイルハルトの顔には、何の感情もなかった。ただ、底知れない怒りのようなものが、その瞳の奥で燃えているように見えた。
彼は、血の付いた剣先を男の喉元へと向ける。
「その手で、何に触れようとした」
男は地面に転がり、呻きながら震える。
「ひぃ……ひぃ……!」
カイルハルトの声は静かなままだ。だからこそ、恐ろしさを増している。
「答えろ」
男は泣きながら喚く。
「わ、悪気は……っ、ただ、エレノア様の泣くお顔が見たいと……っ」
その時、カイルハルトの瞳からは完全に温度が消えた。エレノアは腕の中で震えながら、彼の顔を見上げる。
彼は数秒、男を見下ろしていた。そして、ゆっくりと剣を引く。
「連れて行け」
その言葉に近衛が動き出し、男を取り押さえる。男は血を激しく流しながら叫んだ。
「お待ちを! 殿下、私はまだ——!」
カイルハルトはその叫びを無視し、男に背を向けた。エレノアを抱きしめる力だけが、わずかに強くなっている。
彼が王宮へと戻る最中、エレノアは抱き上げられたままだった。
「お、降ろしてください……」
震える声で言うが、返事はない。返事の代わりに、腕に力が込められる。まるで逃さないと言われているかのようで、胸が苦しくなった。
「……お願いです、陛下」
彼女は無意識のうちに、そう呟いてしまった。途端に、カイルハルトの足が止まる。
夜風が強く吹く。月明りの下で、彼はエレノアを見下ろした。彼の顔は、今までに見たどの表情とも違っている。苦しそうで、何かに耐えているようで……それなのに、彼女を抱いている腕の力だけは決して緩まない。
「……その呼び方は、どういうことだ」
エレノアの頭が真っ白になった。しまった、言ってはいけないことを言ってしまったと思うが、もう遅い。金色の瞳は、まっすぐに彼女を見つめていた。




