第7話 知らない優しさ
目を開けた時に、最初に見えたのは見慣れない天井だった。白い天蓋には、繊細な金糸の刺繍がされている。窓辺では薄いレースのカーテンが揺れていて、柔らかな陽光が差し込んでいた。
……ここはどこ。
ぼんやりとそう思った直後、漂ってきた香りに息が止まった。あの、白い花の香りだ。彼から貰った、あの花と同じ香り。
途端に意識がはっきりとする。エレノアは跳ね起きかけて、すぐに身体を強張らせた。
広い寝台に、豪華な調度品。壁に掛けられているのは、皇族の紋章だ。ここが、皇城の私的な居住部屋であることが分かった。
それも——皇太子の、私室だ。
喉から息が漏れる。どうして自分がこんなところにいるのか。混乱していると、すぐ近くから低い声が聞こえた。
「起きたか」
その声に、身体が強張る。ゆっくりと顔を向けると、窓辺の椅子にはカイルハルトが座っていた。腕を組んで、じっと彼女を見ている。エレノアの呼吸が止まり、思わず毛布を握りしめた。逃げなければと思うのに、足は動かない。
「……っ」
声にならない息が漏れる。カイルハルトはゆっくりと立ち上がった。そして、彼女に近づく。それだけで彼女は肩を跳ねさせて、反射的に寝台の端まで後ずさった。その彼女の反応に、彼の動きは止まった。
エレノアは俯いたまま、震える手を膝の上で握りしめた。見られたくなかった。この顔を、泣いたところも、気を失ったところも。何もかもが、知られたくない。だが沈黙に耐え切れずに、掠れた声で問うた。
「……ここは……」
喉が渇いていて、声が上手く出なかった。
「……わたくしは、どうして……」
曖昧過ぎるその問いに、カイルハルトはすぐには答えなかった。長い沈黙の後、彼は視線を僅かに逸らす。その仕草が意外すぎて、エレノアは思わず瞬いた。
「……医師が、しばらく休ませろと言った」
その声は淡々としているのに、どこか硬い。彼の返答はそれだけだった。医師がそう言ったからといって、公爵令嬢を皇太子の私室に置く理由にはならない。普通なら、一般的な客間に移されるはずだ。
それなのに、なぜ。問い返したかったが、カイルハルトの顔を見た途端に声を出せなくなった。
彼は、苦しそうな顔をしていたのだ。それがあまりにも不思議で、エレノアは目を見開く。彼が、苦しそう?
こんな顔は、今までに一度も見たことがない。政敵を切り捨てた時も、処刑を命じた時も。いつだって冷たくて、何も感じていないよゆに見えたのに、今目の前にいる彼は、まるで何かを堪えているようだった。
カイルハルトはそれ以上彼女と距離を近づけないまま、低く言った。
「……具合が悪くなれば医師を呼ぼう」
エレノアは何も言うことができない。
「不都合があれば侍女に言え。食事もここに運ばせよう」
なぜ、どうして。同じ言葉が、頭の中で何度も繰り返される。前の世では、一度だってこんなことはなかった。
怖い。どうして彼は、こんなことを言うのか。意味が分からないということが、一番怖かった。エレノアは視線を上げられないまま、ただ毛布を握りしめる。
すると、カイルハルトは小さく息を吐いた。その息に、彼女の肩はびくりと揺れる。彼は何かを言いかけたようだったが、結局何も言うことはなかった。ただ、苦しそうに眉を寄せたまま、踵を返す。
そして扉の前で立ち止まり、背を向けたまま言った。
「……誰にも、お前を奪わせない」
その言葉に、エレノアの思考が止まった。ぞくり、と背筋に悪寒が走る。意味が分からなくて、どうしようもなく怖かった。
扉が閉められ、ようやく一人になった途端。彼女は浅く息を吐いた。身体中から力が抜けて、震えが止まらない。
本当に、何なのか。彼は何なのか。彼の思考が一切読めない。彼は何を考えて、何を思って、エレノアをこうして保護しているのか。
怖い。もしあの時みたいに、たった一言の優しさを愛だと勘違いしたら。また、同じ結末になる。それだけは嫌だった。
窓の外に視線を向けると、青空が広がっているのが見える。その空では、自由そうに鳥が飛んでいた。その姿を見て、彼女の胸の奥では何かが決まった。
このままでは駄目だ。彼のそばにいてはいけない。婚約も、家も、義務も、何もかもを捨てて、逃げるしかない。この城を出て家に戻ったら、もう二度と王都には踏み入れない。どこへでもいい。どこか、遠くへ。
彼に見つからない場所へ。誰にも気づかれない場所へ。
エレノアは毛布を頭からかぶり、そっと目を閉じた。
◇ ◇
扉が閉まった後も、カイルハルトはその場を動くことができなかった。握りしめた手のひらには、爪が深く食い込んでいる。痛みは一切感じなかった。
頭の中に焼き付いているのは、先ほどの彼女の顔だけ。
——エレノアが、自分に触れられて泣いた。あれは歓喜や安堵ではなく、純粋な恐怖だった。自分に抱き留められた瞬間に、彼女は泣いた。まるで、世界で一番恐ろしいものに触れられたかのように。
その事実が、彼の胸をじわじわと抉っていった。
彼女が倒れた時、最初は何が起きたのかを理解することはできなかった。エレノアの身体がふらついた瞬間、考えるより先に腕が動いていた。
支えなければと思った。また失うかもしれないと、身体が勝手に叫んでいた。だから、抱き留めた。
細い身体だった。驚くほど軽くて、力を入れると折れてしまいそうで。何度も触れたいと思ったのに、一度も触れることができなかった身体。それが今は、自分の腕の中にあった。
カイルハルトの理性が揺らいだ。このまま、閉じ込めてしまえば良いのではないか、と。扉を閉ざして、誰にも会わせず、公爵邸に返さず。王宮で保護すると言い張れば、誰も逆らうことはできない。
それに彼女は今、意識がない。今なら、抵抗されることもなく鎖に繋ぐことができる。目を覚ましても逃げられないようにして、彼女が泣いても叫んでも、決して逃げられないようにして。
前の世では果たせなかったことを、今度こそ実現できる。
その考えが、あまりにも自然に浮かんできた。そのことに、自分でもぞっとした。彼女は、彼を恐れていたというのに。意識を失ってなお、かすかにその身体は震えていた。
何を考えている。また、同じことをするつもりか。自分の都合だけで、この女の心を踏みにじるのか。
カイルハルトは、自分の愚かさを直視した。前の世で彼女を殺したのは、処刑人ではない。処刑を命じた自分だ。たとえ彼女を救うつもりであったとしても、彼女には何も伝えずにただ怯えさせて、裏切られたと思わせて、最期まで孤独に立たせた。
そのうえで、自分は後から助けるつもりだったなどと、傲慢にもほどがある。
愛しているつもりだった。だが、違う。あれは、愛などではない。自分が欲しいと思ったものを、誰にも奪われたくないと思っていただけだ。ただ、所有したいと望んだ。
だから彼女は死んだのだ。彼が何も言わず、何も見ず、何も知ろうとしなかったから。
その夜、彼女が眠ったことを確認した後。カイルハルトは隣室の執務机を前にし、ひたすら資料を集めさせた。ハルーティア公爵家の使用人の証言、侍女の記録、家庭教師の報告など、ありとあらゆるものを。
そして、知った。今まで、彼が知ろうとしてこなかったことを。
エレノアは幼い頃から、異常なほどに加護が強かった。怪我をした小動物を癒し、病弱な使用人は彼女のそばにいると快方に向かい、庭の花が、彼女の触れた個所だけ長く咲く。そのような話はいくつかあった。しかし、その報告はどれも途中で消されている。代わりに記録されているのは、彼女の妹の名だ。
リリアナ。リリアナが奇跡を起こした。リリアナが加護を授かった。リリアナが民に愛された。
どの記録も、いつの間にかそう書き換えられている。エレノアについて証言した使用人は解雇され、家庭教師は交代させられ、侍女は口を閉ざす。
その中心にいるのが公爵夫妻だと知るのに時間はかからなかった。紙を握る手に力が入る。
これは、前の世でも同じだった。エレノアは戦地で兵を癒し、疫病の村を救い、帝都の結界を維持した。しかし表向きには、すべてがリリアナの功績となっていた。
エレノア自身からの報告を、自分は読んでいたはずだ。読んで、何も思わなかった。興味がなかったからだ。誰が功績を上げようと、自分には関係ないと切り捨てていたから。
……関係がないはずなどなかった。最も彼に関係のある女のことだった。妻のことだった。
それなのに自分は、彼女のことを何ひとつ知ろうとしなかった。知らないままに、愛していると思い込んでいた。笑えるほどに、浅ましい。
彼の机の上には、白い花が置かれている。ハルーティア公爵家のミアという侍女に話を通したら手に入れることができた、エレノアに渡したはずのものだ。
花は萎れており、もう元には戻らない。それを見ていると、エレノアの姿と重なった。
あの女もきっと、このように何度も踏みにじられてきたのだろう。彼が知らないところで、誰にも助けられることなく、何も言えずに、ただ黙って耐えて。
最期まで、彼に何も訴えることもなかった。訴えても、彼が聞き入れるはずがないと思われていたのだろうか。どちらにせよ、そう思わせたのは彼自身だ。
胸の奥が、鈍く痛む。自分がどれほど取り返しのつかないことをしてきたのかと、彼は自分を責め続ける。
深夜になり、静まり返った廊下を歩いている途中に、彼の私室の前で立ち止まる。この中で、彼女は眠っている。扉を開けば会える。寝顔を見ることができる。今なら、誰も邪魔することはない。そのような考えが浮かんで、すぐに押し殺した。
まただ。また、自分の欲だけを優先しようとしている。
彼は拳を握り、目を閉じる。そして、扉に触れかけた手を離した。
今は、駄目だ。近づけば、彼女はまだ怯える。その姿を見ていると、どうしても背徳的な感情が芽生えてしまう。そんな彼が、彼女の姿を見る資格などない。
カイルハルトは扉の前に立ったまま、長く沈黙した。そして誰にも聞こえない声で、口にする。
「……すまなかった」
何の意味もない謝罪だ。それでも、言わずにはいられなかった。




