第6話 選ばれたのは
それから数日、エレノアは静かに過ごしていた。
……静かに、と言っても、実際には落ち着ける時間などほとんどなかった。カイルハルトと会った日から、公爵邸の空気は一変したからだ。父も母も機嫌がよく、使用人達までどこかそわそわしている。皇太子妃候補になった娘を囲い込もうとする熱気。
しかしその中心にいるはずのエレノア自身は、ただ冷めていた。何も信じられず、喜ぶことができるはずもない。
ただ一つだけ。どうやったら彼から離れることができるのか、それだけを考えていた。
その日。庭園で地に落ちている小鳥を見つけたのは偶然だった。翼を傷つけたのか、低木の根元で小さな身体を震わせていた灰色の鳥。
エレノアは、治癒の力を持っている。皇族の血を補佐する、神殿由来の希少な癒しの加護。それを知られたら、利用されることは間違いない。だから今世こそは、絶対に隠し通そうと思っていた。そのためにも、この力を使わないようにしようと。
……そのつもりだったのに。目の前で苦しそうに鳴く小さな命を見て、どうしても放っておくことはできなかった。
誰もいないことを確認して、そっと手を伸ばす。淡い光が指先に灯り、小鳥の傷はみるみると塞がっていった。ほっと息を吐いた、その時。
「まあ、お姉様!」
背後から、甘い声が聞こえた。肩を跳ねさせたエレノアが振り返れば、そこにはリリアナが立っていた。花柄のドレスを揺らしながら、驚いた顔をしている。
しまったと思った時には遅い。リリアナはぱちぱちと目を瞬かせ、次の瞬間には嬉しそうに笑った。
「お姉様、鳥を助けていたの? 優しいのね」
その笑顔を見た時、エレノアの胸が冷えた。前の世では、この顔をした妹に、すべてを奪われていた。
その日の夕食の席でのことだった。父が上機嫌に、酒杯を片手に笑っていた。
「リリアナの加護は素晴らしいな! 傷ついた鳥を癒したと聞いたぞ」
エレノアの手が止まる。食卓の向こう側で、リリアナは頬を染めて首を振った。
「そんな、大したことではありませんわ。たまたま見つけてしまって……放っておけなくて」
嘘を、淀みなく口にする。まるで、本当のことであるかのように。母は、感嘆のため息を漏らした。
「なんて優しい子なのでしょう。さすがわたくしたちの自慢の娘ね」
エレノアは黙ってスープに視線を落としていた。熱い湯気が揺れている。
何ひとつ変わらない。彼女の功績が妹に奪われ、家族がそれを信じることも。もう、驚きも怒りも感じない。悔しくないと言えば嘘になるが、それ以上にどうでもよかった。
今は、そんなことよりも、婚約を破棄してもらう方法を考えなければ。彼のそばにいれば、また死ぬかもしれないのだから。
その三日後に、王宮から使者が来た。
「ハルーティア公爵家宛てに、皇太子殿下より召喚の御命令です」
その言葉に、父と母は飛び上がるほどに喜んでいた。リリアナも嬉しそうに頬を染めている。エレノアだけが、青ざめた。
また、また彼と会う必要があるのか。嫌だ、行きたくない。しかし、拒否権などあるはずもない。
王宮を訪れ、応接間に通されると、すでにカイルハルトがいた。黒い軍服姿で椅子に腰かけ、書類に目を通している。窓から差し込む光が、その金色の瞳を照らしているようにも見えた。
エレノアの喉がひゅっと鳴る。見たくないのに、目が離せない。前までも、この人はいつもこんな顔をしていた。何を考えているのか分からない。
父が大げさに頭を下げる。
「本日はお招きいただき光栄にございます、殿下」
母も続き、リリアナは一歩前に出て、可憐に礼をした。
「お呼びと伺い、わたくしども一同で参りました」
カイルハルトは一瞥もしない。その視線は最初から最後まで、エレノアだけを見ている。それに気づいたのか、リリアナの笑みがわずかに引きつった。父は気づくこともなく、にこやかに続ける。
「実は先日、リリアナが加護の力で傷ついた鳥を癒しまして。殿下にもぜひ知っていただきたく……」
エレノアは僅かに目を伏せた。またかと、そう思っただけ。しかしその時、カイルハルトが音を立てて書類を机に置いた。そのまま、冷たい声で言う。
「……そうか」
父の笑みも固まった。リリアナも、彼の反応が期待していたものと異なったのか、戸惑ったように瞬きをしている。
沈黙の後、カイルハルトはゆっくりと立ち上がる。そのまま真っ直ぐに、エレノアの前まで歩いてきた。足音が近づくたびに、心臓の音がうるさくなる。逃げたいのに、動けない。彼は彼女の前で立ち止まり、簡潔に言った。
「来い」
その場の空気が凍る。父は慌てたように口を開いた。
「で、殿下? 場所を移動なされるのですか? でしたらリリアナも——」
「必要ない」
冷え切った声色で、たった一言。父と母の顔が引きつって、リリアナの唇がわずかに歪んだ。しかし、誰も逆らうことなどできやしない。
エレノアは震える足で一歩を踏み出した。視界が揺れているが、彼の背を追うように歩く。隣室に連れて行かれ、扉が閉まる重い音が響いた。
また、二人きり。心臓が嫌な音を立てる。
エレノアは反射的に後ずさったが、背中にはすぐに壁がある。逃げ場はない。
その時、カイルハルトが近づいてきた。一歩、また一歩と。逃げる間もなく、彼の手が壁に添えられた。左右を塞がれ、完全に閉じ込められる。
彼との距離が近すぎて、息が詰まる。
金色の瞳が、真っ直ぐにエレノアを見下ろしていた。逸らしたいのに、視線を逸らすことができない。身体も動かない。
「……お前は」
低い声。それだけで肩が震えた。心臓が痛いほどに速く脈打ち、呼吸が浅くなる。
落ち着けと、彼女は自分に言い聞かせた。ここは処刑場ではないし、まだ何も起きてはいない。彼はまだ皇帝ではないし、自分も皇后ではない。そう何度も言い聞かせるのに、身体が言うことを聞かない。
彼の指が、彼女の頬に近づいてくる。彼女に触れようとしているのか。その動きは滑らかで、乱暴さなどは欠片もない。
それなのに、視界の奥では別の光景が重なる。冷たい刃が下ろされる直前に、最期に見上げた金色の瞳。
息が、吸えなくなる。
「……っ」
喉から音にならない声が漏れて、足元がぐらりと揺れた。視界が霞み、カイルハルトの顔がぼやける。
立っていられないと思った時、膝から力が抜けた。ふらりと身体が傾く。
「っ————」
倒れる前に、強い腕に支えられた。腰を抱き留められ、エレノアの身体はびくりと跳ねる。
彼に、触れられた。一度も与えられたことのないぬくもりが、今、ここにある。
恐ろしいのに、悲しくて、苦しくて。胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「……あ」
ぽたり、と。涙が一粒、頬を伝って落ちる。自分でも驚いた。泣くつもりなんてなかった。それなのに、止まらない。次から次へと、勝手に涙があふれる。
この人にだけは、見られたくなかった。どうしようもなく恥ずかしくて、惨めに思えて。そして何より怖かった。前の世では抱きしめもしてくれなかった人が、今は自分を支えている。それが信じられなくて。優しくされたら、また期待してしまう。
期待したら、また裏切られるかもしれない。
「いや……っ」
かすれた声が漏れる。逃げたくても、身体に力が入らない。
苦しい。怖い。離れたい。そう思うのに、彼を好きだった時の記憶が胸を刺す。
ぐちゃぐちゃになった感情が、限界を超えた。視界が一気に黒く染まり、意識が闇へと沈んでいく。
最後に見えたのは、今までに一度も見たことのない、カイルハルトの表情だった。目を見開いて、ひどく怯えたような顔で——。
「——エレノア!」
彼は、彼女の名を呼んだ。




