第5話 失ったその日から
カイルハルトは夢を見ることがなかった。眠ればただ闇があるだけで、安らぎも慰めもない。
ただ、あの日からすべてが変わった。何度繰り返しても、同じ光景が瞼の裏に浮かぶ。
青すぎる空、白い大広間、そして、膝をついた女。
——エレノア・ハルーティア。
彼女は最後まで涙を見せることなく、ただ静かに微笑み、言ったのだ。
「何もございません、陛下」
その瞬間、胸の奥の何かがひび割れた音が聞こえた。だが、それに気が付くのが遅かったのだ。
刃が振り下ろされる。本来ならば、その刃が彼女の首を断つはずはなかった。そう、処刑人に命じて手配していたのだから。
彼女を処刑したことにして、誰にも知られぬように生かすために。帝国中から彼女の存在を消し去って、誰にも会わせずに、二度と逃げられぬように、ただ自分だけのものにするために。
これが最善の選択だと思っていた。表向きには裏切者として死んだことにし、地下に閉じ込める。毎日会いに行けばいい。何年かかってもいい。自分だけを見るようにできたら、それでいい。
彼女は優しい。きっと泣いて、怯えて、それでも最後には許してくれるだろうと、そう信じていた。
……そのはずだった。
処刑人は、刃を止めることはなかった。彼女の首が落とされる瞬間を、今でも覚えている。血が飛んで、床に赤が広がった。
そして、彼女の身体が動くことは二度となかった。
その時になって初めて、カイルハルトは立ち上がった。何を叫んだのか、自分でも覚えていない。処刑人の首を、その場で折ったことだけは覚えている。
だが、意味はなかった。何をしても、彼女は戻らないのだから。
その日から帝国は壊れた。いや、壊したのは彼だ。
カイルハルトは、エレノアを処刑に追いやる原因を作ったすべての者を処分した。ハルーティア公爵家も、元凶の妹も、彼女が皇后に相応しくないと言い続けてきた廷臣も。誰一人残すことはない。
だが、それでも足りなかった。どれだけ血を見ても、彼女が戻ることはない。
地下の部屋は、変わらず残っていた。本来ならば、彼女を閉じ込めるはずだった場所。窓のない部屋に、柔らかな寝台を置いた。彼女のために白い花を選び、机に飾った。
それらは誰にも見られることがないまま、そこにある。彼は毎晩その部屋に籠った。ただ、空っぽな寝台に触れていた。ここに、彼女がいることを想像して。
彼は狂っていたのだろう。しかしその時の彼にとっては、もうどうでもよかった。
エレノアがいない世界に意味はなかった。
目を開けて十年前に遡っていた時も、驚きはさほどなかった。
最初に確認したのは日付。次に確認したのは鏡の中の自分。そして、すぐに命じた。
「ハルーティア公爵邸に向かう」
突然の外出に、侍従達は固まっていた。婚約者候補の家に、前触れもなく行くと言い出したのだから当然だろう。だが関係ない。待つつもりなどなかった。
前は、時間をかけすぎた。距離を置いて彼女を観察し、慎重に行動して。結果、彼女を失った。ならば、最初から手に入れたら良い。
誰かに触れられる前に、誰かに奪われる前に、最初から自分のものにしてしまえばいい。
公爵邸で彼女を見た瞬間、カイルハルトの思考は一度止まった。
生きている。彼女が、生きている。目の前で膝をつき、震えている。その姿を見ただけで、喉が詰まった。
何度も夢に見た彼女の姿。一度は目の前で死んだ女が、息をしている。
しかしその様子は変わっていた。彼女と会うのは初めてであるはずなのに、彼女は自分を見た瞬間に顔色を失った。まるで、彼を恐れているかのように。そして、婚約すると告げた時に、彼女は即座に断ってきた。以前までは絶対にありえなかった反応だ。
彼女は従順だった。家族に逆らうことができずに、それに慣れてしまったせいか、いつも黙って耐えていた。それなのに今、彼を拒絶した。あまりに予想外のことで、彼は何も言うことができなくなった。
そして今日、部屋に彼女を呼び出した時も、彼女は震えていた。紅茶をこぼすまでに震え、青ざめて、謝り続けていた。
間違いなく、自分を恐れている。理由もなくそこまで怯えるとは考え難い。あの目は、彼を初めて見た時の反応ではない。
あれは、死を知る者の目だ。
◇ ◇
カイルハルトは、最初にエレノアを見た日のことを覚えている。婚約者候補として、公爵家の娘が初めて王宮へ招かれた日だった。
彼にとって、顔合わせなどどうでもよかった。政略結婚の相手など、家柄と血筋さえ問題なければ誰でも同じだと思っていた。そのためにその日も、彼は気乗りしないままに庭園へ向かった。
白い花の咲く東屋で。やってきた少女は、緊張したように両手を胸元で重ねていた。淡い髪色が風に揺れている。
ありふれた女だと、最初は思った。特別美しいわけでもない。華やかさがあるわけでもない。むしろ顔色は悪く、頼りなさそうで、少し触れれば壊れそうなほどに弱そうに見えた。
それなのに、彼女は彼を見た時に笑った。媚びるのではなく、取り繕うのでもなく、ただ嬉しそうに。
彼女が何故嬉しそうなのか、気味が悪く思うほどだった。彼は恐れられることに慣れていて、父帝にも臣下にも、誰からも本心を向けられたことなどない。
それなのにこの女は、どうしてそんな顔をするのか。理解できずに、気づけば視線を逸らしていた。
「お前がハルーティア公爵家の娘か」
短く言う。本当は名前も知っていた。書類で何度も見ていたからだ。
エレノア・ハルーティア。
しかし口にすることはためらってしまった。名を呼ぶことは親しい行為に思え、なぜか苛立ったからだ。
彼女はそれでも、嬉しそうに頭を下げた。
「はい、皇太子殿下。エレノアにございます」
その声が、妙に耳に残った。その夜、執務中に何度も思い出してしまうほどに。
それからだった。気づけば、彼女を目で追うようになっていた。夜会で誰に囲まれているのか、庭園で何を見ているのか、何を食べ、誰と話し、どんな時に笑うのか。
興味などなかったはずなのに、気づけば侍従に尋ねている。気づけば、彼女が風邪を引いたと聞いて自ら部屋に向かっていた。
額に触れた時に、彼女が驚いた顔で自分を見上げていた。その顔も、妙に心に残った。
だが、この時には理解しようとしていなかった。これは愛などではなく、ただ自分のものとなる女の状態を把握しておきたかっただけだと。そう思い込んでいた。
気づいたのは、結婚した後のことだった。ある夜に、執務室から戻る途中、中庭で彼女を見かけた。
月明りの下。たった一人で、怪我をした兵士の手を癒していた。侍女はおらず、誰も見ておらず、賞賛してくる相手もいない。それなのに彼女は、当たり前のように膝を付いて兵士の手を取っていた。疲れ切った顔で、眠たそうに目を擦りながら。
それでも、微笑んで。
「もう大丈夫ですよ」
その言葉を聞いた時、なぜか、胸がひどく痛んだ。
兵士は泣きながら礼を言っており、彼女は困ったように笑って去っていった。それを陰から見ていたカイルハルトは、しばらく動くことができなかった。
分からなかった。なぜ、腹が立つのか。なぜ、あの兵士が羨ましいと思ったのか。なぜ、自分に向けられたことのない笑顔に苛立つのか。彼女が他人に笑いかけるだけで、こんなにも苦しい。
この時に、彼は初めて自覚したのだ。自分は、エレノアという女を愛しているのだと。
だからこそ、触れることができなくなった。初夜も拒んだ。彼女に拒絶されるのが怖かったからだ。その身体に触れて、嫌悪されたら。怯えた目で見られたら。そう考えるだけで、彼の頭はおかしくなってしまいそうだった。
距離を取った。冷たい男のままでいれば、彼女が傷つくことはないと本気で思っていた。
……つくづく、愚かだった。
その結果、彼女は最後まで自分に愛されていないと思ったまま死んだのだから。




