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第4話 贈り物


 エレノアが床に膝をついたまま震えていると、カイルハルトが扉に視線を向けた。


「誰か」


 彼がそう言った途端に、外に控えていたと思われる侍従が即座に入室する。その早さに、エレノアはわずかに肩を揺らした。前の世でも同じだった。この人の命令ひとつで、様々なことが動く。帝国そのものが、彼の意志に従う。

 カイルハルトは視線をエレノアに戻して言った。


「彼女の処置を」

「かしこまりました」


 短い命令に、侍従はすぐに頭を下げる。やがて侍女が数人呼ばれ、エレノアは半ば引きずられるように隣室へと連れて行かれた。混乱で何も考えられず、ただされるがままに濡れたスカートをめくられ、冷たい布で膝を冷やされる。


「少し赤くなっておりますが、大事には至りませんわ」


 年嵩の侍女が優しく言った。しかしエレノアには、その言葉すら耳に入ってこない。

 とにかく、意味が分からなかった。どうして、どうして彼は自分なんかの火傷を気にするのか。以前は結婚してからも、このように誰かを呼んでくれたことはなかった。熱を出した時も、ただ一言「薬は飲んだのか」と聞いただけだったのに。


 胸がざわつく。彼の変化は何? 過去とは異なり、何かが変わったのだろうか?

 彼女が震えている間に処置が終わり、再び彼の部屋へと戻される。彼は、椅子に座って書類に目を通していた。彼女に気がつくと顔を上げる。

 その金色の瞳と目が合った瞬間、エレノアは反射的に俯いた。


「……失礼致しました」


 声が震える。カイルハルトはしばらく黙っていたが、書類を机に置いて口を開く。


「今日はもう、帰っていい」


 その言葉に、ほっと息が漏れそうになる。しかし、彼女が頭を下げて背を向けようとした時。


「少し待て」


 ぴたりと身体が止まる。心臓が嫌な音を立てた。

 彼は机の上に置かれていた細長い箱を手に取る。濃紺のリボンが結ばれた、小ぶりな白い箱だ。そして彼は、それをエレノアに差し出した。


「持っていけ」


 意味が分からずに、エレノアは目を瞬く。


「……こちらは?」

「お前への贈り物だ」


 あまりにも自然に言われ、彼女は戸惑った。前の世では、彼から何かを贈られたことなど一度もない。誕生日にも、記念日にも、何ひとつなかった。それなのに今は、まだ婚約の打診を受けたばかりで、しかも会ってから二度目だというのに。なぜ。


「受け取れ」


 低い声に逆らえず、彼女は震える手で箱を受け取った。軽い。

 開けるように促されてそっと開けると、中には一輪の花が入っていた。淡い白の花弁に、薄く青を帯びている珍しい花。夜明けの霧のような、美しい花だ。


 エレノアはそれを目にして息を呑む。この花は、よく知っている。王宮の温室で何度か見かけて、珍しくてつい長く見つめていたことがあったから。


「……ありがとうございます」


 喉がひどく乾いていた。どうして彼がこのようなものを贈ろうと思ったのかは何ひとつ分からないが、頭を下げることしかできない。

 カイルハルトは、やはり何も言うことはなかった。ただじっと、エレノアの目を見つめている。その視線が妙に重たく感じられ、彼女は逃げるように部屋を辞した。







 帰りの馬車の中でも、花を持つ手は震えたままだった。父は上機嫌で何度も言った。


「殿下自ら贈り物をなさるとは! お前も少しは役に立つではないか」


 エレノアは父の言葉を聞き流して、花を抱えたまま窓の外を見つめた。淡い花弁が視界に入るたびに、心がざわつく。

 捨てられるものなら、捨てたい。でも、できない。


 あの人から初めてもらったものだからと未だに考えてしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。





 公爵邸に戻ると、すぐに妹が駆け寄ってくる。


「お姉様、お帰りなさいませ。殿下とはどのようなお話を?」


 無邪気な声。前の世と同じだ。何も知らないふりをして、エレノアからすべてを奪っていく声。


「……特に、何もお話をしておりません」


 エレノアは避けるように部屋へ向かおうとした。しかし、リリアナの視線が、彼女の腕の中の箱へ留まる。


「あら、それは?」


 嫌な予感がした。エレノアは思わず箱を抱きしめる。


「これは……」

「見せてくださらない?」


 甘い声で、問われる。断れる空気ではない。断れば、我儘だと責められる。

 エレノアが戸惑っている間に、リリアナは勝手に箱を手に取って中身を覗き込んだ。そして、目を輝かせる。


「まあ、綺麗ね!」


 彼女はためらいなくその花を持ち上げる。


「やめ……っ」


 思わず声が漏れる。リリアナは驚いたように目を丸くしたあと、くすりと笑う。


「お姉様がそんなに大事そうにしていらっしゃるなんて、珍しいですわね」


 リリアナは、花弁を撫でながら首を傾げる。


「殿下にいただいたものなのですか? ふふ、お姉様ったら。婚約しただけで、もうそんなに浮かれてしまっているの?」


 その言葉に、背後にいた使用人達は小さく笑う。エレノアの喉がきゅっと締まった。


「違……」

「まあ、そうですわよね。お姉様、殿方からこのようなものをいただくのなんて初めてなのでしょうし」


 言いながら、リリアナは花をくるくると弄ぶ。乱暴ではないが、エレノアにとって大切なものだと知っていて、わざと軽く扱っているのだ。


「でも安心してくださいませ。この贈り物のお礼は、わたくしが殿下に申し上げておきますわ」


 エレノアは目を見開いた。


「え……?」

「だって、お姉様はこういうこと苦手でしょう? 殿下もきっと、わたくしの方がお話がしやすいでしょうから」


 にっこりと微笑む。その顔は傍から見れば愛らしく、何も知らなければ優しい妹にしか見えない。しかしエレノアは痛いほどに知っている。この妹は、この笑顔を浮かべたまま、すべてを奪っていくということを。

 リリアナは花を持ちながら、思い出したように言う。


「そういえば、お姉様。先日わたくしのお茶会用の真珠の髪飾り、勝手に持っていかれたでしょう?」


 何が言いたいのかよくわからなかった。エレノアは瞬きを繰り返す。


「……わたくしは、そのようなことをしておりません」

「返してくださらなくても結構ですわ。お姉様も欲しかったのですよね?」


 違う。そんなことはしていない。そもそも、そのような髪飾りがあるということすら知らなかった。しかしリリアナは、悲しそうに微笑むだけで当然のように話を進めていく。


「お姉様は昔から、人のものを欲しがる癖がありますものね。特に、わたくしが持っているものを」


 息が止まりそうになった。そんなのは嘘だ。しかし、それを口に出して言うことができない。

 エレノアは、ようやく理解する。前の世で、社交界で囁かれていた噂。強欲で陰気な姉、妹に嫉妬する性悪女。そういった噂は、こうして作られていたのだと。少しずつ、何気ない顔で笑いながら、姉の嘘の悪評を流していく。

 リリアナは空の箱を一瞥して、また笑った。


「このお花はわたくしが預かっておきますわね。お姉様にこんな繊細なお花は似合いませんわ。それに、お姉様が傷つけてしまったらもったいないですもの」


 そして、彼女は細い指で花弁を一枚、ぷちりと千切った。


「……っ!」


 息を呑むエレノアを見て、リリアナは首を傾げる。


「まあ、ごめんなさい。弱いお花なのね」


 悪びれもせずにそう言って、妹は嬉しそうに花を胸に抱いて階段を上っていく。

 廊下に一人残されたエレノアは、その背中を見つめながらただ立ち尽くした。胸の奥が、じくじくと痛む。

 今まで一度ももらうことができなかった贈り物。初めて手にしたそれを、返してほしかった。


 なのに。なのにまた、何も言えなかった。

 喉が詰まる。返してと、言えばよかったのに。このままだと、昔と何も変わらない。


 何も言えずに、ただ奪われるだけだ。

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