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第3話 愛した記憶


 王宮へ向かう馬車の中で、エレノアはずっと俯いていた。窓の外では、見慣れた帝都の街並みが流れていく。何度も何度も、見てきた景色だ。

 皇后となってからは、この道を馬車で通る時に、窓を少しだけ開けて街を眺めるのが好きだった。民の笑い声や、子どもたちがはしゃぐ声を聞くと、自分もこの国の一部なのだと思うことができたから。


 ……その民を守るために祈り続けたことも、結局は何ひとつ報われることがなかったのだけれど。


 膝の上で握りしめている手が冷たい。向かいに座る父は、上機嫌だった。


「まったく、お前も余計なことを申すものだ。皇太子殿下の前で婚約の打診を断るなど……肝を冷やしたぞ」


 叱責する口調ではあるが、その顔には笑みが浮かんでいる。皇太子妃の座が手に入るのだから、当然だろう。前の世でも、この人達は彼女自身ではなく地位だけしか見ていなかった。

 返事をしないエレノアに、父は気分を害したように眉をひそめる。


「聞いているのか」

「……はい、お父様」


 それ以上は、何も言わない。言っても無駄だと知っている。嫌というほどに、学んできているから。

 父の顔を見ていたくなくて、視線を落とす。すると、思考はどうしても過去へと引き戻されていった。





 ◆ ◆





 初めて、カイルハルトと二人きりで話した日のことをよく覚えている。婚約が決まって間もない頃、王宮の庭園でのことだった。

 冷たい風が吹く冬の午後で、白い薔薇が咲き誇っていた。彼は庭園の東屋に一人で立っていて、エレノアが来ても振り向かなかった。ただ、低い声で言った。


「お前がハルーティア公爵家の娘か」


 それが、最初の言葉だった。挨拶もなく、名前を呼ばれることもない。それでも、エレノアは嬉しかった。ようやく、婚約者と言葉を交わせたのだから。彼女は一生懸命に答えた。


「はい、皇太子殿下。エレノアにございます」


 すると彼は、少しだけ彼女を見た。綺麗だと思った。恐ろしいほど整った顔なのに、どこか孤独そうで。


「そうか」


 彼はそれだけを言って、また視線を逸らした。会話も続かず、それだけで。

 それでもエレノアは、その夜に眠れないほどに高揚していた。たった一言を交わしただけで、胸が熱くなって仕方がなかった。

 あの時から、きっともう何かが始まっていたのだ。





 結婚式のこともよく覚えている。豪華な白いドレスを着て、祝福の声を浴びて、隣には夫となる人がいる。すべてが、夢のようだった。

 皇后となった日の夜。エレノアは緊張で手が震えていた。


 初夜。夫婦として結ばれる夜。

 愛されていなくても構わなかった。少しだけでも、彼のそばにいられるなら。

 そう思っていたのに、寝室に入ってきたカイルハルトは、仕事着のままだった。そして彼は、ソファに座る彼女を一瞥して冷たく言った。


「今日は別室で休む」


 エレノアは呆然とした。


「……え」

「お前に触れるつもりはない」


 感情が一切込められていない冷たい声。当然のことを告げているかのような声色。彼はそのまま踵を返し、扉の前で一度だけ立ち止まる。


「必要なものがあれば侍女に言え」


 それだけを言って、去っていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 広い寝室にひとり残されて、エレノアはしばらく動くことができなかった。彼に触れてもらえると思っていた自分が恥ずかしくなった。自分に魅力がないとはっきりと言われた気分になって、情けなかった。

 しかしそれ以上に、自分が少しでも期待していたことに気付いてしまったのが、苦しかった。少しだけでも、夫婦になれるのではないかと、そんな希望を抱いていたことが。


 涙が流れそうになったが、泣くことは我慢した。泣いてしまえばもっと惨めになる気がしたから。

 ただ、その日は朝まで眠ることができなかった。





 ◆ ◆





 馬車が大きく揺れて、エレノアははっと顔を上げた。呼吸が浅くなり、胸が苦しい。気づけば、自分の手が震えていた。

 嫌な記憶ばかりが蘇ってくる。それなのに、どうしてだろう。あの人の冷たい声でさえ、懐かしいと思ってしまった。


 自分を嘲りたくなる。死んでもなお、こんなにも未練があるなんて。


「着いたぞ」


 父の声で、現実へと引き戻される。馬車の扉が開かれて、見上げた先に広がるのは白亜の王宮だ。巨大な正門に、青空に突き刺さりそうな塔。前の世で彼女が暮らしていた場所であり、そして死んだ場所でもある。

 足がすくんだ。馬車から降りられない。


「何をしている」


 父に腕を掴まれて、無理やり馬車から降ろされた。地面に降り立った時、吐き気がした。今すぐに帰りたいのに、帰れない。

 父に連れられながら、長い廊下を進む。彼女らを見るなり侍従達が一斉に頭を下げ、その光景さえ前の世と重なって胸が締め付けられた。

 エレノアは、ただ必死に歩いた。逃げたい衝動を押し殺しながら。


 やがて、父はある扉の前で止まる。豪奢な金細工の施された扉。何度も見て、何度も入ったことのある、カイルハルトの私室。


「お、お父様……」


 顔色を真っ白にした彼女は、思わず声を漏らした。父は振り向きもしない。


「粗相はするなよ」


 それだけを言って、侍従に促されるままにエレノアを部屋の中に押し込んだ。

 背後で、扉が閉まる重たい音が響く。広い室内に、しんと静寂が満ちていた。

 窓際に立つ、一人の男。黒い軍服を身に纏い、漆黒の髪を持つ。そして、振り返った金色の瞳と目が合った瞬間に、エレノアの全身は強張った。


 逃げられない。息ができない。前の世では、何度も何度もこの部屋を訪ねた。書類を届け、政務の相談をするために。そして最後に訪れたのは……罪人として捕らわれる前夜だっただろうか。

 喉の奥が震える。足が勝手に動いて、床に膝をついた。


「……え、エレノア・ハルーティア、お呼びにあずかり参上致しました」


 声が震えた。俯いたまま、顔を上げることができない。しばらく沈黙が続いた後、低い声がすぐ近くで聞こえた。


「……お前は、私を恐れているのか」


 エレノアの肩がびくりと跳ねる。気づけば、彼はもう目の前まで来ていた。

 その問いかけに、すぐに答えることはできない。怖いという一言で片づけてしまっていいのか分からないほどに、エレノアの胸の内はぐちゃぐちゃだった。


 彼女は確かに、彼のことを愛していた。愛していたからこそ、怖いのだ。また同じ結末に辿り着くのではないかと思うと、息ができなくなる。……しかしそのようなことを言えるはずもない。

 俯いたまま唇を噛み、どうにか声を絞り出す。


「……そのようなことは、ございません」


 自分でもわかるほどに声が震えていた。恐ろしくて、顔を上げることもできない。すると、不意に頭上で小さく息を吐く気配がした。


「立て」


 短い命令に、反射的に身体が動く。震える膝を叱咤して立ち上がると、カイルハルトは何も言わずに部屋の奥へと歩いて行った。その背中をつい目で追いかけてしまう。

 その背中は、何度も遠くから見つめてきた姿だった。

 彼は応接用のソファの前で立ち止まり、彼女を振り返る。金色の瞳が、まっすぐとエレノアを見ていた。陽を溶かしたような色なのに、その光は冷たい。


「座れ」


 断ることなどできやしない。


「……はい」


 エレノアはぎこちなく頷き、そろそろとソファに腰を下ろした。柔らかな座面に身体が沈む感触さえも懐かしくて、胸が痛い。何度かこのソファに座ったことはあるが、その時彼女は皇后という立場だった。

 今は違う。ただの公爵令嬢でしかない。それなのになぜ、こうして二人きりで呼び出されているのか分からない。考えれば考えるほど、嫌な予感が増していった。


 ほどなくして侍従が入室し、二つのカップを載せた銀の盆を置いて去っていく。紅茶の芳しい香りだ。カイルハルトはエレノアの向かい側に座ると、自然な動作でカップを手に取る。


「飲め」


 その一言に、エレノアはびくりと肩を震わせる。

「……はい」


 両手でそっとカップを持ち上げた。しかし、自分でも驚くほどにひどく手が震えている。

 だめ。落ち着いて。落ち着かなければ。

 そう思うほどに指先に力が入らなくなる。取り繕いながら唇に紅茶を運ぼうとした、その時。カップが傾いた。


「あ……」


 熱い液体が、ぱしゃりとスカートの上に零れる。淡い色のドレスに茶色い染みが広がった。慌ててカップをソーサーに戻すも、大きな音を立ててしまう。

 エレノアの顔から血の気が引いた。皇太子の前で、こんな失態を晒してしまうなんて。立ち上がろうとして、スカートを押さえたままソファから半ば転げるように膝を突いた。


「も、申し訳ございません……!」


 声が裏返った。頭を深く下げる。熱い紅茶が肌にまで触れているが、それどころではない。


 彼を怒らせてしまう。また、失敗をしてしまった。どうしてこんなにうまくいかないのだろう。彼女の呼吸が、段々と浅くなっていく。

 その時、彼が立ち上がる気配を感じて、目の前に黒い軍靴が迫った。エレノアの身体が強張る。

 叱責されると、そう思った。しかし落ちてきた声は、予想と違った。


「……火傷はしていないか」


 その言葉の意味を、理解するのに時間を要した。彼女は恐る恐る顔を上げる。

 目の前に立つカイルハルトの表情は変わらない。だがその金色の瞳だけが、鋭く細められていた。機嫌を損ねたのだと思い、彼女はさらに頭を下げる。


「だ、大丈夫でございます……! わたくしの不注意ですので……どうか、お気になさらず……」


 やはり、声が震える。膝をついたまま必死に謝るエレノアを見下ろし、カイルハルトは何も言わなかった。

 しかし、その金色の瞳は先程よりもさらに鋭くなった。まるで、何かに怒りを感じているかのように。

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