第2話 「お前と婚約する」
父に呼び出され、エレノアが応接間の前に立った時には、すでに嫌な予感が胸いっぱいに広がっていた。
扉の向こうから聞こえる声は、とても華やいでいる。父の取り繕ったような笑い声、母の普段よりも数段高い上品な声、妹の甘く媚びた声。何度も聞いてきた声だ。自分だけがそこに存在していないと突き付けられるような、賑やかな空気。
ミアが、不安そうにエレノアを見上げる。
「お嬢様、本当にお身体は……」
「大丈夫よ」
そう答えた声は、自分でも驚くほどに掠れている。
大丈夫なはずがない。熱はまだ残っているし、身体も重い。しかしそれ以上に、この応接間の中に入ることが嫌だった。
心の準備をして間もなく、侍従が扉を開けて恭しく頭を下げる。
「エレノア様がいらっしゃいました」
応接間の中を見た瞬間に、エレノアの足は止まった。同時に、呼吸も止まる。
窓辺に立っている、ひとりの男。漆黒の髪に、恐ろしく整いすぎた横顔、そして黄金の瞳。
——皇帝カイルハルト。
その姿を見た途端に、エレノアの全身からは血の気が引いた。立っていられないほどの恐怖が押し寄せ、喉の奥がひゅぅと鳴った。
この時の彼は、まだ皇帝ではなく皇太子かもしれない。そんなことは関係なくて、彼が目の前にいるというだけで、首筋にあの刃の冷たさが蘇ってきたのだ。
「何をしている、エレノア」
父の叱責で、彼女は我に返る。父は青ざめながらも笑顔を崩さず、鋭い視線だけを彼女に向けていた。
「皇太子殿下の御前だ。早くご挨拶を!」
その声に、エレノアははっとして膝を折る。震える足で一歩進み、スカートをつまんで深く礼をした。
「……お初にお目にかかります、皇太子殿下。エレノア・ハルーティアにございます」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。床を見つめたまま、顔を上げることができない。
怖い。視線を合わせたくない。前の世では、何度も彼の足元に膝をついた。皇后になってからも、それは続いた。処刑される、その瞬間まで。
「顔を上げろ」
低い声。殺された時と、同じ言葉。
エレノアは、ゆっくりと顔を上げる。彼と目が合った瞬間、心臓が止まりそうになった。
カイルハルトは、エレノアを見下ろしたまま微動だにしなかった。まるで、彼の時間が止まったかのように。その黄金の瞳が、信じられないものを見たかのようにわずかに揺れる。しかしすぐに無表情に戻り、何も言わずにただじっと彼女を見つめていた。
それが、怖くてたまらなかった。応接間には両親がいて、母はにこやかに笑い、妹は着飾っている。薄桃色のドレスに巻いた髪、いつもよりも派手に化粧までしている。明らかに、彼の来訪を知っていたということが分かる。
その妹は、上目遣いに微笑んでいた。
「殿下、本日はこのような田舎の邸にまでお越しいただき、光栄ですわ」
甘ったるい声。何度も聞いてきた。エレノアの功績を奪いながら、無邪気に笑っていた声。
カイルハルトは妹に一瞥すらすることなく、代わりというように窓辺から移動をし始めた。父が慌てて姿勢を正し、母が息を呑み、妹が頬を染める。
エレノアだけが、怯えていた。その理由は、彼がまっすぐに彼女へと歩いてきたからである。一歩、また一歩と。靴が絨毯を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
逃げたい。でも足が動かない。
カイルハルトは、エレノアの目の前で立ち止まった。距離が近い。息が詰まる。前の世でも、これほど近くで見つめられたことはほとんどなかった。思わず後ずさりそうになったその時。彼が、口を開いた。
「お前と婚約する」
……は?
頭が真っ白になった。その言葉の意味が理解できない。
婚約? 誰が、誰と? 誰のこと?
数秒遅れて、それが自分のことだと気が付いた瞬間、エレノアの口からは反射的に言葉が飛び出していた。
「お断りいたします」
静寂が落ちた。誰も息をしていないのではないかと思うほどの静かさ。父の顔が凍り付き、母が口元を押さえ、妹が射殺さんばかりに睨んでいるのが視界の端で見える。
そしてカイルハルトは、僅かに目を瞬いた。まるで、予想外のことが起きたと思っているような顔。その表情を見た瞬間に、エレノアは自分が何をしたのかを悟った。
しまった。しまった、しまった。
何を言ってしまったのだろう。彼の言葉を拒否することなんて、今までにも一度もなかったのに。
「な、何を申すか、この愚か者が!」
父の怒号が響いた。その直後に父はエレノアの肩を乱暴に掴み、無理やり床に押し付ける。
「申し訳ございません殿下! これは熱に浮かされておりまして、頭が狂ってしまったのでしょう! 婚約はもちろん、お受けいたしますとも!」
父の声は上ずっていた。母も慌てて頭を下げている。
「どうかご容赦を。娘は少々臆病なところがありまして……」
エレノアは床に押さえつけられたまま、呆然としていた。
違う。このままでは駄目だ。断らなければいけないのにとそう思うのに、喉が震えて声が出ない。
カイルハルトは何も言わずに、ただ父の手に押さえつけられてエレノアをじっと見下ろしている。その目には、一瞬のことであるが、暗い色が宿ったような気がした。
「……そうか」
その短い呟きに、父はほっとしたように何度も頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます!」
カイルハルトはエレノアから視線を外すことなく、平坦に言う。
「三日後、王宮へ来い」
その言葉が誰に向けられたものなのか、聞かなくても分かった。エレノアの喉がきゅっと締まる。
彼はそれ以上は何も言わなかった。踵を返して、そのまま応接間を出ていく。誰も引き留めることはできない。父と母は深々と頭を下げ続け、妹は顔を赤くして唇を噛んでいた。
扉が閉まる音が響いた瞬間に、エレノアの全身からは力が抜けた。床に膝をついたまま、指先を温めるように握りしめる。
どうして。どうして、こんなことになっているの。前の世では、エレノアとカイルハルトが婚約をするのはもっと後のことだった。それに、このように直接公爵邸を訪れて直々に話をすることなど一度もなかったのに。




