第1話 処刑された皇后
その日、窓の外に見える空は、どこまでも青かった。
……まるで、自分が死ぬことを天も歓迎しているかのようだ。
皮肉だと、エレノア・ハルーティアはぼんやりと思った。
皇城の大広間は、いつもと変わらず静かだった。白い床が日の光を反射している。貴族達が列をなしており、その視線はすべて彼女に向けられている。そのほとんどが、蔑みで満ちていた。
——反逆者。
——皇帝陛下を裏切った女。
——愚かな皇后。
ひそかな囁きが耳に届く。しかしエレノアは、それらの言葉には何も感じなかった。彼女もまた、ただ一人だけを見つめている。
玉座に座る、帝国の頂点に立つ男、カイルハルト皇帝。
闇を閉じ込めた漆黒の髪に、金色の瞳。その恐ろしいまでの美貌は、今日も何一つ変わらない。結婚して三年も経っているはずなのに、その人は最期まで遠いままだった。
夫でありながら、彼は一度も彼女を名で呼ぶことはなかった。いつもただ、「お前」と。それだけでも、その一言をかけてもらえるだけで、彼女は嬉しかったのだ。彼女自身、愚かな女だと思っている。
彼との結婚は、典型的な政略結婚だ。名門公爵家の長女であったエレノアと、皇太子殿下だった頃の彼との婚姻。そこに愛などあるはずもなかった。
それでも、ある冬の夜。熱を出して寝込んでいた彼女の元に、彼が訪ねたことがある。彼は冷たい手で額に触れて、低い声で言った。
「薬は飲んだのか」
それだけだった。優しい言葉はなかったし、表情も一切変わっていなかった。
それなのに、エレノアはその日眠ることができなかった。彼が、初めて自分を気にかけてくれた。それだけで胸がいっぱいになってしまったのだ。馬鹿みたいに、些細なことで喜んで。
「顔を上げろ」
低い声が響く。エレノアはびくりと肩を震わせた。
何度聞いても慣れることのない声だ。結婚してからも、その声を聞くたびに胸が苦しくなった。嬉しいという思いよりも先に、恐ろしさが勝ることの方が多かった。この人が何を考えているのか、一度も分かることがなかったから。
彼女はゆっくりと顔を上げる。そして、彼と目が合った。宝石のような金色の瞳が、真っ直ぐに彼女を見下ろしている。冷たく、感情は読み取ることができない。
いつだって、そうだった。エレノアがどれほど心を尽くしても、彼の表情が変わることはなかった。戦地で傷ついた兵を癒し、疫病で苦しむ民を救い、夜通し祈って国の結界を維持した。すべて、皇后として当然の義務を果たしていたと思っていた。
……そのすべてが、妹の功績にされていたことを、つい昨日まで知らなかった。
家族に利用されていた。すべてを妹に奪われていた。そして要らなくなった彼女に、存在しない罪を着せたのだ。
それでも、彼だけは信じてくれると思っていた。彼女がしてきたことを、彼女が彼を裏切るはずがないということを。
しかし。
「エレノア・ハルーティア」
そう呼ばれた瞬間、息が止まった。
名前。初めて、名前を呼ばれた。信じられず、目を見開く。その声に温度はなく、ただ裁きを告げるだけの冷たい声だったとしても。
「お前を国家反逆罪により処刑する」
世界が静まり返り、彼女の胸の中では何かが音を立てて崩れ落ちた。
ああ。今、名前を呼んでくださるのですね。こんな時だけ、あなたはわたくしの名を。
思わず笑いそうになった。どんな理由であれ、彼に名前を呼ばれたことを少しでも嬉しいと思ってしまった自分が、あまりにも惨めで。
処刑人が近づいてくる。鋭い刃が、陽を反射した。彼が、玉座から動くことはない。
そこで、彼女はようやく理解した。あの夜、彼が額に触れたことも。雨の日に上着をかけてくれたことも。寂しい日に黙って隣に座ってくれたことも。すべてが、ただの気まぐれだったのだ。
彼女だけが、優しさだと勘違いしていただけで。
「何か言い残すことはあるか」
最後の情けなのか、それとも形式的なものか。彼女はその問いに、ほんの少し考える。
本当は、聞きたかった。自分を少しでも愛してくださったことはあったのか、と。だがそんなことを聞いてしまえば、最期まで哀れな女になってしまう。
だから、微笑んだ。唇が震えないように気を付けながら。
「何もございません、陛下」
そう言った時、彼の眉がほんのわずかに動いた。初めて見る顔だった。少し、苦しそうにも見えて。
しかしその顔はすぐに消えた。
「執行しろ」
短い命令で、刃が振り上げられる。
ああ。ついに、終わるのだ。自分の人生も、この恋も。
もしも、やり直す機会があったならば。その時は、もう二度と、この方を愛することがありませんように。
刃が振り下ろされる、その瞬間。
「——っ」
誰かが声を呑んだ音が聞こえた。それが誰のものであったかを知ることはなく、エレノアの意識は闇に沈んだ。
冷たい刃が首筋に触れた感覚だけが、いつまでも残っていた。
息ができない。苦しい。視界が真っ暗で、どこまでも沈んでいくような感覚。
……嫌だ。死にたくない。あんなふうに、彼に見捨てられたまま惨めに終わりたくない。
助けてと、そう叫んだつもりだった。しかし声はどこにも届かずに、闇の中に沈んでいくばかりで。
「お嬢様!」
耳元で、聞きなれた声が聞こえた。
はっと目を開けた瞬間、激しく咳き込む。空気が一気に流れ込んできて、胸が焼けるように痛んだ。震える手で、喉元を押さえる。
……ある。
首が、ある。
切り落とされたはずの場所に、温かな皮膚がある。
「お嬢様、よかった……っ」
泣きそうな顔でエレノアを覗き込んでいるのは、侍女のミアだった。
ミア。茶色の髪をきっちりと結い上げた小柄な少女。最後までエレノアに仕えてくれた、たった一人の侍女。しかし彼女は、処刑の前にどこかに連れ去られたはずだった。
……殺されたと、話では聞いていた。罪人であるエレノアを庇った罪で。
「……ミア?」
「はい、お嬢様。ミアはここにおります」
ミアが、生きている。その事実に、目の奥が熱くなる。しかし次の瞬間には、激しい頭痛が彼女を襲った。割れるように頭が痛み、思わず呻いて額を押さえる。
「お嬢様! まだ熱がございます。無理をなさらないでくださいませ」
熱。言われてみれば、全身が鉛のように重い。
現状を確認するためにも、視線を巡らせる。彼女がよく知る寝室だった。淡いクリーム色の天蓋、窓辺に置かれている白い花瓶、幼い頃から愛用していた化粧台。
……公爵家での、エレノアの部屋だった場所だ。身体が、震える。
「今日……は……何日、なの……?」
「帝国暦四百十二年、春の月七日でございます」
それを聞いた時、エレノアの顔から血の気が引いた。
十年以上前だ。まだ、皇太子妃候補に選ばれる前。皇帝カイルハルトに出会うことすらしていない頃。
こんなこと、ありえない。確かに彼女は、あの人に見下ろされながら、あの玉座の前で死んだはずなのだ。
震える指を握りしめながら、何度も何度も呼吸を繰り返す。落ち着いて考えろ。これは夢ではない。夢にしては、あまりにも鮮明すぎる。
死の痛みも、あの声も、最期に呼ばれた名前も。全部を、はっきりと覚えている。
「……時間が、戻った?」
かすれた声が漏れた。その声を微かに聞き取ったのか、ミアが首を傾げる。
「如何なさいましたか、お嬢様?」
「……何でもないわ」
ぼやかしながら、唇を噛む。
過去に戻った。到底信じられることではないが、それ以外に説明はできない。
もしも、これが彼女にやり直す機会を与えてくれる奇跡なのだとしたら。もう二度と、同じ道を辿らなければいい。
カイルハルトに近づかなければ。あの方を愛さなければ。結婚などしなければ。きっと、あんな最期は訪れない。
胸の奥にあった苦しさが、少し薄れた気がした。しかし身体は正直だ。安心した途端に、限界がきたように意識が遠のく。
そのまま、エレノアは再び深い眠りに落ちた。
◇ ◇
次に目を覚ました時には、三日が経っていた。高熱は下がったものの、身体はまだ怠い。そんな中、エレノアは目を閉じている間に何度も考えた。
殺された時のこと。家族のこと。妹のこと。カイルハルトのこと。そして、これからどうするのか。
結論は一つだ。この家を信用してはいけない。あの人に近づいてはいけない。誰にもこのことを話してはいけない。神の温情で過去に戻れたのだから、今度こそは長生きして、穏やかに生き延びたい。それだけだ。
そう決めた矢先のことだった。控えめなノックの後、ミアが困ったような顔をして入ってくる。
「お嬢様……。旦那様が、お呼びです」
エレノアは、ゆっくりと顔を上げた。旦那様、つまり彼女の父である公爵のことだ。
心が冷たくなる。公爵は、一度も彼女の味方になったことはなかった。
「……何かあったの?」
「それが……お伝えされていません。ただ、すぐに来るようにと」
エレノアは、無意識に毛布を握りしめた。熱はまだ完全には引いていなくて、身体を起こすだけで視界が揺れる状態である。それなのに、呼び出しを受けるなんて。昔の彼女なら、何の疑問すら思わなかっただろう。家族の命令に従うのが当然だと思っていたから。
それでも、今ならわかる。この家にとって彼女は、娘ですらない。利用できる駒なだけ。
エレノアは目を伏せて、小さく息を吐いた。
「支度をしましょう」
「ですが、お嬢様のお身体が……」
「大丈夫よ、ミア」
彼女は微笑んで見せるが、ミアは不安そうに眉を下げた。そんなミアに対し申し訳ないと思いながらも、エレノアは寝台から足を下ろす。床の冷たさが、素足なので直接伝わってきた。




