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琥珀色の傘を君に ―復讐の果ての、ありふれた奇跡―  作者: 久遠 睦


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泥沼の告発、あるいは断罪の教室

1. 弾ける静寂


その日の朝、オフィスに降り注いだのは、冬の予感を含んだ冷たい朝日ではなく、一通の電子メールが引き起こした「破滅」の砲弾だった。


午前九時。社員たちが一斉にパソコンを立ち上げ、ルーチンワークを開始するその瞬間。全役員、コンプライアンス委員会、そして主要な管理職たちの受信ボックスに、同じタイトルのメールが着信した。


『【重要・内部告発】営業第一課におけるパワーハラスメント、冤罪の強要、及び公金横領に関する証拠提出について』


送信専用の暗号化されたアドレスから送られたそのメールには、幾つかの音声ファイルと、スキャンされた領収書の束、そして詳細な時系列のレポートが添付されていた。


一ノ瀬の洋館で、私はタブレットの画面を通じてその「爆発」を観測していた。一ノ瀬が仕掛けたバックドアを通じて、オフィスの監視カメラと一部の端末のログがリアルタイムで流れ込んでくる。


「……始まった」 私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。 画面の中では、最初の一人がメールを開き、隣の席の同僚に耳打ちし、それが波紋のようにフロア全体に広がっていく様子が見て取れた。キーボードを叩く音が止まり、ざわめきが物理的な圧力となって、画面越しにこちらまで伝わってくるようだ。


「人間という生き物は、他人の不幸が大好物ですからね。それが『完璧な上司』の不祥事となれば、拡散のスピードは光よりも速い」 一ノ瀬はソファに深く腰掛け、チェスの駒を弄びながら言った。 「さて、九条さんはどう動くでしょうか。逃げ場のない鼠は、最後にどの出口を選ぶのか」


監視カメラの映像が、九条課長――いや、九条の姿を捉えた。 彼はいつも通り、自信に満ちた足取りでフロアに現れた。しかし、席に着いた瞬間、周囲の「空気」の異変に気づいたようだ。誰も彼と目を合わせようとしない。それどころか、親しかったはずの部下たちが、露骨に彼から距離を置いている。


彼が自分の席に座り、パソコンの画面に視線を落とした瞬間。 九条の背中が、目に見えて強張った。 彼の顔から血の気が失せ、浅黒い土色へと変わっていく。震える手でマウスを操作し、添付された音声ファイルを再生したのだろう。イヤホンをしていても、彼には自分の声がはっきりと聞こえているはずだ。


『……佐藤君、お願いだ。一度、美智子に会ってくれないか。そして、『あのLINEはすべて私の狂言で……』』


昨夜、公園で私に放ったあの言葉。自分の保身のために、一度壊した部下の人生をさらに踏みにじろうとした、傲慢な肉声。


その時、フロアの奥から、部長を含めた数名の役員が険しい表情で現れた。 「九条君、ちょっといいか。会議室へ来てくれ」 部長の声は、かつて私が不当に叱責された時のように冷酷で、一切の情けを排していた。


九条は、幽霊のようにふらふらと立ち上がった。その横顔には、もう「優秀な上司」の面影はどこにもなかった。


2. 裏切りの連鎖


一方、佐々木莉奈は女子トイレの個室に籠もっていた。 彼女もまた、全社に送信されたメールを見て、自分の名前が「共犯者」として挙げられていることに絶望していた。


一ノ瀬が私のスマートフォンに、莉奈からの着信を表示させた。 「……出ますか?」 「いえ、まだです。彼女には、もっと『孤独』を味わってもらわないと」


莉奈は、一ノ瀬が用意した「偽の実業家」との連絡も取れなくなり、九条も拘束され、会社という後ろ盾も失おうとしていた。彼女が今、頼れる人間は世界中に一人もいない。


一時間後。本社の大会議室では、臨時のヒアリングが行われていた。 一ノ瀬は音声のみを傍受し、スピーカーから流した。


『九条、この音声に間違いはないな? 君は退職した佐藤君に対し、口止め料を提示して偽証を迫った。これは強要罪にも当たりかねない重大なコンプライアンス違反だ』 部長の厳しい追及。九条は、掠れた声で弁解を試みていた。


『……い、いえ。これは、彼女の方が……佐藤君が、私を脅してきたんです。私は、家庭を守るために、やむを得ず話を合わせただけで……。すべては、佐々木莉奈が仕組んだことなんです! 彼女が佐藤君のフリをしてLINEを送り、私を誘惑したんです!』


「醜いですね」 私は思わず呟いた。 自分を愛していると信じ、不倫に付き合っていた後輩に、すべての罪をなすりつけようとしている。一ノ瀬は無言で、チェスのクイーンを倒した。


その頃、別室で待機させられていた莉奈にも、九条の証言が(一ノ瀬の手配によって)伏せられた形で伝えられた。 『九条課長は、君が主犯だと言っている。佐藤君を陥れたのは君の独断で、自分は被害者だと』


その瞬間、莉奈の「可愛らしい後輩」という仮面が、激しい怒りによって引き裂かれた。 『嘘……! 嘘よ! あのハゲオヤジ、自分が『佐藤なら大人しいからバレない』って言ったんじゃない! 交際費の領収書を私に切らせて、マンションの頭金にしたのも、全部あの人の指示よ! 私は、私は、言われた通りにしただけなのに!』


二人は、互いの保身のために、最も知られたくない秘密を次々と暴露し始めた。 共犯者という名の絆は、恐怖という毒液によって、跡形もなく溶けていく。 会社の重役たちは、次々と明らかになる九条の不正――取引先からのバックマージン、不適切な接待、そして莉奈への利益供与――の数々に、顔を覆わんばかりだった。


「これで、会社は彼らを切らざるを得なくなります。あの日、あなたを一方的に切り捨てたようにね。……麻衣さん、これが組織の真実です。使えるうちは重宝するが、毒になると分かれば、どんなに優秀な人間でも一瞬で排除する」


一ノ瀬の言葉は、冷たく、そして正鵠を射ていた。 あの日、私を守ってくれなかった会社。証拠があると言っても耳を貸さなかった部長。 彼らもまた、今、自分たちの管理責任を問われ、保身のために九条と莉奈を「極悪人」として仕立て上げようとしている。


悪意が、悪意を食い、巨大な渦となって、すべてを飲み込んでいく。


3. 報酬と、静寂の重み


その日の午後、私は重い足取りで大学病院を訪れた。 復讐が進むにつれ、私の心は軽くなるどころか、逆に深い「静寂」に支配されつつあった。一ノ瀬が言うような快感はある。けれど、その後に訪れる虚脱感に、私はまだ慣れずにいた。


301号室。高木惣一郎は、今日は窓の外を眺めていた。 「……来たか。お嬢さん。今日は、ずいぶん『濃い毒』を浴びてきたような顔をしているね」 老人の声は、まるで私の心を見透かしているようだった。


「……九条と莉奈が、互いに罪をなすりつけ合って自滅していくのを見ました。私の勝ちです。……なのに、どうしてこんなに喉が渇くんでしょう」 私は、ベッドの脇の椅子に腰掛けた。 「勝ったのではない。君はただ、『泥仕合』の観客になっただけだ」 高木は、ゆっくりとこちらを向いた。 「復讐とはな、麻衣さん。相手を倒すことではない。相手の存在を、自分の人生から『無意味なもの』に昇華させることだ。今、君はまだ彼らの動向に一喜一憂している。それは、まだ彼らに自分の人生の一部を支配させているということだよ」


私は、言葉を失った。 「一ノ瀬君は、君に手段を与えた。だが、その手段を使って何を見るかは、君が決めねばならん。……彼はね、かつてすべてを奪われた。私と同じだ」


老人の言葉に、私は身を乗り出した。 「一ノ瀬さんの、過去……?」 「彼は、ある巨大な不正を暴こうとして、逆にすべてを奪われ、愛する者さえも失った。……彼は復讐のために生きる怪物になったのだ。だがな、お嬢さん。彼は君の中に、かつての自分が持っていた『光』を見ているのかもしれない」


高木は、細い指で私の手を包んだ。その手は驚くほど冷たく、けれど確かな重みがあった。 「……話し相手になってくれ、という条件。それは、君が怪物にならないための、彼なりの配慮なのかもしれんよ。死にゆく私に、君の『生』を吹き込んでおくれ。泥沼の復讐話ではなく……君が本来、どんな女性になりたかったのかを」


私は、鼻の奥がツンとするのを感じた。 「……私は。ただ、誠実に生きて、誰かを大切にして、美味しいものを食べて……そんな、普通の幸せが欲しかっただけなんです」 「ならば、その『普通』を取り戻すために戦いなさい。あいつらを地獄に落とすためではなく、君が再び、顔を上げて歩くために」


その日、私は初めて復讐以外のことを話した。 子供の頃に見た海の青さ。母が作ってくれた味噌汁の匂い。いつか行ってみたいと思っていた、遠い異国の街の話。 高木は、子供のように目を輝かせて、私の拙い話を聞いてくれた。 彼と話している間だけは、九条の醜い叫び声も、莉奈の金切り声も、遠い世界の出来事のように思えた。


4. 決着、そして新たな戦場


翌朝、会社から正式な通知が出された。 九条健一は懲戒解雇。佐々木莉奈は諭旨解雇。 さらに会社は、九条による不正経理と横領の疑いで、刑事告訴の準備を進めると発表した。


九条美智子からも、弁護士を通じて連絡があったという。 彼女はあの日、私が送った録音データと、一ノ瀬が提供した九条の裏切りの証拠の数々を手に、圧倒的に有利な条件での離婚を成立させた。九条に残されたのは、膨大な借金と、地に落ちた名誉、そして誰もいない冷え切ったアパートだけだった。


「……終わったんですね」 私は、一ノ瀬の書斎で、解雇通知のコピーを見つめていた。 「いいえ。まだ一点、解決していないことがあります」 一ノ瀬は、最後の一枚のファイルを私に差し出した。 それは、あの日私を一方的に解雇し、今回の不祥事の隠蔽を最後まで試みていた「部長」に関するデータだった。


「九条はトカゲの尻尾に過ぎない。部長は、九条の不正を知りながら、自分に利益が還流する仕組みを作っていた。あなたが濡れ衣を着せられた時、彼が早々にあなたを切り捨てたのは、騒ぎが大きくなって自分の身に火の粉が及ぶのを恐れたからです」


私は、ファイルの表紙を見つめた。 部長。あの時、私の目を見ようともせず、「証拠がすべてだ」と言い放った男。 「……彼も、同じ地獄へ送るべきですか?」


一ノ瀬は、私の目をじっと見つめた。 「それは、あなたが決めることです。麻衣さん。……高木氏から、何か言われたのではないですか?」


私は、高木の言葉を思い出した。 『相手を倒すことではない。……君が再び、顔を上げて歩くために』


「……一ノ瀬さん。私は、あいつらと同じにはなりたくありません」 私はファイルを机に戻した。 「部長の不正の証拠は、匿名で検察とマスコミに流してください。私自身が手を下す必要はありません。法が、そして世間が、彼を裁くでしょう。私はもう、あの場所には戻りません。あんな汚れた場所に、私の居場所なんてなかった」


一ノ瀬は、少しだけ意外そうな顔をした後、微かに微笑んだ。 それは、私が今まで見た中で、最も人間らしい、穏やかな表情だった。


「……賢明な判断です。麻衣さん。あなたは、私よりもずっと強い」


5. 雨上がりの旅立ち


一週間後。 私は、新しく借りた小さなアパートの窓を開けた。 一ノ瀬の洋館を出る時、彼は私に「これからの生活資金」として、まとまった額を渡そうとした。けれど、私はそれを断った。 「……復讐で得たお金で、新しい人生を始めたくありません」


その代わり、私は彼にあるお願いをした。 「一ノ瀬さん。もしよろしければ……これからも、時々、あの方の話し相手に行ってもいいでしょうか」


一ノ瀬は少しだけ驚いたような顔をしたが、「彼は喜ぶでしょう」とだけ答えた。


私は、新しい履歴書を書いていた。 今度の職場は、小さなデザイン事務所の事務職だ。規模は小さいけれど、面接で会った所長は、私の話を、私の目をしっかりと見て聞いてくれた。 「佐藤さん。うちの仕事は地味だけど、嘘だけはつかないでほしい。それだけでいい」 その言葉に、私は涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。


外では、冷たい雨が降り始めていた。 あの日、公園で濡れていた時と同じ、灰色の雨。 けれど今の私は、もう傘を差し出してもらうのを待っているだけの女ではない。 私は自分の足で立ち、自分の手で傘を広げ、雨の中へと踏み出した。


復讐は、終わった。 けれど、私の「本当の人生」は、ここから始まるのだ。


私は、コートのポケットにある、一ノ瀬から渡された一枚の名刺を指先でなぞった。 そこには、新しい彼の連絡先と、ただ一言、手書きでメッセージが添えられていた。


『――君の人生が、輝くものであるように』


私は、降りしきる雨を見上げ、深く呼吸をした。 空の向こうには、厚い雲を突き抜けて、微かな、けれど確かな光が差し込み始めていた。


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