崩壊の序曲、あるいは泥舟の叫び
1. 鏡の中の他人
朝、洗面所の鏡の前に立つと、そこには一週間前までとは別人のような女がいた。 かつての私は、職場で目立たないように、誰からも反感を買わないように、薄いベージュのアイシャドウと控えめなリップを選んでいた。けれど今の私の目元は、一ノ瀬に選ばれた深いボルドーのラインで縁取られ、意志の強さを物語っている。
「……これが、私」 指先で頬に触れる。あの美智子に叩かれた痕はもう消えたけれど、その時の衝撃と屈辱は、今も私の細胞一つ一つに深く刻まれている。
一ノ瀬の洋館での生活は、奇妙なほどに規律正しかった。 彼は私に、復讐に必要なあらゆる「知識」を叩き込んだ。ボイスレコーダーの隠し方、相手の動揺を誘う視線の外し方、そして、自分を「被害者」という呪縛から解き放つためのマインドセット。
「麻衣さん、準備は整いましたか?」 リビングへ行くと、一ノ瀬が朝刊に目を通しながら尋ねた。 「はい。いつでも」 「よろしい。今日、九条から連絡が入ります。彼は今、四面楚歌の状態だ。妻からは離婚と財産分与を突きつけられ、社内でも莉奈との噂が広まり、居場所を失いつつある。溺れる者は、藁をも掴む。彼にとっての『藁』は、あなたです」
一ノ瀬は、私の前に一台のスマートフォンを置いた。あの日、会社を辞める際に解約したはずの私の番号が、なぜか生きている。 「彼は、あなたがすべてを飲み込んで消えてくれたと思っていた。けれど、事態が悪化した今、あなたを呼び戻して『あれはすべて君の独断だった』と証言させようとするでしょう。……彼の『傲慢さ』を、存分に利用しなさい」
2. 墓穴を掘る男
午前十一時。一ノ瀬の予言通り、私のスマートフォンが震えた。 表示された名前は『九条課長』。かつては尊敬の対象であり、今はただの「標的」でしかない男だ。
私は深呼吸をし、一ノ瀬が隣で録音機を回すのを確認してから、通話ボタンを押した。
「……はい」 『佐藤君か! 佐藤君、私だ、九条だ!』 スピーカーから漏れる声は、かつての威厳など微塵もなく、焦燥に満ちていた。 『君、今どこにいるんだ? 連絡が取れなくて困っていたんだ。大変なことになっているんだよ!』
「何のご用でしょうか。私はもう、会社を辞めた身ですが」 声を冷たく、平板に保つ。一ノ瀬の教え通りだ。
『辞めたとか、そんなことはどうでもいい! 昨夜、家内が……美智子が、君とのことは誤解だったと思い込んだまま、別の女性……佐々木さんのことで私を責め立てているんだ。何かの間違いで、君を中傷するようなメールが彼女に届いたらしい』 九条は、自分の不倫を棚に上げ、早口でまくし立てた。 『佐藤君、お願いだ。一度、美智子に会ってくれないか。そして、『あのLINEはすべて私の狂言で、課長を困らせたくてやったことです』と、そう言ってくれ。そうすれば、君には相応の手当を出す。再就職先だって、私のコネでなんとでもしてやるから』
私は、思わず小さく失笑した。 この男は、まだ自分が私を支配できると思っているのだ。自分の家庭を守るために、一度人生を壊した相手に、さらに泥を被れと言っている。
「……課長。それは、私に偽証しろとおっしゃっているんですか?」 『偽証だなんて人聞きの悪い! 君だって、このまま不倫女のレッテルを貼られたまま一生を過ごすのは嫌だろう? 私が『佐藤さんは反省している』と証言してやれば、社内の噂も収まる。ウィン・ウィンじゃないか』
ウィン・ウィン。その言葉が、これほど汚らわしく聞こえたことはなかった。 一ノ瀬が隣で、小さく頷く。私は、彼が示したメモに従って言葉を返した。
「……わかりました。一度、お会いしてお話ししましょう。ただし、二人きりで。今日の十九時、会社近くのあの公園で」
電話を切った後、私は激しい嫌悪感で胃の奥が熱くなるのを感じた。 「……信じられない。あんなことを、よく平気で言えますね」 「それが、特権意識に浸りきった人間の末路です。自分以外の人間は、すべて自分の人生を飾るためのパーツに過ぎない。……ですが、これでいい。彼は自ら、決定的な『証拠』を差し出しにやってくる」
一ノ瀬の瞳が、獲物を仕留める直前の鷹のように鋭く光った。
3. 特別病棟の沈黙
午後、私は約束の「報酬」を支払うために、大学病院を訪れた。 最上階にある特別病棟。そこは、一般の入院患者が立ち入ることを許されない、静謐で排他的な空間だった。
案内された301号室。重いドアを開けると、微かな薬の匂いと共に、窓の外に広がる都心の景色が目に飛び込んできた。 ベッドに横たわる老人は、前日に会った時よりもさらに小さくなったように見えた。
「……来たか。佐藤、麻衣さんだったね」 高木惣一郎は、枯れ葉が触れ合うような声で私を呼んだ。 「はい。……お加減は、いかがですか」 「死ぬのを待っている人間に、加減も何もあるまい」 老人は自嘲気味に笑い、私に椅子を勧めた。 「一ノ瀬君から聞いたよ。君は今、面白いことをしているそうじゃないか」
面白いこと。私の人生を懸けた復讐が、この老人にとっては単なる余興に過ぎないのか。 「……私は、自分を裏切った人間たちを、地獄に落とそうとしています。それを『面白い』と言われるのは、心外です」 「ほう、怒ったか。……いい、それでいい。復讐には熱が必要だ。だがな、お嬢さん。本当の地獄とは、相手を破滅させることではない。……相手が、自分を破滅させたのが『誰であったか』さえも忘れてしまうほど、徹底的にその存在を消し去ることだ」
老人の瞳に、一瞬だけ、かつて権力の頂点にいた者特有の、底知れない冷酷さが宿った。 「一ノ瀬君は、君に『傘』を貸した。だが、その傘をどう使うかは君次第だ。武器にするか、それともただの雨よけにするか」
私は、老人の言葉を反芻した。 「……私は、武器にします。あいつらが、私を嘲笑ったことを後悔するまで、止めるつもりはありません」 「……ならば、話してごらん。君が今日、その男をどうやって罠にかけるつもりなのか。私に、その『悪知恵』を聞かせてくれ」
私は、九条との電話の内容、そして今夜の計画を、詳細に話した。 老人は、時折目を閉じ、私の言葉を味わうように聞いていた。話し終えた時、彼は満足そうに深く息を吐いた。
「……合格だ。一ノ瀬君が君を選んだ理由が、少し分かった気がする。君には、人を惹きつける『清らかさ』と、それを裏切られた時に生まれる『猛毒』が共存している」
病室を出る時、背中に老人の声が届いた。 「……麻衣さん。一つだけ覚えておきなさい。復讐を終えた後、鏡を見るのが怖くなったら、またここへ来なさい。……その時、君は初めて私の本当の役割を知ることになるだろう」
その言葉の意味を深く考える余裕は、今の私にはなかった。 頭の中は、数時間後に迫った九条との対峙で占められていた。
4. 雨上がりの処刑場
十九時。約束の公園。 あの日、私を一ノ瀬が拾ってくれた場所だ。 街灯が寂しく照らすベンチに、九条は落ち着かない様子で座っていた。高級なコートを羽織っているが、その中身は恐怖で震える小動物のようだった。
私が近づくと、彼は弾かれたように立ち上がった。 「佐藤君! 来てくれたか! ……ん? 君、なんだか雰囲気が変わったな」 九条は、私の洗練された装いに戸惑いを見せたが、すぐに醜い本性を露わにした。 「まあいい、座ってくれ。……さっきの件だが、承諾してくれるね? 君がすべてを認めれば、私は君のこれからの人生を保障する」
私は、バッグの中に忍ばせたICレコーダーのスイッチが入っていることを確認し、静かに口を開いた。 「課長。確認したいのですが、あの不倫の証拠とされたLINEは、佐々木さんが私の名前を使って作成したものですよね? あなたも、それを知っていて、奥様に私が相手だと言ったのですね?」
九条は、周囲を警戒するように見回してから、声を潜めた。 「……ああ、そうだ。莉奈が気を利かせてくれたんだよ。君なら大人しいし、多少の泥を被せても騒がないだろうって。実際、君は黙って辞めてくれた。あのまま消えてくれれば、誰も不幸にならなかったんだ」
誰も不幸にならなかった。その「誰か」の中に、私の名前は入っていないのだ。 「課長の家庭を守るために、私のキャリアも、名誉も、すべて犠牲にしても構わなかった、ということですか」 「犠牲なんて大げさな! 私は君にチャンスを上げると言っているんだ。私の指示通りに動けば、今の給料の倍は払う。これで手を打て。いいだろう?」
九条は、懐から一通の封筒を取り出した。厚みからして、数十万円の現金が入っているのだろう。 「これを、あの日のお詫びと、これからの協力金だと思って受け取ってくれ。……佐藤君、君は賢い女だ。敵に回せば恐ろしいが、味方にすればこれほど心強いことはない。これからも、いい関係でいようじゃないか」
彼は、私の肩に手を置こうとした。その手が触れる直前、私は一歩身を引いた。 「……課長。一つだけお伝えしておきます。私は、あなたの味方ではありません」 「何……?」 「そして、いい関係でいることも、二度とありません」
私はスマートフォンを取り出し、画面を彼に見せた。 そこには、今この瞬間までリアルタイムで送信されていた、ある人物へのメッセージログが表示されていた。
送信先は――九条美智子。
『今、課長がすべての真実を話してくれました。録音もしています。私の無実は、これで証明されました』
「な……っ、お前! 何をした!」 九条の顔が、土色を通り越して真っ白になる。 「美智子さんだけではありません。この録音データは、明日の朝一番で、本社のコンプライアンス委員会、そしてすべての役員に一斉送信されるよう設定してあります。……課長、あなたが私に言った『偽証の強要』と『口止め料の提示』。これは、決定的な不祥事ですよ」
「佐藤、貴様……っ!」 九条が激昂して私に掴みかかろうとした。 しかし、その腕を、背後から伸びてきた力強い手が制した。
「……公共の場で女性に暴力を振るうのは、お勧めしませんよ。九条さん」
闇の中から現れたのは、一ノ瀬だった。 彼は九条の腕を軽々とひねり上げ、地面に膝をつかせた。 「一ノ瀬、さん……?」 「遅くなりました、麻衣さん。……さて、九条さん。あなたの『完璧な人生』の賞味期限は、たった今切れました」
九条は、地面に這いつくばりながら、信じられないものを見るような目で私たちを見上げた。 「誰だ……お前は誰なんだ! 佐藤、お前、こんな男と……!」 「私は、彼女の正当な権利を守るためのエージェントですよ。……ああ、そうそう。もう一つ。あなたが莉奈さんに買い与えたマンションの資金。あれ、会社の交際費を不正に流用していますよね? その証拠も、莉奈さん本人から提供していただきました」
「え……?」 九条が絶句した。 「莉奈が……俺を裏切った……?」
「彼女にとっては、自分の将来の方が大事ですから。……彼女も今頃、別の場所で後悔している頃でしょうがね」
一ノ瀬は冷たく言い放つと、私の肩を抱き寄せた。 「行きましょう、麻衣さん。ここには、もう用はありません」
背後で、九条の獣のような叫び声が響いた。 すべてを失い、闇の中に放り出された男の、無様な断末魔だった。
5. 毒の花が咲く頃
車に戻ると、一ノ瀬は無言でミネラルウォーターを渡してくれた。 「……莉奈さんは、本当に証拠を?」 「ええ。彼女には『あなたを救うための交換条件』だと言って、九条の不正の記録を持ち出させました。もちろん、彼女自身もその不正に加担していた証拠として、一緒に提出しますがね」
一ノ瀬のやり方は、徹底していた。 九条と莉奈。かつては共犯者として私を陥れた二人が、今や互いの保身のために、相手の首を絞め合っている。 「……これで、終わりじゃないんですよね」 「もちろんです。これは、彼らの社会的抹殺の序章に過ぎない。これから、会社全体を巻き込んだ大きな嵐が起こります。……麻衣さん、あなたはこれから、その嵐の中心に立つことになります」
私は、窓の外を眺めた。 雨上がりの街の光が、滲んで見える。 あの日、ここで泣いていた私は、もうどこにもいない。 私の中に咲いた復讐という名の猛毒の花は、今、最も美しく、そして残酷な香りを放ち始めている。
「一ノ瀬さん。……明日、また病院へ行ってもいいですか」 「……ええ。高木氏も、あなたの話を楽しみにしているでしょう」
一ノ瀬の声に、わずかな温もりが混じったような気がした。 けれど、私はそれを確かめることはしなかった。 私たちを結んでいるのは、信頼でも愛でもない。 「復讐」という名の、血よりも濃い契約なのだから。




